「科学研究」は、正しいと分かっている事を研究するのではなく、「かも知れない」とか「あって欲しい」との思いを、先入観を持って研究する事です。なので、多くの「科学研究」は、その動機そのものが、その時点では「経済的」には間違っていますが、これが「科学的」では無いとは言えません。万が一の可能性があるかもしれない事が「科学研究」の面白さで「科学研究」の手法は「科学的」である事が求められます。その結果が誤りである事が証明されても、それは「科学の成果」であり、新しい理論を派生するかも知れません。
また、ノーベル賞の「科学部門」は、万が一の可能性が開花した結果であり、誰もが喜び礼賛すると思います。しかし、「カネの臭いがする平和賞と経済学賞」は、其の殆どが「科学的根拠」がなく、後に不適切と判断された場合も有ります。
「科学的根拠」が無いと言えば、文科省の「科研費」は、その一部が「反日的学術研究」に助成され、「そうあって欲しい」との思いの先入観を持って研究されるのですが、その多くは捏造であり、その手法は「科学的」とは言えません。つまり、「科学的手法」に拠らない「(捏造)学術研究」に科研費を助成する事は間違いであると言えます。
「安全性」に関して、「科学的」に安全の範囲が判っている場合は「科学的な安全基準」を定める事に正当性を認めることが出来ます。しかし、放射線を浴びた当人に対する「安全性」が確認された値でも、数世代に亘っての安全性が確認できないモノは「科学的な安全基準」を定めることは出来ないので、社会的な容認を「安全基準」に取り入れる必要がある、とされています。
植物油脂から工業的に製造されたマーガリンに含まれるトランス脂肪酸は、天然の動植物の脂肪中にも少し存在します。欧米ではトランス脂肪酸が工業的に製造された場合にはその危険性が指摘され規制されていますが、日本では規制されていません。これは、日本人のトランス脂肪酸平均摂取量が「元々全カロリーの1%未満」で、WHO基準の「1%以下」の基準以下だからと云う理由です。
つまり日本では「科学的な安全基準」が定まっていても「摂取平均値が基準以下の場合は安全基準を定めなくても良い。」事になります。国民には平均値は知らされていないし、自分がどれだけ摂取しているかも判りません。「平均値」と云う事は、その値以上に摂取している人も当然いると云う事です。これは、「科学」よりも「経済」が優先している事を示しています。また、総ての食品や薬品は、摂取した当人には安全でも「数世代先の子孫」にとっての安全性が「科学的」に確認されている訳では無く、単なる経験則に過ぎません。
江戸時代と明治時代では食文化が大きく変わり、今は明治から5世代ほど経ちましたが、日本人の寿命や体格も変わりました。「寿命や体格が伸長する事」が生物として「科学的」に正しいかどうかは判りませんが「経済的」には都合が良いので、良しとされているように思います。
つまり、経験則で「経済的」に良いと判断された場合は、社会的に「安全」とされたと云う事です。寿命が延びると人口が増え、体格が大きくなると消費カロリーも増えます。これは、環境(保護)ビジネスのチャンスになります。但し、人口が増えすぎる事で「経済的」に損失が考えられるようになると、今度は「人口の増加は受け入れられない。」との方針の下での「科学的根拠」を探す為の、目的を持った「科学研究」が為されます。
福島の「トリチウム処理水」については、国際法の基準以内に薄めて海に流すと「安価」で済み、一般にこれを「経済的」と言いますが、社会的合意が無い為に「排水の安全基準」を定める事が出来ません。年月が過ぎて、処理水の貯蔵が社会的に耐えられなくなった時には、「トリチウム処理水の排水安全基準」が定められ、海に流されると思います。この時に「科学的根拠」は以前と同じでも、「経済的理由」で「社会的合意」が為されます。
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