オメガねこ

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「知っている事」 と 「信んじている事」

2019年09月19日 | 思想・思考

 神の存在を信じている人は、誰かに「神を信じますか?」と問われると「はい、信じます。」と答えます。

 宇宙人の存在を信じている人が、誰かに「宇宙人を信じますか?」と問われたら「宇宙人の存在を信じているだけであり、宇宙人の言動を信じる訳では無い。」と答えると思います。

 これは、神は完全であり部分性は無い為に、総てを一体として信じなければならないと云う「脅迫観念」が有るからです。

 神に直接会って「神を知っている人」の中には、モーゼやイエス、ムハンマドがいて、同じ神に対して、それぞれ「別の宗教(宗派にも見える)」の開祖(始祖・教祖・宗祖等)になっています。これが「神の意志」かどうかは判りませんが、神には部分性が無いにも拘らず、人間を分断します。「異端は異教より憎し」の格言?にも有るように、この人間達は「脅迫観念」に憑りつかれていて、「神の奪い合い」の為に殺し合いを始めます。この歴史は、信者自身が「神の絶対性」を否定する事を意味し、「神が存在しない事を知っている人」にとっての「無神論」の根拠になります。

 信教の自由が無い地域では当然ですが、自由が認められている地域でも、生まれた環境でその人の宗教はほゞ決まりますが、それでも「自分は自由意思で神を信じている。」と信じます。信者は「神を知っている」のではなく、「神を信じている」と信じているのです。他に、「神はいても良いが、神の言う事は信じない。」と、神や宗教を相対化する人もいます。

 恐らく、「神を信じますか?」と質問をする信者は、相手(信者も含む)に対して「神を信ぜよ。さらば救われん。」を前提にした言動なので、この信者自身は他の信者に対しても、「神を知る必要はない、ただ信じるだけで救われる。」と信じている事になると思います。更に、これが「神自身の言葉」だとしたら、神は悪魔の存在を容認していると解釈できます。

 「信じる」の意味は「他の可能性も容認するが、これ(他の可能性)は本意ではない。」と云う事で、逆説的に言うと「神はいても良いが、神の言う事は信じない。」と同様に、民主主義の構造と似ています。

 「私は日本国民を信じる。」は、自然災害などで混乱する人も出る事は容認するが、全体としては「自らの力で必ず復活すると信じている」の意味です。

 「私は神を信じる。」は、自然災害などは「神の意志」なので死者が出る事を容認するが、人間が絶滅する事は無いし「死者は天国に召されると信じている」の意味です。

 民主主義では、他の少数意見を容認する事で混乱も予想されるが、全体としては良い未来が拓けることを期待しています。

 「自分は信じている」と自分が信じる事は、他人からトヤカク言われる事のない「主観」であり、「客観性」は不要です。民主主義は「主観」の数量で政策を決定するシステムで、「客観性」が入ると「忖度政治」になります。「忖度政治」には、現象の事実を「知っている事」が重要で、「民の竈」は「忖度政治」の見本ですが、誰もが出来る事ではありません。。

 一方、「知っている事(知識)」は「客観性」のある事実ですが、これを現象の事実を無視して援用する事には危険性が伴い、「東大閥」などに見られるように権威主義の力学に利用され、腐敗を招きます。「この事実を知っていますか?」と質問する事は、「自分の知っている事は正しいのであなたも同意しなさい。」と強制する意味も含まれ、「知識」は自身のみならず他人の行動も拘束します。これが「独裁主義」の原点です。

 「信じている事」は、これが最初から「主観」である事を認識できれば、多様性も容認できます。勿論、ここで言う「信じている事」は「狂信者の信念」ではなく、「他の可能性も容認するが、これは本意ではない。」と云う意味です。これは「民主主義」の原点です。



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