連日の猛暑に少々バテ気味で、何もする気が起こりませんでしたが、今日は頑張ってアップしてみることにしました。
もうだいぶ前に歩いたので記憶も薄らいできていますが、なんとか思い出してみるつもりです。
今回は、沼津宿から原宿までです。
梅雨の終わり頃の、曇り時々雨というお天気のなか歩いてきました。
★ 沼津城本丸跡
沼津城本丸跡は、川廓通りから入ってすぐの所にあり、現在は中央公園になっていました。
周りはビルや家が建て込んでいて、公園の中には木々もあまりなく、「沼津城本丸跡」の石碑がなければスルーしてしまいそうな所でした。
沼津城は、三枚橋城より規模は小さかったそうですが、二代目・水野忠成(ただあきら)が文政元年(1818)老中になり、
幕府の財政を立て直す業績を上げたために5万石に加増され、幕末まで続いたそうです。
沼津宿は、川廓通りから西に14町(約1.5Km)続いていました。
狩野川河口の川湊から、今の清水や豊橋への航路が開かれると、江戸へ年貢米や竹木類を積み出しました。
江戸時代の沼津は、鰹の産地で鰹節の生産は日本一だったようです。
★ 本陣・脇本陣跡
本町通りには、本陣3軒・脇本陣1軒の標識がありました。この辺りが、沼津宿の中心地だったそうです。
今は、走っている車も少なく静かな通りでした。
★ 丸子・浅間神社
もともとは、浅間神社、丸子神社という別々の神社でしたが、明治時代に浅間神社があった当地に、
丸子神社が遷座され、めずらしい一扉二社となりました。
拝殿の左側には浅間神社の提灯が、右側には丸子神社の提灯が かかっていました。
★ 千本山乗運寺
戦国時代の天文6年(1537)増誉上人が開基となり創建されました。
増誉上人は知恩院で修業の後、諸国行脚に出掛けました。そして沼津にまで来た時、農民が塩害の被害に苦しんでいるのを見て、
海岸に砂防林を築くことにしました。念仏を唱えながら千本の松の木を植えたそうです。
農民達は、上人に感謝し庵を建てました。これが乗運寺の始まりとなりました。
また、沼津に住んだ若山牧水の菩提寺でもあります。
残念なことに、お寺の境内に入ることはできませんでした。若山牧水のお墓を、遠くからズームでパチリ。
★ 千本松原
松原は、幅180メートル、長さ15.6キロメートルもあり、
狩野川から田子の浦にかけての海沿いに、長~く延々と続いています。
本当に広くて、静かでいい所でした。
増誉上人像や若山牧水碑、井上靖文学碑などがありました。
増誉上人の像
「一本植えては なむあみだ 二本植えては なむあみだ」 の文字が刻まれていました。
海沿いに長く続く千本松原。 はるか向こうまで松林が続いています。そして目の前には広大な海がありました。
( 今にも雨が降りそうなお天気だったので、海と松原のいい写真が撮れませんでした。 )
若山牧水の歌碑
井上靖 文学碑
海からの強風を受けて、松の木がみな同じ方向に傾いています。 この松原がなかったら本当に大変なことになりますね~。
★ 千本浜合戦首塚
明治33年(1900)、暴風雨の時に倒れた松の根元から多数の人骨が発見されました。
これを弔ったのが、この首塚で、この人骨は、天正8年(1580)に、武田と北条で戦った千本浜合戦の際の戦死者のものだそうです。
★ 六代松(ろくだいまつ)の碑
六代とは、平家6代目を継ぐ御曹司のことです。ちなみに、平家3代目が清盛です。
平家一門の滅亡により六代は捕えられ、鎌倉に護送の途中、千本松原で処刑されようとしましたが、
文覚(もんがく)上人の命乞いにより赦免となりました。しかし、結局はその後文覚上人の謀反に連なり処刑されてしまいました。
その首を、松の根元に埋め弔ったと伝えられています。この松を土地の人々は「六代松」と称したそうです。
六代の処刑をもって、平家の血筋は途絶えることになりました。
天保12年(1841)松の木が枯れてしまい記念碑が建てられたそうです。
折角の沼津です。お昼ご飯は、沼津漁港へ……
海鮮丼をいただきました。やはりいつ食べても新鮮で美味しいです。
食べるのにむちゅうになってしまい、写真を撮るのをすっかり忘れてしまいました。
★ 沼津藩領境榜示
「従是東」だけの部分が残っていました。下半分の「沼津領」はありませんでした。
いよいよ沼津領をでて原に入ります。
昔この辺は、浮島沼を中心とした湿地帯だったそうで、住民は海へ放水路を作ったり、新田開発に努めたりしたそうです。
その名残の川(水路)や地名(大塚新田)が見受けられました。
★ 松長一里塚跡
日本橋から31里目。
民家の門柱の脇にありました。
原宿は、特になんの産業もありませんでしたが、雄大な富士山が眺められる地として人気があったそうです。
この辺りから、雨がポツリポツリ降り出してきました。残念なことに富士山の姿を見るどころではありませんでした。
★ 松陰寺
臨済宗妙心寺派の寺。享保2年(1717)白隠禅師が住職になりました。
白隠禅師は、臨済宗中興の祖といわれた人で、「原」で生まれ「原」で没しました。
「駿河には過ぎたるものが二つある。富士のお山と原の白隠」と謳われたそうです。
白隠のお墓
白隠産湯の井戸
問屋場跡
本陣・渡辺平左衛門家跡……門が閉じられ今は誰も住んでいませんでした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あまり良いお天気ではなかったので、雄大な富士山をまじかに見られずとても残念でした。
でも、沼津の千本松原は、思っていたのより大きくて広く素敵なところでした。
かなり前ですが、井上靖の「しろばんば}を読んだ時、沼津の海岸の描写があったと思いますが、
千本松原のような海岸を想像することはできませんでした。
やはりいろいろな所に行って、実際に見て、見聞をひろめるということは、大事だと思いました。
これを機に、この夏、また井上靖の作品を読んでみたくなりました……。