オメガねこ

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「自分」 と 「他人」 ④

2020年03月27日 | 思想・思考
 「知識は人をバカにする」・・・。知識で「他人」をバカにするのか、知識が「自分」を馬鹿にするのかは、本人次第です。ネット検索を頼りにしている「自分(私)」は「無知」なので、この範疇外です。

 「我思う、故に我あり」の「思う我」は文脈からすると大脳皮質を意味します。末梢神経⇒脊髄⇒脳幹⇒小脳・大脳(皮質)の最後の部分です。恐らく「大脳皮質」以外の「小脳」を含めた中枢神経系は「我を思わない」と思います。「小脳」とは言っても神経細胞の数は「大脳」よりも桁違いに多いそうです。その少ない神経細胞しかない「大脳」の表面に張り付いた「薄っぺらな大脳皮質(1.5mm~4mm)」が「我を思っている」のだから、「個人主義」等と言う戯言もタカが知れています。 

 ところが、「我あり」の「我」が何を指しているのかは「本人以外」には判らないと思います。文学的には「思う自分がいるから、自分の存在が保障される」とも考えられますが、科学的には「自分の存在を、自分が証明する」事になり、客観性を持たないので意味を持ちません。「彼思う、故に我あり」ならば生物学での証明は可能です。「我」は集団の一部だからです。

 「無神経な人」と言われる人も良く見ますが、恐らくその判断は他人の「大脳皮質」がしていると思います。ところが、判断をしている人の「大脳皮質」よりも、「無神経な人」の行動を制御している「小脳」のほうが神経細胞の数は圧倒的に多いのです。
少ない「細胞」が、多くの「細胞」を批判する、正に「革命思想」です。

 戦争は「理性」を失ったケダモノの為せる業と言う人もいますが、犬や猫は戦争をしない事から、人間以外の動物には「理性」が有ると言えます。「理性」は「大脳皮質」で生まれると思われますが、実はこの「大脳皮質」が「小脳」の制御下にある場合のみ、自然の摂理に適った判断を下す事が出来、無駄な殺生が起こらないと考えられます。人間は、神経細胞の少ない「大脳皮質」が巨大な「小脳」を制御下に置いている為、「自己撞着」に陥ると思われます。つまり、本来は「理性は小脳が制御する」と言えます。

 最近は「ヒーリング」などが流行っています?が、浅いヒーラーは「ヒーリングとは、左脳と右脳のバランスを取る事」と思っているようです。日本では古来「坐禅瞑想」があり、「意識を下部(丹田)に落とす(鎮める)」ことで、人は自然と調和できると信じられています。これは、左右ではなく上下の感覚ですが、所詮人間のする事なので意識はへその下(丹田)まで沈む事は有りません。昔の人は「大脳」と「小脳」の存在を知らなかったので、これを科学的に解釈すると、「大脳皮質」の浅はかな思考を「小脳」まで落とし、「小脳」の判断を仰ぐ事と言えます。つまり、「座禅」で「自分」を見つめる事は「大脳皮質は、小脳が自分であると理解している」と言えます。

 ところが「小脳」自身は「自分が自分の本質である」とは思っていないように見えます。小脳は大脳皮質からくるデータも含め「自分の体の動きの、調節・制御・評価」をしているだけであり、自分の確たる意志を表明していません。つまり、「自分」とは、大脳と小脳以外である、と言えます。

 ところで、「自分の脳」と「他人の脳」を入れ替えたら、何方が「自分」になるのかは判りません。例えば、他人を殺して、その「他人の脳」を自分に移植したら、生きている「他人の脳を持った自分」は殺人犯になるのか?

 その移植された「他人の脳」にしてみれば、「殺された体」は「元は自分の体」なので「不要な部品を捨てた」だけであり、若し今の「自分」を気に入っていれば、問題ないようにも思えます。但し、これは「我思う、故に我あり。」が正しいと仮定した場合です。

 若し今の「自分」が気に入らなければ、「自分」を殺したのは「元他人の体であり、且つ今の自分の体」なので、今の「自分の体」を裁く必要が有ります。

 将来、AIとサイボーグが発達し、「自分の体」にAIを埋め込み、サイボーグに「自分の脳」を移植した場合は、何方を「自分」とするかの法整備が必要になります。当然、このAIは「自分の脳」のインスタンスなので、責任能力は有ります。




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