オメガねこ

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「宗教的活動」 と 「宗教活動」 Ⅱ

2019年12月29日 | 思想・思考
 ネタ切れに付き、過去記事の「編集・加筆」です。

 「儒教」は孔子を始祖とする思想・信仰で、学問的側面からは儒学、思想的側面からは孔子教と言われます。日本では儒教を学問として儒学と言い、経世済民(経済)思想や帝王学として受け入れられ、宗教的部分は仏教に習合されました。

 沖縄で1975年に再建された孔子廟は2013年に那覇市が旧久米郵便局跡地を無償で提供し移設されました。この孔子廟は、支那の明朝や清朝に由来する久米崇聖会の管理施設であり、孔子を祀っている霊廟なので、宗教施設と言えます。孔子廟で行われる祭礼は「宗教行為」そのもので、当然ながら那覇地裁は「那覇市による土地の無償貸与は無効」としました。

 憲法第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

 「キリスト教」はナザレのイエス(耶蘇)をキリスト(=救世主)とする宗教です。イエスは元々はユダヤ教徒でしたが、イエスの死後、弟子たちがその教えを「キリスト教」として広めました。日本では戦国時代に「耶蘇教(イエスの教え)」として本格的に伝わり、時代を経て英語表記の「Christian」から「基督(キリスト) 教」に変わりましたが、「キリスト」とは救世主と云う意味なので、キリスト教徒以外の人が「キリスト教」と言うのは間違いです。仏教では阿弥陀仏などの仏様が「救い主」であり、意味からすると仏教徒のキリスト(=救世主)は仏様と言えます。また、「イエス」は仏教徒を救ってくれない事は明らかなので、本来は「耶蘇(イエス)教」と書く方が正しいと思います。

 一週間が7日である事や日曜日が休日である事は、旧約聖書に書かれています。厳密に言うと公共機関が日曜日に休むことは、「旧約聖書」に従う事になり「宗教的行為」であり憲法違反に当たります。フランス革命やロシア革命によって、1週間が7日である事はカトリックの教えであるとして廃止されましたが、カトリック教会との和解によって「週7日制」は復活しました。

 日本国憲法第20条第3項
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 日曜日に休む事自体は活動ではないので「宗教的風習」とは言えても、「宗教的活動」とは言えません。しかし、法律で一週間を七日とし日曜日を定め、国民に休日を与える事は「国の宗教的活動」と言えます。

 日本には14世紀頃、六曜が中国から伝わり、六日単位の区切りが使用されていましたが、現在では「解放同盟」が「六曜のような迷信を信じることは差別的行為につながる恐れがある」などの理由から、公共機関での使用禁止と、六曜そのものの廃止を求めています。ならば、「世紀」や「西暦」「日曜日」等も迷信由来であり、廃止を求めるべきです。

 「週7日制」の由来は、神が宇宙と生物を六日で創り七日目に休んだことで日曜日が休日になったとの解釈が主流です。また、紀元や紀元前はイエス・キリストの生誕に由来します。これを国が率先して使用する事は、他の宗教を差別する事になります。

 一方、神道には教祖も経典も無いので宗教とは言い難いにも拘らず、単なる「習俗的行為」でしかない神社参拝は、公務員が公務中にする事は禁止されています。ところが、相撲は神道に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として奉納相撲が行われていますが、公務員である首相が総理大臣杯を土俵の上で贈呈しています。大相撲の土俵の上は女人禁制であり、極めて宗教色が強い場所です。

 また、被災者に対する黙祷は、その意味からして「宗教的行為」です。黙祷とは、無言で神等の人間を超越した対象に対してお願い等をする事です。唯物論では、人が死んで「焼却し廃棄」した結果、原子や分子に分解されたモノに対して祈る事は無意味であり、更に、神も仏もいないので祈る相手もいない事になります。

 これらの矛盾は、「宗教活動」と「宗教的活動」、或いは「習俗・風習(神道の外景)」の曖昧さから来ます。しかし、GHQ由来の昭和憲法に「落書き」されているのは「宗教的活動の禁止」なので、公務員が公務中に大相撲に関与する事や、被災者に対し公務中に黙祷する事も憲法違反になります。これらは「宗教活動」ではないにしても、宗教に由来する「宗教的な活動」だからです。



2 コメント

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Unknown (yk-soft-85)
2019-12-30 08:01:28
「待つこと」の終末の要因が、「核」なのか「他の宗教」なのかは判りませんが、確実に「終末」が来ることは「耶蘇」でなくても、容易に判ります。しかし、実際に「終末」を経験できるのは、数億年先なので「神に似せて造られた人間」ではないと思います。
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Unknown (mobilis-in-mobili)
2019-12-30 00:03:42
【救い主について】ナザレの人、イエス・キリストが『世の終わりは近い。悔い改めよ。』と説いてから、実に2000年以上の年月が過ぎ去りました。もはや何がなんでも終末は目前に迫っているに違いありません。キリスト教徒の本質は『待つことである』と、言えるでしょう。
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