韓国の「徴用工象徴する像、モデルは日本人」裁判(地裁)で、「慰安婦像」の作者でもある彫刻家夫妻の損害賠償請求が棄却され「朝鮮人徴用工のモデルは日本人である」との認定が下されました。何れにしても、当時の「朝鮮半島人」も「日本人」だったで当たり前と言えばそれ迄ですが、そこはそれ、「韓国人がイルボン由来」と云うのは裁判官にしても耐えられないと思います。
それは兎も角、問題は「朝鮮人とされていたモデル」そのものが朝鮮半島とは直接関係のない日本人である事と、当時の「徴用(工)」そのものは例え「強制」が有ったとしても適法であり、更に朝鮮半島からの労務者はその殆どが日本企業の自由募集に応じた「応募工」で、「自由意思」で労務に付き、しかも労務規約に違反して勝手(自由)に職務放棄をした人達も多く、その期間の「賃金不払い」も含まれています。
当然、日本からの「戦後補償(賠償ではなく、その義務もない)」も済んでいて、後は韓国自体の問題なので放って置きます。
ここで、「意に反する自由(強制)」と「自ら望む強制(自由)」をそれぞれ合理的に区別できるかを考えてみます。
戦後になり、GHQの指令で半島系の「元日本人」の大半は「強制的」に半島に送り返されましたが、これは「GHQ」にしてみれば、解放したつもりなので「自由を与えた」事になります。実際に、朝鮮半島から日本本土(列島)に「戦時徴用(労務動員)された66万人」の内、1959年時点で日本に残っていたのは「245人」とされています。現在日本に居住する在日韓国人の多くは、その子孫を含めて「自由意思」で残留・入国(適法、違法を問わない)し居住している人たちで、「済州島四・三事件(1948年4月 - 1949年5月)」の時に日本に逃れてきた数万人の「自国で戦わない事を、自分の意志で決めた人」とその子孫も含まれます。
「戦争や飢餓」から逃れる事が「自由(意思)」と言えるかどうかは判りませんが、少なくとも「受け入れ国による強制でない」ことは、おそらく「サヨク」以外の多くの人は同意してくれると思います。「おそらく」と書いたのは、「周辺の事情による危険から逃避」したり「貧困故に現在の感覚で云う、非人道的な職に就く」事は「自由」とは言わず「強制性が有る」と解釈するのは何も「サヨク」の専売特許では無く、「ホシュ」と言われる人たちの中にも「ドヤ顔で主張」するのが散見されるからです。
私のブログでは、ごく普通の考えでは「問題にならない事」を問題にして「ドヤ顔をする」のを「サヨク」と呼び、その内容に論理性が有る場合は「左翼」と書きます。
「自由意思」でも「強制性」が有ることは極普通にあり、例えば高校に自由意思で入学し、授業や服装を強制された場合とか、義務教育で親によって小学校に「強制入学」させられた場合など、宗教・スポーツ・教育など何れも「強制性」があり、法律そのものが「自由を守る為の強制」です。「ドヤ顔」をするまでもない事です。
これらは、「その時点で適法であれば問題なし」とする以外に解決方法は無く、現在の「人権意識」を過去に適応する事には何の合理性も有りません。つまり、日本が対応してきた戦後補償などは、様々な過去の(外交)問題に対する「非合理性」が齎した人災と言えます。
「自粛の要請」「マスク着用のお願い」「希望者に対する職域集団ワクチン接種」・・・。これらは全て「自由意思で従う事が強制」されます。或いは、「強制性がなければ自由な行動が出来ない」のが、今の『WHY JAPANESE PEOPLE!?』 なのかもしれません。
但し、「PEOPLE」は人民で、国民は「NATION」です。
それは兎も角、問題は「朝鮮人とされていたモデル」そのものが朝鮮半島とは直接関係のない日本人である事と、当時の「徴用(工)」そのものは例え「強制」が有ったとしても適法であり、更に朝鮮半島からの労務者はその殆どが日本企業の自由募集に応じた「応募工」で、「自由意思」で労務に付き、しかも労務規約に違反して勝手(自由)に職務放棄をした人達も多く、その期間の「賃金不払い」も含まれています。
当然、日本からの「戦後補償(賠償ではなく、その義務もない)」も済んでいて、後は韓国自体の問題なので放って置きます。
ここで、「意に反する自由(強制)」と「自ら望む強制(自由)」をそれぞれ合理的に区別できるかを考えてみます。
戦後になり、GHQの指令で半島系の「元日本人」の大半は「強制的」に半島に送り返されましたが、これは「GHQ」にしてみれば、解放したつもりなので「自由を与えた」事になります。実際に、朝鮮半島から日本本土(列島)に「戦時徴用(労務動員)された66万人」の内、1959年時点で日本に残っていたのは「245人」とされています。現在日本に居住する在日韓国人の多くは、その子孫を含めて「自由意思」で残留・入国(適法、違法を問わない)し居住している人たちで、「済州島四・三事件(1948年4月 - 1949年5月)」の時に日本に逃れてきた数万人の「自国で戦わない事を、自分の意志で決めた人」とその子孫も含まれます。
「戦争や飢餓」から逃れる事が「自由(意思)」と言えるかどうかは判りませんが、少なくとも「受け入れ国による強制でない」ことは、おそらく「サヨク」以外の多くの人は同意してくれると思います。「おそらく」と書いたのは、「周辺の事情による危険から逃避」したり「貧困故に現在の感覚で云う、非人道的な職に就く」事は「自由」とは言わず「強制性が有る」と解釈するのは何も「サヨク」の専売特許では無く、「ホシュ」と言われる人たちの中にも「ドヤ顔で主張」するのが散見されるからです。
私のブログでは、ごく普通の考えでは「問題にならない事」を問題にして「ドヤ顔をする」のを「サヨク」と呼び、その内容に論理性が有る場合は「左翼」と書きます。
「自由意思」でも「強制性」が有ることは極普通にあり、例えば高校に自由意思で入学し、授業や服装を強制された場合とか、義務教育で親によって小学校に「強制入学」させられた場合など、宗教・スポーツ・教育など何れも「強制性」があり、法律そのものが「自由を守る為の強制」です。「ドヤ顔」をするまでもない事です。
これらは、「その時点で適法であれば問題なし」とする以外に解決方法は無く、現在の「人権意識」を過去に適応する事には何の合理性も有りません。つまり、日本が対応してきた戦後補償などは、様々な過去の(外交)問題に対する「非合理性」が齎した人災と言えます。
「自粛の要請」「マスク着用のお願い」「希望者に対する職域集団ワクチン接種」・・・。これらは全て「自由意思で従う事が強制」されます。或いは、「強制性がなければ自由な行動が出来ない」のが、今の『WHY JAPANESE PEOPLE!?』 なのかもしれません。
但し、「PEOPLE」は人民で、国民は「NATION」です。
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