箱根山の火山活動により、大涌谷は立ち入り禁止になっていますが、
東海道は大丈夫ということなので、箱根湯本から箱根関所まで歩いてきました。
湯本駅前には取材に訪れている報道人の姿も見られましたが、特段変わった様子もなく、
平和ないつもの温泉街で、賑わっていました。
まず、箱根湯本駅から早川に架かる三枚橋を渡り、旧東海道にはいりました。
53次の浮世絵と比べてみると、遠くに見える山の形だけは、昔と変わらず同じでした。
★ 早雲寺
早雲寺は、小田原北条家歴代の菩提寺です。
天正18年(1590)、小田原攻めの秀吉は、始め早雲寺に本陣を構えましたが、
石垣山に一夜城を築いた後、早雲寺に火を放ち燃やしてしまいました。そして本陣も石垣山に移しました。
北条氏は5代で滅んでしまいましたが、北条一門の狭山北条氏と玉縄北条氏が生き残り、
江戸時代初めの寛永4年(1627)に早雲寺を再建しました。
境内には有名な枯山水庭園や北条5代のお墓があります。
(枯山水庭園は今回見ることが出来ませんでした。現在は公開されていないようです。?)
惣門 北条5代の墓
★ 正眼寺(しょうげんじ)
湯本地蔵堂として有名だそうです。
曽我兄弟のゆかりの寺でもあるそうです。
曽我兄弟供養塔
★ 湯本茶屋一里塚跡
日本橋から22里目。
★ 石畳道入り口
ここから芦ノ湖湖畔までの間の所々に、当時の石畳が保存整備されて残っています。当時を偲びながら歩いてみました。
★ 鎖雲寺(さうんじ)
江戸時代の初め、早雲寺にあった庵を移築して開いた臨済宗大徳寺派のお寺。
歌舞伎「箱根霊験いざりの仇討」のモデルとして有名な勝五郎と妻・初花のお墓があります。
足が不自由になった勝五郎が夫唱婦随で父の仇討ちをこの付近の箱根道で遂げるという物語だそうです。
ここ湯本には「初花」という看板が多く見受けられますが、きっと内助の功で夫に本懐を遂げさせることが出来た素晴らしい妻として
人々に受け入られているからなのでしょうね。お墓にも、きれいな花が手向けられていました。
勝五郎・初花の墓・・・寄り添うように並んでいます。
★ 女転し坂(おんなころしさか)
箱根道の難所のひとつであり、急な長い坂道で、馬に乗った婦人がこの付近で落馬し、
死んだことから「女転し坂」と言われるようになったとのことです。
★ 割石坂(わりいしざか)
曽我五郎が、富士の裾野に仇討に向う時、刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられています。
★ 石畳み
江戸幕府は、湯本の三枚橋から須雲川沿いに進み、畑宿を経て二子山の南麓を通り、
元箱根に至る最短距離の古い山道を拡張整備し、東海道のルートとしました。
当初の山道は雨が降ると道がぬかるみ、脛まで浸かる泥道となってしまったそうです。
そこで幕府は「箱根竹」という細い竹を束ねて敷いたそうですが、竹なので1~2年で朽ちてしまいメインテナンスが大変だったようです。
それで石を敷き石畳とし、同時に並木も造成したのだそうです。昔の街道に植えられた並木は杉が多かったようですが、海の近くでは
潮風に強い松が植えられたようです。杉の方が松よりもお金になりやすく経済的に理にかなっていたのだそうです。
石畳の構造も現代の土木技術に劣らないすぐれたものだったようです。
★ 茶屋本陣茗荷(みょうが)屋跡
畑宿の名主・畑右衛門家は「茗荷屋」と呼ばれ茶屋本陣を営んでいたそうです。
庭園が美しく浮世絵にも描かれていたほどだったそうです。
今は昔の建物もなく説明の立札があるのみでした。
畑宿は宿の名が付きますが、正式には畑宿村といい江戸時代以前からの集落です。
今は、箱根伝統工芸「寄木細工の里」として知られていますね。箱根駅伝の往路優勝のカップも寄木細工で出来ているそうです。
★ 畑宿一里塚
日本橋から23里目。
道の両側に塚が残っているのは、とてもめずらしいそうです。
塚の直径は約9m、高さは4.5mで、右の塚にはモミ、左の塚にはケヤキが植えられていました。
モミの木 ケヤキの木
★ 橿木(かしのき)坂
★ 猿滑り坂
急坂が次から次へと続きます。もうすぐ甘酒茶屋があるはずなのですが……。 ガンバレガンバレ
★ 甘酒茶屋
甘酒をだす茶屋は箱根八里の間に13軒ほどあったそうですが、この場所は間の宿の畑宿と箱根宿との中間に位置し、
四軒の甘酒茶屋が並び立場としてにぎわっていたようです。現在は江戸時代から300年続く甘酒茶屋が1軒のみです。
昔の旅人のように、ここで一休みで~す。 とても甘い甘酒でした。 少し元気になれたようです。
★ 於玉坂(おたまざか)
お玉という娘が関所破りをして捕まり、この辺りで獄門にされたのでこの名が付いたそうです。
途中、皆で「唱歌 箱根八里」を歌ったりして楽しかったです。 本当に歌詞のとおり山深いところでした。
★ 杉並木
樹齢400年、高さ30メートルほど。 うっそうとした木立の杉並木でした。約400本位残っているそうです。
★ 賽の河原
芦ノ湖の湖畔にありました。
★ 箱根一里塚
日本橋から24里目。
★ 箱根関所
やっと関所までたどり着きました。閉館時間ぎりぎりでしたが、なんとか間に合うことが出来ました。
現在の関所は、発見された資料に基づいて幕末の姿に完全復元され、平成19年より公開されているものだそうです。
徳川幕府は、全国53ヶ所に関所を設けましたが、その中でも中山道の木曽福島(長野県)、碓氷(群馬県)、東海道の新居(静岡県)、
そして箱根(神奈川県)の4ヶ所は、規模も大きく、最も重要な関所と考えられていたようです。
関所の役割は、「入り鉄砲に出女」を監視することです。
つまり、江戸に入る武器類と江戸から出ていく女性に対して、目を光らせていたと言われています。
しかし、ここ箱根の関所では、幕府が安定した3代将軍家光時代の寛永9年(1632)以降は、「入り鉄砲」の調べは止め、
もっぱら「出女」を厳しく取り締まったそうです。
江戸口御門
足軽番所
人見女(ひとみおんな) 面番所(めんばんしょ)
【 女性の検査は厳しく、「人見女」が関所手形と照合し、更に密書などが隠されていないか髪をほどいたり
時には裸にして性別をチェックしたりしたそうです。】
小高い所にある遠見番所から見た箱根関所と芦ノ湖。 とてもいい景色でした。まるで昔にタイムスリップしたようでした。
京口御門
関所を出たところのお土産やさん
箱根八里とよくいわれていますが、小田原宿から箱根宿までの4里8町(16.6Km)、箱根宿から三島宿までの3里28町(14.8Km)の
合計8里(31.4Km)のことを示しているそうです。(36町=1里)
江戸時代の旅では通常、小田原から三島または沼津までを一気に歩いたそうです。
本当に昔の人の健脚ぶりには、驚いてしまいます。
この東海道あるき旅の中で、一番きついコースであろうと思われる「湯本から箱根まで」を無事に終えることが出来、
本当によかったです。
これから、いよいよ静岡県に入ります。きっと、東海道らしい景色に沢山出会えることでしょう。
期待に胸がふくらみます。 では、では…… 加油加油(がんばれ、がんばれ)です。