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氣の威力a

2020年03月26日 | 健康増進
氣の威力a
氣で病を癒す「氣」は根源的な生命エネルギー私たちが人生を営むためには、衣、食、住、そして水と空氣が必要である。では、この五条件を満たすことで人間は生きられるのかといえば、答えはノーである。もう一つ不可欠なものがある。それが「氣」である。では、「氣」とは何か。わかりやすくイメージしてみよう。海に入って海水を両手で囲ってみる。そして、「これは私の水だ」と主張する。たしかに自分の手で囲っているから、それは「自分の水」かもしれないが、水自体は大海の水に変わりはない。手を離せばすぐ海の水になるし、また手を離さなくとも水は海の一部であり、常に交流している。私たちの生命も同じことがいえる。天地の氣の一部を自らの五体で囲って、「これは私だ」と主張しているだけなのだ。身体は「私」であっても、氣自体は天地の氣である。体内の氣がいつも天地の氣と交流しているのが自然であり、そうした状態を「生きている」といい、氣の交流が完全に止まった状態を「死」というのだ。ここでいう天地とは、単純に空と地面を示すものではない。私のいう天地とは絶対的天地、すなわち無限大に広がる大宇宙そのものをさしている。天地は、無限の半径で描いた無限の円周である。だから、私が右へ一歩動いたとしても、天地は右方が一歩短くなったということはない。相変わらず無限なのである。上下左右、前後、どの方向に対しても無限であるということは、「私は天地の中心である」と思っても少しもおかしくない。もちろん、天地の中心であるのは「私」だけではない。万物すべてが天地の中心なのである。釈迦は、これを「天上天下唯我独尊」といって教えたが、残念ながら後世の坊さんたちは、釈迦だけが独り尊いと間違えてしまったのだ。また、天地は無限に小なるものの無限の集まりと定義できる。一を二分の一にしても、そのもの自体は一である。これを二分一、二分の一と無限に続けても決してゼロにはならない。なぜならゼロより一は生じ得ないからだ。

つまり無限小が存在する。私はこの「無限に小なるものの無限の集まり」を総称して「氣」と呼んでいるのだ。具体的な例をあげて説明しよう。燦々とふりそそぐ太陽の光。この太陽は現在燃えているだけだが、燃え始める前はなんであったか。さらにその始めは?……とさかのぼって考えると、結局、「何もないが、何かあった状態」と答えるしかない。人間は何であったか。母親のおなかの胎児、その前は父親の精子と母親の卵子の結合、さらにその前はと探っていったら、あなたはなんと答えられるだろうか?だいたい母親も父親も、2~3歳の頃には卵子や精子などは体内に発見できない。成長するとともに体内に組成されていったのだ。その間に食べた米や大根やナスに、卵子や精子の素が入っていたわけではない。もし、あなたの父親が食べた大根に入っていたとすれば、あなたは「大根の子」だし、ナスだったら「ナスの子」ということになってしまう。結局、人間も、何もないが何かあった状態から生まれてきたのである。こう考えてくると、私たち人間はもちろん、草や木、大自然、地球、太陽、星、宇宙のすべてのものが、この「何もないが、何かあった状態」つまり無限小、「氣」から生じたということである。この氣のことを、全能の神と呼ぼうと、仏と呼ぼうとかまわない。それは、ただ名称が異なるだけなのである。万物すべて氣より生ず。万物皆同根。この真理を見つめることで、人類愛を超えた慈悲の心、万有愛護の精神が生まれてくる。氣は根源的な生命エネルギーなのである