心身統一の四大原則
①臍下の一点に心をしずめ統一する。
②全身の力を完全に抜く。
③身体のすべての部分の重みをその最下部におく。
④氣を出す。
この四つの原則は、仕事をしながらでも、寝ながらでもできる。よく「名人に二代目なし」といわれるが、それは名人・達人と呼ばれる人たちは自分でも氣づかずに心身統一を会得し、技に磨きをかけていても、その理屈がわからず弟子たちに教えることができなかったのだろうと思う。会得したものを教えられないのでは意味がない。次の項では、四大原則の一つ一つについて、わかりやすく解説してみよう。臍下の一点に心をしずめ統一する日本では古くか「腹」を大事にしてきた。「腹を決める」「腹を据える」「腹に収める」「腹が太い」、そして心から笑うことを「腹が笑う」といい、信頼できる人と本心を語るのを「腹を割って話す」という。死地に赴いたり、絶体絶命のところに追い込まれたりすると自然に腹ができてくるが、その難局を乗り越えて初めて腹ができるのであって、難局に腰を抜かしたりガタガタしたりしているようでは腹などできるものではない。そのために先人は座禅したり、滝に打たれたりして、事前に腹を鍛えることに励んだのである。あるドイツ人が日本で弓の修行をし、帰国して「HARA」、つまり「腹」というタイトルの本を出版してベストセラーになった。後に日本語で出版されたので読まれた方もたくさんいるだろうが、何のことはない、逆輸入である。頭でものを考え、理知的にものを処理することに慣れた欧米人が「腹」という本に関心を持ったというのは注目に値する。その結果、禅や茶道などを求める欧米人が増えたことも事実である。私も腹を鍛えようと、若い頃参禅に励んだ。京都の老師から座禅を学んだとき、「臍下丹田に力を込めて、しっかり坐れ」と教えられた。臍はヘソのことで、丹田は下腹部の面積を意味する言葉であるから、「臍下丹田に力を込める」というのは、つまり「下腹にぐっと力を入れろ」ということなのである。
それで、私もいわれたとおりに「ウン、ウン」と力みながら坐ったのだが、頭に血は上ってくるし肩はこる。昔の人はこのつらさを乗り越えてきたのだからと思い、心を奮い立たせて坐っていたが、徹夜では眠りに落ちてしまったりして心身統一どころではない。やはり、どこかに無理があるのだ。「臍下丹田に力を込めろ」という座禅の方法は理屈に合っていないことを感じていた。田で農作業を手伝っていたとき、下腹に力を入れて鍬を使ったらすぐに疲れてしまい、続かなかった。それに鍬を十分に使うことができなかった。合氣道の稽古のときも、下腹に力を入れては技も相手にかからない。道を歩くときも、下腹に力を入れたのでは歩けない。つまり、日常生活の上でまったく役に立たないのである。軍隊時代、戦地の中国で、敵地への夜間偵察に何度も出かけた。10人ほどの兵隊を連れ、足音がしないように地下足袋をはいて出かけるのである。初めての偵察のとき、下腹に力を込めて「さあ、行くぞ」と氣合いを入れるのだが、いっこうに心がしずまらない。力を入れれば入れるほど心臓がどきどきしてくる。いつ弾丸が飛んでくるかわからない敵地の暗闇に足を入れるのだから、氣持ちいいはずがない。そうかといって下腹など役に立たないと放棄してしまうと、暗闇が目の前に立ちはだかって一歩も敵地に入っていけない。それではしかたなく、「まあ下腹は大事だから、下腹に氣をつけて出かけよう。なんとかなるだろう」と出かけたら、以外と度胸がつき、後は割合楽だった。
そんな偵察を繰り返しているうちに、「そうだ。下腹は力を込めるところではなく、心を集中する場所だ。つまり氣を下腹に集中させるのだ」と氣がついた。しかし、臍下丹田、つまり下腹では心を集中させるのには広すぎる。やはり一点に帰さねばならない。そこで私は心をしずめるのは「臍下の一点である」としたのである。臍下の一点とは、ヘソ下約10センチぐらいのところで、昔から「ヘソ下三寸」と呼ばれてきたところである。この一点を指で押さえ、下腹に力を入れてみて、もし力が入るようだったらその一点は少し位置が高い。徐々に位置を下げると、力を入れようとしても入らない場所ある。そこが臍下の一点である。臍下の一点はどんなに力を入れようとがんばっても入らないところだから、ここに心を集め、しずめれば、全身の力も抜けてくる。これが本当のリラックスなのである。心をしずめるということを、どうしても難しく考えてしまう人がいる。だが、無理に意識しなくとも「臍下の一点はここにある」と思っていれば自然に心はしずまり、そして統一ができてくるのである。
①臍下の一点に心をしずめ統一する。
②全身の力を完全に抜く。
③身体のすべての部分の重みをその最下部におく。
④氣を出す。
この四つの原則は、仕事をしながらでも、寝ながらでもできる。よく「名人に二代目なし」といわれるが、それは名人・達人と呼ばれる人たちは自分でも氣づかずに心身統一を会得し、技に磨きをかけていても、その理屈がわからず弟子たちに教えることができなかったのだろうと思う。会得したものを教えられないのでは意味がない。次の項では、四大原則の一つ一つについて、わかりやすく解説してみよう。臍下の一点に心をしずめ統一する日本では古くか「腹」を大事にしてきた。「腹を決める」「腹を据える」「腹に収める」「腹が太い」、そして心から笑うことを「腹が笑う」といい、信頼できる人と本心を語るのを「腹を割って話す」という。死地に赴いたり、絶体絶命のところに追い込まれたりすると自然に腹ができてくるが、その難局を乗り越えて初めて腹ができるのであって、難局に腰を抜かしたりガタガタしたりしているようでは腹などできるものではない。そのために先人は座禅したり、滝に打たれたりして、事前に腹を鍛えることに励んだのである。あるドイツ人が日本で弓の修行をし、帰国して「HARA」、つまり「腹」というタイトルの本を出版してベストセラーになった。後に日本語で出版されたので読まれた方もたくさんいるだろうが、何のことはない、逆輸入である。頭でものを考え、理知的にものを処理することに慣れた欧米人が「腹」という本に関心を持ったというのは注目に値する。その結果、禅や茶道などを求める欧米人が増えたことも事実である。私も腹を鍛えようと、若い頃参禅に励んだ。京都の老師から座禅を学んだとき、「臍下丹田に力を込めて、しっかり坐れ」と教えられた。臍はヘソのことで、丹田は下腹部の面積を意味する言葉であるから、「臍下丹田に力を込める」というのは、つまり「下腹にぐっと力を入れろ」ということなのである。
それで、私もいわれたとおりに「ウン、ウン」と力みながら坐ったのだが、頭に血は上ってくるし肩はこる。昔の人はこのつらさを乗り越えてきたのだからと思い、心を奮い立たせて坐っていたが、徹夜では眠りに落ちてしまったりして心身統一どころではない。やはり、どこかに無理があるのだ。「臍下丹田に力を込めろ」という座禅の方法は理屈に合っていないことを感じていた。田で農作業を手伝っていたとき、下腹に力を入れて鍬を使ったらすぐに疲れてしまい、続かなかった。それに鍬を十分に使うことができなかった。合氣道の稽古のときも、下腹に力を入れては技も相手にかからない。道を歩くときも、下腹に力を入れたのでは歩けない。つまり、日常生活の上でまったく役に立たないのである。軍隊時代、戦地の中国で、敵地への夜間偵察に何度も出かけた。10人ほどの兵隊を連れ、足音がしないように地下足袋をはいて出かけるのである。初めての偵察のとき、下腹に力を込めて「さあ、行くぞ」と氣合いを入れるのだが、いっこうに心がしずまらない。力を入れれば入れるほど心臓がどきどきしてくる。いつ弾丸が飛んでくるかわからない敵地の暗闇に足を入れるのだから、氣持ちいいはずがない。そうかといって下腹など役に立たないと放棄してしまうと、暗闇が目の前に立ちはだかって一歩も敵地に入っていけない。それではしかたなく、「まあ下腹は大事だから、下腹に氣をつけて出かけよう。なんとかなるだろう」と出かけたら、以外と度胸がつき、後は割合楽だった。
そんな偵察を繰り返しているうちに、「そうだ。下腹は力を込めるところではなく、心を集中する場所だ。つまり氣を下腹に集中させるのだ」と氣がついた。しかし、臍下丹田、つまり下腹では心を集中させるのには広すぎる。やはり一点に帰さねばならない。そこで私は心をしずめるのは「臍下の一点である」としたのである。臍下の一点とは、ヘソ下約10センチぐらいのところで、昔から「ヘソ下三寸」と呼ばれてきたところである。この一点を指で押さえ、下腹に力を入れてみて、もし力が入るようだったらその一点は少し位置が高い。徐々に位置を下げると、力を入れようとしても入らない場所ある。そこが臍下の一点である。臍下の一点はどんなに力を入れようとがんばっても入らないところだから、ここに心を集め、しずめれば、全身の力も抜けてくる。これが本当のリラックスなのである。心をしずめるということを、どうしても難しく考えてしまう人がいる。だが、無理に意識しなくとも「臍下の一点はここにある」と思っていれば自然に心はしずまり、そして統一ができてくるのである。