「教育勅語」に「一旦緩急アレハ義勇公に奉シ以て天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。)」と書いてあり、これは「民主主義」国家としては有り得ない一文だ、と言う人が居ます。
「教育勅語」の文部省図書局の「教育に関する勅語の全文通釈」を見ると、
「・・・常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。」
と、書いてあり、「法律を守れ」と言ってるだけなので、「緊急事態法」があれば何の問題も有りません。「皇室国家の為につくせ。」も、明治憲法では「第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」なので、日本は「皇室国家」で有る事が明記されている事からも、当然と言えます。
また、「・・・この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。 」と、末文に書かれていて、「外国でとり用ひても正しい道である。」とあるように、「それぞれの国民が、それぞれの法に従って、主権者国家の為に尽くせ」は、当時も今も、全く問題は有りません。当時の日本国の主権者が「憲法の規定では天皇」だったと云うだけです。天皇と雖も憲法を無視することは出来ません。
「教育勅語」を利用して「天皇は神である」が如くに国民が洗脳され、「侵略戦争(ウソですが)」が行われたと主張し、「教育勅語」を元にした「思想教育」が否定されるのなら、「民主主義」を利用して、その結果ヒトラーの「ナチスドイツ」が誕生し、実際に「侵略戦争」が行われた事からすると、「民主主義」は否定されるべき「思想」とも言えます。
方向性を持った思想に憑りつかれると、「『民主主義』と『国家の名誉』が結び付くと、ヒトラーの再来が想起され、こんな『危険な憲法』は『教育勅語』と同様に唾棄すべき。」という結論も可能になります。
「国家主権」の無い昭和憲法にでさえ「・・・政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」と書かれています。
この文言からすると「日本国の主権の維持は、理想と目的」でしかありませんが、「国家の名誉」にかけ達成する事を誓っています。つまり、「誓う」のは国民自身なので、「国民は『国家の名誉』にかけ、国民主権国家の達成に尽くすべき。」と言い換えることもできます。
「皇室国家」も「国民主権国家」も「国家の法的立場」を表現しているだけであり、「昭和憲法」でも日本は「国民主権の存する国家」と言いながら、国民に拠って守られる対象は「国民の主権では無く、自国の主権」である事が明記されています。
同様に解釈すると、「皇室国家」は「皇室の存する国家」と云う意味であり、守られるのは「天皇の地位ではなく、国家そのもの」という事になります。なぜなら、日本の場合は「国家」が消滅したら、諸外国とは違い「皇室」すらも存続不可能になり、「皇室」を守る意味が無くなるからです。
天皇には「天壌無窮の神勅」によって「日本国を統べ治める(すべしらしめる)」事が義務付けられています。 一方、国民の「基本的人権」は「昭和憲法が保障」してくれているので、安心して死ねます。
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