「時間」は過ぎ去るだけで、「空間」は行き来できるように見えます。それが理由で、「時間」と「空間」を別の範疇で考える人もいます。
「時間」を戻ることは出来ないのは当然ですが、実は「空間」も戻ることは出来ません。東京から大阪を往復すると、東京に戻ったように見えますが、実は「地球は回転している」ので、「時間」を掛けて往復すると東京は元の位置には無く、「自転」した分だけズレています。更に、公転もしているし、宇宙の中心からもかなりの速度で移動しています。
地球から見て宇宙の果てに思える位置からは、地球は光速で離れています。つまり、自分が元の位置に戻ったと考えるのは「自己満足」か「自己主張の強い人」と言えます。椅子に座って考えている人でさえ、かなりの速度で移動していています。合い席の人は一緒に移動しているので、移動していないように見えるだけです。
自分が動くと「空間」を移動するのと同様に「時間」も移動します。AとBが離れた位置にいると、AとBの「空間」の位置が離れているように「時間」も離れていて、近付くと「空間」も「時間」も近付き、より近い「時空間」を過ごす事が出来ます。これは、単に「離れていると光の速度の制限で認識するのに時間がかかる」と云う意味では無く、「時間そのものがズレている」と云う事です。
「三次元空間」は理解しやすいので、此れと同様に「三次元時間」を定義すると、X時間軸方向にA,Bが自然に任せて「移動(時間を過ごす)」し、AだけがY空間軸方向に移動すると、同時にY時間方向に移動し、違う時空間を過ごす事になります。ここで、AがBの所に戻ると「空間をBの位置まで戻る様に、時間もBの時間と共有できます」が、それは「自分がそう思っているだけで」、実際には移動する時に加速度が働き、「時空間」は歪む為、時空間にズレが生じて修復は不可能になり、元の時間に戻れないのと同様に、元の空間位置には戻れません。この加速度は、重力が掛かる場所でも生じていて、移動しなくても「時空間」を歪めます。
この時に、第三者のCがAと行動を共にした場合、A・C間の時空間の歪みは無く、CがBと行動を共にした場合はB・C間の時空間の歪みは有りません。と言うより、Cの存在とは関係なく、「相対的」に変位が生じた時に、当人が気付くこと無く「時空間」が歪みます。
Aが「静止空間座標」の中心OからX空間軸方向に「1M」だけ時間を「1S」かけて移動した後に、中心Oに「1M」だけ「1S」かけて戻った場合、「2Mの距離を2Sかけて移動した」とも言えるし「元の位置に戻るのに2S経過した」とも言えます。
ただし、この条件には「静止空間」と条件付けをしていて、「静止時空間」とは書いていません。「静止時空間」では移動も時間経過も不可能なので、Aも静止している(Oから移動はできない)しか成す術は有りません。同様に「静止空間」を考えると、Aは「時間の経過は許されますが、移動は許されない」筈です。それでも、他の座標系にいるCから見ると動いているように感じるかもしれません。
或いは、自分が移動しているように思えるのは、単に座標軸自体が移動しているだけかも知れません。「釈迦の手のひら」の様に。
座標軸の定義が不完全で恣意的な為に、「空間は戻ることが出来るが、時間は過ぎ去るのみ」との誤解が生まれるのだと思います。
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