殺人犯に対する死刑判決で、一部の(人権派)知識人は「死刑は国家による虐殺だ」と言って、人権侵害を訴えます。
民主主義国では一般に、自ら権利を放棄する事は可能ですが、他人によって奪われる事は有りません。 例えば、他人に何かを奪われた場合でも、その所有権までもが不当に奪われる事はありません。この被害者の権利を保障する為に、裁判があります。
他人を殺した場合は、殺された人の生存権が奪われたのではなく、生存権が侵害されその結果として死亡に至ったということです。 一方殺人犯罪者は、自分の生存権を放棄したと見做します。何故なら、刑法に「人を殺した者は、死刑・・・」と書いて有り、これを承知の上で(或いは知らなくても)殺人罪を犯したのだから、その時点で自らの生存権を放棄したと言えます。これが、死刑の正当性です。
窃盗犯は盗んだ物を、その所有権者に還す義務が有ります。同じ物が無い場合は、等価物で代替可能となります。殺人の場合は「被害者の人権」に等価なるモノは無いのですが、法律上「加害者の人権」と等価と見做し、死刑が妥当とされます。道理では、「 被害者の人権 > 加害者の人権 」なのですが、法律では両者を等価と見做していて、死刑でも「加害者の人権」を十分すぎるほど重視していると言えます。
「刑法第199条:人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」と書いていますが、死刑執行人は、死刑でヒトを殺しても罪には問われません。 これは、死刑宣告を受けた人には生存権が存在しないからです。
法律を矛盾なく読むには「他人の権利を侵害する者は、同時に同程度の自分の権利を放棄した」と理解すべきです。 将来に於いて安楽死に対して、「正当に生きる権利を放棄した人」に対して「正当な処置を施した医者」は、罪に問われなくなる時が来ると思われます。
殺人で最も人権侵害を受けるのは殺された当人で、その家族は二次被害者です。殺人犯は加害者ですが、その家族は三次被害者とも言えます。 殺人の加害者は周囲の人の人権を侵害し、相応の刑事罰は死刑もあると法律に書かれていて、これは民主主義国家の手続きを経て決まった事です。
これが、国家による虐殺なら、民主主義国家を構成する国民が殺した事になり、国民は刑罰を受ける事になります。勿論、これらの知識人も国民の一人なので、当然にして刑罰の対象になります。しかしながら、この種の刑罰は法律には書かれて無いので、人治主義で決めなければなりません。
民主主義を否定し、人治主義で人権派の自分自身に科す、虐殺相応の刑罰がどのようなものか聞きたいものです。 或いは、民主主義を肯定するのなら、人権派の人も「殺人者の人権を侵害した構成員の一人」なので、自ら「虐殺」に対する落とし前を付けてもらいたいものです。
但し、「死刑は国家による虐殺だ。」ではなく、「死刑制度には反対だ。」の意見は国民の20%が同意しています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます