聖書の言葉はすごい。今日も、家でひとりになって聖書を読んでいる時にそう思った。
神は全てを知っていてくださるんだ。何も悩む事はない。
先日は幼なじみの友から手紙が来た。手紙をもらう事が、こんなに嬉しい事なんだ。改めて
思った。手紙の中には11月には行くよ。紅葉を見ながらおしゃべりしようよと書いてあった。
楽しみだ。小学1年からの親友だ、時には喧嘩もしたけど、どんな時でも分かり合え安心
出来る存在、辛くなったり、さみしくなったりしたら手紙を書いたり、電話をしたり、、、、。
こんな変らない友の存在を本当に感謝している。
そして、更に私に与えられている友は主イエスキリスト、どんな時にも共にいて決して
裏切る事な無い方。
私は一人では生きられない人間だ、でもそばに頼れる方がいるので生きられる。
聖書は神様が一人一人に下さった手紙だ。あなたを愛している。あなたと共にいる。あなた
を助け、あなたを救い出すと熱く力強いメッセージがその手紙の中にはあふれている。
<聖書はあなたに知恵を与えてキリストイエスに対する信仰よる救いを受けさせる事が
出来るのです。> Ⅱテモテ3:15
2013.10.3 トマトでした。
少年時代に故郷を遠く離れ
知人親戚誰も居ない地に居て
手紙が来るのは本当に嬉しい出来事だった。
祖母は所謂バツイチで
母を連れて蝦夷地の貧乏農家の義祖父と再婚。
貧乏人の子沢山
とやらで母は尋常小学校も二三年生までしか行っていない。
そんな母から来た手紙は
ほとんど平仮名だったが
それでも読みにくかった。
日露戦争当時で識字率75%だったそうだが
大正生まれの母は
残り25%に限りなく近い存在だったのだろう。
自分が就職したばかりの昭和40年代初頭でも
出稼ぎで飯場に来ている人から
手紙の代筆を頼まれる事が何度もあった。
住所氏名を書くよう命じると
急に怒りはじめる人物もいた。
文盲が
最大の屈辱だったのだろう。
氏名だけは何とかと
必死で練習したと話す人物も居た。
現代は
余程の事情でもない限り
文盲という事はないだろう。
逆に知識が増したり表現手段がが多様化した事で
悩みや悪意が簡単に表現できる事になり
ギスギスした環境が身近に迫って来る事態になった
とも言える。
旧約の箴言か伝道の書か定かではないが
知識が増せば悩みも増える
と言う様な意味の文があったような記憶ある。
妻は
お父さんから一度も手紙を貰えなかった
と残念がっている。
職場結婚なので手紙を書く必要性がなかったのがその原因。
少し離れていて
手紙のやり取りした方がロマンチックだったかもしれない(*^^*)。