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東海道あるき旅④(神奈川~保土ヶ谷)

2014-12-20 | 東海道あるき旅

 今回は、JR東神奈川駅(京急では仲木戸駅)から歩き始めました。 

神奈川宿は、江戸から三番目の宿場として開設されました。

現在でも神奈川県の県名として残っているこの宿場は、海沿いに約2Kmの町並みが続く長い宿場町でした。

諸国の廻船が出入りし、物資の集散地としてにぎわい、西の高台は富士山や房総の山々を望む景勝地で、 

料理茶屋が並び多くの人々で賑わっていたようです。

”滝の橋”を挟んで2軒の本陣・問屋場・高札場がありました。

 

幕末、日米和親条約締結の場となり、ついに日本は、下田と函館を開港し、長かった鎖国に別れを告げたのでした。

条約締結後、宿内の寺院は諸外国の公館として利用されました。

 

☆  金蔵院

  
神奈川御殿(将軍上洛時の宿泊所)が造営されるまで、将軍の宿泊所として使われていたお寺です。

 

 

  熊野神社     

 
     慶應4年の神奈川大火、昭和20年の戦災で火を被ったけれども、見事に蘇った大銀杏の木が境内にありました。

 

 

  高札場


かなり大きな高札場でした。神奈川地区センター前に復元されていました。

地区センター内には神奈川宿の模型も復元されていて、海沿いに町が続き、沖には台場が造られている様子がよくわかります。

西の方は高台になっている地形もよくわかります。

 地区センター前の通り、 松並木が素敵でした。

 

 

☆  成仏寺

 

 

  慶運寺

開港当時はフランス領事館に充てられていました。

幕末に、火災で廃寺となった観福寺から、浦島太郎が乙姫様からいただいたとされる浦島遺品を

譲り受け保存しているそうです。別名・”うらしま寺”とも言われているようです。

                               
                                                             お寺のすぐ横に電車が通っています。

 

 

☆  浄瀧寺  

  

 

 

☆  神奈川の大井戸

 

東海道の名水として有名だったそうです。

井戸の水量が増えると翌日の天気が良くなるといわれ「お天気井戸」とも呼ばれていたそうです。

 

 

  宗興寺

ヘボン博士が当寺院に診療所を開設し、日本人の多くの患者を無料で診察したそうです。

 

 

 

☆  神奈川台場跡

台場は、海に突き出た神奈川沖に造られていましたが、今では石垣の一部が残るのみでした。

埋め立てにより、周りには高いビルが建ち、海は全然見えませんでした。

  

 

 

☆  洲崎神社

宮前商店街を入ってすぐの所にありました。(宮前商店街の所から、街道は海べりをそれ内陸の方へ入っていきます。)

この辺りも、昔は海の近くだったのですが、全くその面影はありませんでした。

 

 
                             静かで凛とした素敵な神社でした。

 

 

  本覚寺

京急神奈川駅のすぐ横の青木橋を渡ると本覚寺が見えてきます。

このお寺も電車からよく見かけていたお寺です。横浜駅周辺の高層ビル群がもうすぐ傍に見えます。

アメリカ総領事・ハリスの希望により4年間アメリカ領事館として使われていたそうです。

 

 

 

 

 

☆  台町茶屋街跡

緩やかな登り坂を行った辺りが台町です。、昔は料理茶屋が並び、広重の錦絵にも描かれているように、

海が見える景色のいい所だったそうですが、現在は、高いマンションなどが建ち並び、海も見えず昔の面影は全く感じられません。

坂本龍馬の妻・おりょうが働いていたことで有名な”田中家”と”滝川”(昭和になってからできた)が、当時をしのばせるのみでした。

 

 

 

 

横浜駅の近くでお昼ご飯(中華)をたべました。

 

 

  神奈川台関門跡

横浜開港後、横浜在住の外国人の安全を守るために神奈川台に関門を設け警備を強化しました。

 

 

  浅間神社

昔は、境内の崖に富士山に通じる人穴と信じられた穴があり、東海道神奈川の名所になっていたそうです。

戦後の調査で横穴古墳とわかったそうです。

  

 

 

☆  芝生の追分

追分とは、街道の分かれ道のことです。    

芝生村で、東海道と八王子とに分かれる所です。

横浜開港後は八王子方面から輸出する絹を運んだので「絹の道」とも呼ばれていたそうです。 

 

 

天王町の近くの松原商店街の中に保土ヶ谷宿の江戸方見附跡がありました。

 

 

 

☆  橘樹(たちばな)神社

 

 

 

 

☆  旧帷子(かたびら)橋跡

相鉄線の天王町駅南側の広場に、旧帷子橋の記念碑がありました。

広重によって描かれた「東海道五十三次 保土ヶ谷」は、この帷子橋あたりなのです。

 

 

 

☆  神明社

 

 

 

約10Kmを歩いて、神奈川宿から保土ヶ谷宿まで来ました。

ほとんどのお寺や神社には、大きな銀杏の木があり、その黄色くなった葉っぱが美しく

地面にはまるで黄色の絨毯が広げられているようでした。

自然を感じながら、江戸時代の人々におもいをはせる事が出来、よかったです。

昔、賑わっていた神奈川宿よりも後から開港された横浜のほうが、現在は栄えているという現実。

また、昔は街道沿いで栄えていた保土ヶ谷や戸塚。

本当に時の移り変わりは面白いと思いました。

あと100年後、横浜の街はどう変わっているのでしょうか。

 

 


東海道あるき旅③(川崎~東神奈川)

2014-12-01 | 東海道あるき旅

大勢の人々でごったがえす川崎駅を出て、市内へと向かいました。

市内の大きな通りの両側には、黄色く色づき始めた銀杏の木が植えられ、落ち着いた雰囲気がかもしだされていました。

川崎の街を歩いたのは初めてでしたが、さすが政令指定都市だけのことはあり、素敵な感じでした。

最初に、東海道を少し海側にそれた所にある稲毛神社に行きました。

ここは、平安時代後期に川崎庄の鎮守として建てられたと伝えられている古社です。

境内には樹齢千年と推定される御神木の大銀杏がありました。

 

 

 

稲毛神社を後にしてから、再び東海道に戻りいよいよ東海道あるき旅の開始です。

この川崎宿は、53次中の52番目に出来た宿だそうです。品川宿と神奈川宿の距離が五里(19.6Km)と離れていたので、

伝馬継立ては往復10里(約39Km)になり過重な負担となる為、幕府はその中間に位置する川崎に宿駅を作ったのだそうです。

川崎宿は財政基盤が弱いうえに、富士山の噴火や大火事による被害を受け窮乏していましたが、

田中本陣当主・田中休愚の尽力により、六郷(多摩川)の渡しの経営権を幕府より譲り受けることが出来、

財政を立て直すことが出来たそうです 

 

☆  佐藤本陣跡

 川崎宿上本陣と呼ばれていたそうです。田中本陣より京都に近いので”上”を付けて呼ばれたようです。

佐藤本陣の子孫・佐藤惣之助は作詞家で、その主な作品には「赤城の子守唄」「人生劇場」「新妻鏡」「六甲おろし」などがあるそうです。

 

  川崎宿京方見附

 川崎宿の京都側の出入り口で「京方見附」とか「上方見附」と呼ばれていたそうです。

江戸側の出入り口は「江戸方見附」と呼ばれ、両見附の間が宿場の範囲となります。

  
関札……実際の関札を複製したもので「加藤遠江守宿」と書かれています。
      大名などが宿泊するとき宿泊する宿の前に掲げられた木札です。

 

  芭蕉句碑

 

元禄七年、松尾芭蕉が江戸深川を発ち郷里の伊賀へ向かう途中、川崎まで見送りにきた弟子たちとの別れの時によんだ句です。

  『麦の穂を たよりにつかむ 別れかな』

芭蕉は、この年の10月に大阪で亡くなってしまいました。

この時もうすでに、体が弱っていたのではないかと思えるような句ですね。

 

  八丁縄手(畷)

 縄手(畷)とは真っ直ぐな細長い道のことをいうそうです。八丁は長さを表し、1丁(109m)×8で約880mになります。

川崎宿京方見附から市場村入り口まで田畑の中を8丁続く一本道が続いていて、両側は松並木になっていたそうです。

現在は京浜急行の駅名として残っています。

 

 

☆  市場一里塚跡

 ここは、日本橋から数えて5里目になります。

徳川家康は、日本橋を起点に五街道に1里ごとに塚を設け、街道の整備をしました。

塚は直径5間(約9m)、高さは1丈(約3.3m)ほどの大きさで頂部に樹木を植え、街道を挟んで両側に設けられていたそうです。

ちなみに、1里は約3.9Kmです。

 

 

 

☆  鶴見川

 

 

  鶴見橋関門跡

 鶴見川をわたり終わってすぐの所に、鶴見橋関門跡の石碑がありました。

横浜開港の後、外国人に危害を加えようとする尊皇攘夷派の人々の通行を厳しく取り締まるために設けられたのだそうです。

 

 

この辺りには、鶴見名物の「よねまんじゅう」を出す茶店が軒を連ねていて、鶴屋と亀屋が有名だったそうです。

「お江戸日本橋」の唄・二番に「鶴と亀との米饅頭」と唄われています。

現在では、鶴見駅の近くの和菓子屋さんで復活して売られていました。

江戸時代は塩餡入りの大福に似た品だったみたいですが、現在のものは、ほんのり甘く小形で食べ易いものでした。

 

鶴見をぬけ生麦にさしかかると、みちの両側に魚屋さんが増えてきました。

 

☆  生麦御菜ヶ浦

 この辺りは、江戸城に新鮮な魚介類を供給することの見返りに、

漁場の独占など特権を与えられた御用漁村だった所だそうです。

多くの魚屋さんが軒を連ねていたのですが、午後だったのでほとんどのお店がもう商いを終え閉店していました。


唯一開いていたお店に、新鮮そうな貝だけが残っていました。

 

 

☆  道念稲荷神社

 

 

 

 

☆  生麦事件現場跡

 あの有名な生麦事件の起こったところです。

これがきっかけとなって薩英戦争がおこり、その結果、外国の武力の現実をしった薩摩藩は攘夷を捨てたのでした。

 

 

                ◇      ◇      ◇      ◇      ◇      ◇      ◇      ◇            

 

キリンビールの工場前をとおりすぎ、しばらく行くと神奈川宿江戸方見附跡にたどり着きます。

この辺りは、京急神奈川新町駅の近くで、電車の中から見たことがある見覚えのある公園でした。

まさか、そんな歴史に関係ある所だとは、思ってもいませんでしたのでビックリしました。

 

☆  オランダ領事館跡

 

 

幕末、横浜が開港されると、神奈川宿内の寺院は諸外国の公館として使われたそうです。

 

 
良泉寺……横浜開港当時、諸外国の領事館に充てられるのをまぬがれるため、
        住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であることを口実に、
         幕府の命令を断ったといわれています。

 

 

  笠のぎ稲荷

 

 

 

                                                                      

 

お天気に恵まれ、少し汗ばむほどの陽気でした。

紅葉も少しづつ始まっていて、あちらこちらで、赤や黄色に色づいた綺麗な景色をみることが出来ました。

いよいよ次回は神奈川宿に入る予定です。

どんな歴史が待っているのかとても楽しみです。