以前にも、「倫理」と「道徳」で書いたように、「道徳」は「純粋経験の結果」なので、「洗脳」以外では他者の意志が入り込む余地は無く、相対性を持った「学問」の対象ではありません。「学問」には客観性が必須な為「自由主義とは倫理的哲学である。」と言うべきです。
「和製リベラル(自己保身の自由)」は、他人の自由を否定しているので放って置くとして、世界で蔓延している「リベラル」は「多様な倫理観」の戦いです。ある人が他人の「多様性」を認めると云う事は、多くの場合「矛盾」を生じます。例えば、動物愛護を主張する人には肉食の反対運動をする自由が認められ、鯨肉が好きな人には捕鯨を推進する自由が認められます。この矛盾を解決する手段としては、現在の所「民主主義」が有効とされていますが、多数決で何方かを規制すると「多様性」が失われ、何方かが「不自由」を強いられます。
動物は、その「純粋経験」によって自らの行動規範を獲得し、適者生存や食物連鎖を含む「多様性」のある自然を形成します。自然に由る事を「自由」と言い、これを人間の思想に取り込むと「自由主義」になります。しかし人間界では、概して「多様性」と「自由主義」とは衝突する場合が多く、それは、「自由主義」は倫理的哲学の範疇であり、「多様性」は道徳によって決定づけられるからです。
「自然」の「然」は「そのまま在る状態」を言い、ある環境で「自ら」その状態を保つことが「自然」です。「自」とは言っても「個」ではありませんし、「自立」している訳でもありません。「道徳」は自然と相性がよく、食物連鎖として生き物を殺す事は有っても、「多様性」を破壊する事は有りません。
道徳的な「多様性」のある自然に、倫理的で人工的な「自由主義」が入り込むと軋轢が生じ、「多様性」を破壊します。つまり、「リベラル」が「多様性」を破壊していると言えます。自身は都会に住んで何不自由の無い生活を送りながら、自然環境の大切さを訴える人は、「自然破壊の結果として自分が其処にいる」事を知らないのか、或いは知らないふりをしている「セクシー偽善者」です。
「自由主義社会」が成立するためには「自由意思による行動」を規制する事が必須になります。それは、誰かの行動は、他の誰かの行動に影響を及ぼす事が十分に考えられるので、自制か規制が必要になるからです。不十分ながらでも「多様性」を保障する為に、「自制」が成立する社会を「自由主義社会」と言い、「規制」が強化された社会を「社会主義社会」と言います。
「多様性」は周囲が多様である事を意味しますが、何故か「多様でなければならない」と云う「一様な考え」に憑りつかれている人もいます。これも「リベラル」の特徴で、自分が他と違う事を「多様性」の名のもとに、他人を無視してでも自己主張を通す正当性の根拠にしています。
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長文変換をしても、なかなか一発では「正文」が出ないので、熟語変換を強いられているのは「ビッグデータ予測」に取り込まれていない証拠かもしれません。自由とは不便なものです。