徒然なるままに……日々の出来事を

身の回りに起こる驚きや、小さな発見

東海道あるき旅⑧(茅ヶ崎~大磯)

2015-03-09 | 東海道あるき旅

 茅ヶ崎は、思っていたよりも大きくて立派な街でした.

キョロキョロと周りを見回しながら、初めての街をワクワクしながら歩きました。

 

 街の中心街を少し過ぎたあたりに鶴嶺八幡宮の参道があり、その脇にある民家の庭の片隅に、弁慶塚がありました。 

頼朝の乗った馬が源氏ゆかりの鶴嶺八幡宮に差しかかった時、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、

それに驚いた馬が棒立ちとなり、頼朝は落馬してしまったそうです。  頼朝は重傷を負い翌年亡くなったと言われています。

そこで、里人は弁慶塚を造って、義経一族の霊を慰めたと伝えられています。

 

 

  南湖左富士(なんこひだりふじ)の碑

   

  江戸を出てから旅人は富士山を右手に見ながら旅を続けてきましたが、ここで初めて富士山を左手に見ることになります。

 そのわけは、西に向かっていた東海道の道筋がここから右に曲がり、道が北に向って進むわずかな距離があるからです。

 その間だけ、富士山が左側に見えるのです。

 上の石碑の写真で、お天気が良ければ車の向こう側に雪の富士山が見えるはずでした。

 残念ながら曇っていたので見ることが出来ませんでした。

 

☆  でかまん

  東海道名物の「でかまんじゅう」です。

 大きさは6種類あり、一番大きいのは縦32cm×横22cmもありました。

 見かけより美味しく、餡の甘さも上品でとても美味しかったです。機会があればまた是非とも食べたいです。

 

 

☆  旧相模川橋脚

 
関東大震災の時に、液状化現象により水田の中から鎌倉時代の橋脚が出現しました。
鎌倉時代の相模川は、今より少し東寄りのこのあたりを流れていたようです。
現在目にするのはレプリカで、実物は保存のため地下の元あった位置に埋設されているそうです。

 

いよいよ、平塚市にはいります。

 

☆  馬入川(ばにゅうがわ)と馬入(ばにゅう)の渡し

   相模川の河口近くを馬入川と呼びます。頼朝の馬が暴れて川に入ったからその名が付いたと言われているようです。

  江戸時代には現在の場所を流れていて、橋は架けられていなくて舟渡しでした。

  渡船時間は明け六つから暮れ六つまでで、夜間の渡河は禁じられていたそうです。

  増水や強風時は「川留」といい、渡船は禁止となりました。

  明治19年に橋が架けられ渡船は廃止となったそうです。

 

 
海へと連なる河口付近                                 対岸には平塚市が見えます。    

 

☆  馬入一里塚跡


日本橋から15里目の一里塚       

 

 
                                      平塚市内   

 

 

☆  お菊塚

      怪談「番町皿屋敷」に登場するお菊の墓跡である紅谷町公園に、お菊塚がありました。

  お菊は、平塚宿の役人の娘だったのだそうです。

 

 

 

☆  平塚江戸方見附跡

 

 

 

通りの向こうに小高い山が見えてきました。”高麗山です。

歌川広重の「東海道五十三次 平塚」に描かれている山です。昔は、高い建物などはないので、よく見えたのですね~

 

 

☆  平塚脇本陣跡

 

 

 

☆  平塚高札場跡

 

 

 

☆  平塚本陣跡・問屋場跡

 
  本陣跡                                          問屋場跡

 

☆   平塚の碑

    天安元年(857年)坂東平氏の始祖といわれた平政子が、一族とともに東国へ向かう途中ここで没したため、

  平らな塚を築き葬ったそうです。この塚を「ひら塚」(もとは「たいらつか」と呼んだ)といい、平塚の地名の起こりとなったそうです。

 

 
                                お花がとても綺麗でした。

 

☆   平塚京方見附跡

 
                                  京方見附あたりからの高麗山

 

 平塚京方見附を過ぎ、 大磯町に入ります。

  
                                   高麗山と花水川(金目川) 

 
                                             長閑な雰囲気がして癒されます。

 

☆   高来(たかく)神社

   高麗山の麓にある神社。

  この辺りは「高麗」や「高来」と呼ばれるが、国を追われた高句麗の王族や従者の一部が渡来しこの辺りに住んだことから、

  そう呼ばれるようになったそうです。

 

 

  

 

☆   化粧坂(けわいざか)と虎御前化粧井戸 

   鎌倉時代に大磯には宿場があり、宿の中心はこの化粧坂あたりで、多くの白拍子(遊女)が住んでいたそうです。

  曽我兄弟の兄・十郎祐成(すけなり)の恋人であった白拍子・虎御前が井戸の水を汲み化粧をしたという伝説(化粧井戸)があります。  

 

 
  化粧坂の一里塚跡・・・日本橋より16里目                   「 東海道53次 大磯 」

 
 大磯宿江戸方見附跡                              この辺りに一部松並木が残っていました。

 

 

 次回は日本橋から八番目の大磯宿を歩く予定です。

明治の別荘地としても有名な大磯なので、とても楽しみです。

 

 


東海道あるき旅⑦(藤沢~茅ヶ崎)

2015-03-08 | 東海道あるき旅

 藤沢は、日本橋から12里18町(約50Km)離れた所にあり、

鎌倉時代以来、遊行寺の門前町として発展してきました。

交通の便もよく、八王子・厚木・江の島・鎌倉・大山への通り道として、多くの人々が訪れ賑わいました。

藤沢宿の概要は、以下の通りでした。

 本陣1軒  脇本陣1軒  旅籠45軒  問屋場2軒  総家数919軒  人口4089人  / 天保14年(1843年)時

 

 今回は、遊行寺を出てすぐの所にある遊行寺橋から出発しました。

 
         遊行寺橋・・・・赤い欄干が目立ちきれいでした。

 
      高札場跡・・・遊行寺橋を渡ってすぐの所にありました。

 

しばらく進むと豊島屋本店とラーメン屋「小松屋」が見えてきました。

鳩サブレで有名な鎌倉の豊島屋は、こちらの豊島屋さんの分家だそうです。

小松屋は、昔、小松屋源蔵が営んでいた旅籠(飯盛旅籠)小松屋があった所で、今はラーメン屋さんになっていました。

屋号だけはそのまま受け継がれているようです。

  
  豊島屋本店                                     ラーメン「小松屋」

 

 

  
問屋場跡(人馬の継立を行う宿場の重要な役所です。               蒔田本陣跡
       馬100疋、人足100人が常置されていました。)

 

★  常光寺

   浄土宗のお寺。境内には天然記念物のカヤの木がありました。

  県の名木百選にも指定されているそうです。

 
カヤの木

 

★  永勝寺

  宿場の旅籠には、飯盛女のいる旅籠(飯盛旅籠)と飯盛女のいない旅籠(平旅籠)、それから木賃宿の三種類がありました。

 飯盛旅籠と平旅籠は1泊2食付で、木賃宿は自炊の薪代を払って泊る宿です。

 永勝寺には飯盛旅籠「小松屋」の主人・小松屋源蔵の墓があり、主人の墓を囲むように39基の墓石が建っています。

 小松屋で働いていた飯盛女たちのものです。彼女たちの多くが30歳未満でなくなっています。

 飯盛女たちは亡くなると、宿場の外れにある投げ込み塚に放り込まれるのが普通でした。

 このような形で葬られている例は見当たらず、小松屋の主人の温情が偲ばれるということでした。

 でも、生きる為とはいえ苦界に身を落とした娘たちの短い人生が哀れでなりません。

 

 

 

 

 

★  義経首洗井戸

 
奥州平泉で敗死した義経の首が、平泉から鎌倉へ送られ、首実検の後、片瀬の浜へ捨てられました。その首が境川をさかのぼって、
この辺りに漂着しました。里人が拾いあげこの井戸で洗い清めたと伝えられています。

 

★  白旗神社

   宝治3年(1249年)義経の首が合祀されて以来、源氏の白旗に因んで白旗神社と称したと伝えられています。

  かなり広くて大きな神社でした。

 

 

  
源義経公鎮霊碑                   弁慶藤と芭蕉句碑                  庚申塔群

 

★  おしゃれ地蔵

 メルシャンワイン藤沢工場のすぐ近くの道路脇に、おしゃれ地蔵がありました。

 「女性の願い事なら何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする」と伝えられているそうです。

 本当に、お顔には白粉と口紅が塗られていました。いつまでも美しくいられますようにと、皆真剣にお祈りしていました。

  
                                                        メルシャン工場からワインの香りが漂ってきます。

 

★  四谷大山道標・辻堂一里塚跡

   東海道から大山道が分岐する四谷の追分に建てられている道標です。

  この先に13里目の辻堂一里塚の碑があります。

  
この先大山道、大山まで6里です。

 

★  二ツ家稲荷神社

   この辺りに二軒の立場茶屋があったので二ツ家と呼ばれるそうです。

  境内には庚申供養塔がありました。

 

 
庚申供養塔

 

      

 いよいよ、茅ヶ崎市に入ります。

この辺りは、松並木が続き、東海道を歩いているという感じがします。これで富士山がみえれば申し分ないのですが・・・・

昔は遮るものもなく、左手には相模湾も見え、きっと素晴らしい景色だったのではないかと思います。

 

 

★  上正寺

 

 

★ 海前禅寺

  

  

 

 

★  茅ヶ崎一里塚

   日本橋から14里目の一里塚です。

  道の南北に塚があり、南には松、北にはエノキが植えられていました。

  現在は南側のみ残されています。

  平成22年、北側の塚も”平成の一里塚”としてエノキが植えられるなどして整備されました。

  何年か後には、りっぱな南と北の塚が見られるかもしれませんね。

 

 
                                                 平成の一里塚

 

 茅ヶ崎は、藤沢宿と平塚宿の間にあって「間の宿」と呼ばれていました。

宿泊のできる茶屋や荷物の運送ができる荷宿があり、宿場の機能を有していたからです。

大きな立場が三か所もあり、茶屋が建ち並び商店や駕籠屋もあり、賑やかな繁華街だったようです。

 

この辺りまで来ると、所々に松並木も残っていて昔の旅人の気分に浸ることも出来ます。

それにしても京都は、まだまだ遥かかなた。

さて、いつになったら行き着く事やら