今回は、JR東神奈川駅(京急では仲木戸駅)から歩き始めました。
神奈川宿は、江戸から三番目の宿場として開設されました。
現在でも神奈川県の県名として残っているこの宿場は、海沿いに約2Kmの町並みが続く長い宿場町でした。
諸国の廻船が出入りし、物資の集散地としてにぎわい、西の高台は富士山や房総の山々を望む景勝地で、
料理茶屋が並び多くの人々で賑わっていたようです。
”滝の橋”を挟んで2軒の本陣・問屋場・高札場がありました。
幕末、日米和親条約締結の場となり、ついに日本は、下田と函館を開港し、長かった鎖国に別れを告げたのでした。
条約締結後、宿内の寺院は諸外国の公館として利用されました。
☆ 金蔵院
神奈川御殿(将軍上洛時の宿泊所)が造営されるまで、将軍の宿泊所として使われていたお寺です。
☆ 熊野神社
慶應4年の神奈川大火、昭和20年の戦災で火を被ったけれども、見事に蘇った大銀杏の木が境内にありました。
☆ 高札場
かなり大きな高札場でした。神奈川地区センター前に復元されていました。
地区センター内には神奈川宿の模型も復元されていて、海沿いに町が続き、沖には台場が造られている様子がよくわかります。
西の方は高台になっている地形もよくわかります。
地区センター前の通り、 松並木が素敵でした。
☆ 成仏寺
☆ 慶運寺
開港当時はフランス領事館に充てられていました。
幕末に、火災で廃寺となった観福寺から、浦島太郎が乙姫様からいただいたとされる浦島遺品を
譲り受け保存しているそうです。別名・”うらしま寺”とも言われているようです。
お寺のすぐ横に電車が通っています。
☆ 浄瀧寺
☆ 神奈川の大井戸
東海道の名水として有名だったそうです。
井戸の水量が増えると翌日の天気が良くなるといわれ「お天気井戸」とも呼ばれていたそうです。
☆ 宗興寺
ヘボン博士が当寺院に診療所を開設し、日本人の多くの患者を無料で診察したそうです。
☆ 神奈川台場跡
台場は、海に突き出た神奈川沖に造られていましたが、今では石垣の一部が残るのみでした。
埋め立てにより、周りには高いビルが建ち、海は全然見えませんでした。
☆ 洲崎神社
宮前商店街を入ってすぐの所にありました。(宮前商店街の所から、街道は海べりをそれ内陸の方へ入っていきます。)
この辺りも、昔は海の近くだったのですが、全くその面影はありませんでした。
静かで凛とした素敵な神社でした。
☆ 本覚寺
京急神奈川駅のすぐ横の青木橋を渡ると本覚寺が見えてきます。
このお寺も電車からよく見かけていたお寺です。横浜駅周辺の高層ビル群がもうすぐ傍に見えます。
アメリカ総領事・ハリスの希望により4年間アメリカ領事館として使われていたそうです。
☆ 台町茶屋街跡
緩やかな登り坂を行った辺りが台町です。、昔は料理茶屋が並び、広重の錦絵にも描かれているように、
海が見える景色のいい所だったそうですが、現在は、高いマンションなどが建ち並び、海も見えず昔の面影は全く感じられません。
坂本龍馬の妻・おりょうが働いていたことで有名な”田中家”と”滝川”(昭和になってからできた)が、当時をしのばせるのみでした。
横浜駅の近くでお昼ご飯(中華)をたべました。
☆ 神奈川台関門跡
横浜開港後、横浜在住の外国人の安全を守るために神奈川台に関門を設け警備を強化しました。
☆ 浅間神社
昔は、境内の崖に富士山に通じる人穴と信じられた穴があり、東海道神奈川の名所になっていたそうです。
戦後の調査で横穴古墳とわかったそうです。
☆ 芝生の追分
追分とは、街道の分かれ道のことです。
芝生村で、東海道と八王子とに分かれる所です。
横浜開港後は八王子方面から輸出する絹を運んだので「絹の道」とも呼ばれていたそうです。
天王町の近くの松原商店街の中に保土ヶ谷宿の江戸方見附跡がありました。
☆ 橘樹(たちばな)神社
☆ 旧帷子(かたびら)橋跡
相鉄線の天王町駅南側の広場に、旧帷子橋の記念碑がありました。
広重によって描かれた「東海道五十三次 保土ヶ谷」は、この帷子橋あたりなのです。
☆ 神明社
約10Kmを歩いて、神奈川宿から保土ヶ谷宿まで来ました。
ほとんどのお寺や神社には、大きな銀杏の木があり、その黄色くなった葉っぱが美しく
地面にはまるで黄色の絨毯が広げられているようでした。
自然を感じながら、江戸時代の人々におもいをはせる事が出来、よかったです。
昔、賑わっていた神奈川宿よりも後から開港された横浜のほうが、現在は栄えているという現実。
また、昔は街道沿いで栄えていた保土ヶ谷や戸塚。
本当に時の移り変わりは面白いと思いました。
あと100年後、横浜の街はどう変わっているのでしょうか。