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野口体操

2020年04月08日 | 健康増進
野口体操
「力を抜く」という事実とその実感が分からなければ、「力を入れる」という事実も実感も分かりようがない。この基礎的事実と実感のないところでは、どんな理屈も実技も空論となり、無意味なものとなる。いま自分がここに見ているものが、事実としてここに在るとは限らない。人間はいわゆる客観的に事実そのものを見ているつもりでも,その場の関係によって、在る方向へ「錯覚することの出来る能力」を与えられている、というように言いたい。たよりなさ、もどかしさ、ちぐはぐ、いらだたしさ、なさけなさ、………そして、うれしさ、よろこばしさ、………人間が五感と読んでいる「視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚」と言うような情報受容の感覚器,人間にこの分析的な感覚が与えられた為に,人間は対象を分析的に認識する能力や思考・表現する能力と言う長所を発達させた。

しかし,このことは同時に,五つの感覚以外のまだよくわからない情報受容能力の発達を妨げ,さらにそれを退化させてしまった。感覚とは錯覚のことである。錯覚以外の感覚は事実としては存在しない。理解とは誤解のことである。誤解以外の理解は事実としては存在しない。判断とは独断のことである。独断以外の判断は事実としては存在しない。意見とは偏見のことである。偏見以外の意見は事実としては存在しない。「事実と感覚と意識と表現」の間には,それぞれ多くのズレがあることを忘れてはならない。コトバは、人が神に対する呪術的な祭りの祈りのコトバに始まる。生きることのたたり(崇)に対する恐怖のコトバが根源的出発点であろう。,障碍(しょうがい)によって意識が生まれるように,怖れによって祈りが生まれ,その祈りがコトバなのである。人間が生きていくことにとって,国家的政治的枠組みが唯一最高の基盤ではない。気候・風土やその中から生まれた言語・宗教・風俗・習慣価値観………などの文化の伝統が優先する。

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