楊に風と受け流す

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『猫背の王子』 中山可穂

2005-05-25 00:34:05 | 現代文学
今日は、俊英の作家・中山可穂さんの『猫背の王子』を紹介しようと思います。


[概要]
主人公・王寺ミチルは、女から女へと渡り歩く淫蕩なレズビアンにして、芝居に全生命を賭ける演出家。
彼女が主催する小劇団・カイロプラクティックは、
異色の劇団だが熱狂的なファンに支えられていた。
しかし、信頼していた仲間の裏切りがミチルから全てを奪っていく。
そして、ミチルにとって最後の公演の幕が開けられた・・・。



この作品は、著者である中山可穂さんのデビュー作です。
概要をご覧になって分かるように、主人公・王寺ミチルはレズビアン。
少年のような容姿に男性性器を持たない肉体。
そして、危うく破滅的な演技は、年齢・性別を超えて人々を魅了する。
公演を前に、男性に負けたくないばかりにボロボロになるまで働き、疲れた心を女を抱くことで癒すのだ。


 「そんなに人から嫌われたいの?
 ほんとは愛されたくってしかたないくせに。
 あなた異常よ。見ていて苦しいわ。
 もっと素直になりなさい。」



王寺ミチルは、一般的な大多数の女性とは異なった価値観を持った人間である。
もちろんそれは、彼女がセクシャルマイノリティー(性少数派)に属していることもあるだろう。
しかし、私にはもっと別の特異な領域に属しているように思える。


彼女は、性的嗜好のみが多くの男性と同じだけでなく、行動・思考までも男性に近いのだ。
しかし、単純にSEX(性別)だけが女性で、
その他ジェンダー(社会的・文化的性)は男性かというと、そう簡単なものではない。
「感性」は、時に女性であり、時に男性になるのだ。

そして彼女は、女性として女を抱き、少年を演じながらも、“女優”王寺ミチルとして多くの観客を骨抜きにする。
芝居の持つ猥褻さと神聖さが同居した激しく破滅的な演技同様、
彼女自身も周囲を傷つけ孤独に陥り自ら破滅への道をたどる。

――――ほんとは愛されたくてしかたないくせに――――

それでもそんな彼女に神の手を差し伸べてくれる人たちさえ、彼女は心の底から愛することができない。


結局、彼女は自分自身しか愛していないのだ。



SEX・ジェンダーを超えた王寺ミチル。




実は、この本の作者である中山可穂さんも、
何を隠そう作品の主人公・王寺ミチルと同じセクシャルマイノリティーなのだ。
しかも、中山可穂さんも以前、演劇に関わる仕事をしていたというが、これは作者自身の私小説ではない。
この小説は中山さんにとって、(この一本では完成させられないが)一種の

【青春の儀式】

だといっている。


私は、この作品と出会って今までにない、新たな視点を手に入れた気がする。
自由の裏には義務があるというが、
裏の裏、つまり自由と対等なところには「孤独」が存在すると思う。
それを体現しているのが、この『猫背の王寺』で著されるものではないだろうか。