例えば、金持ちRが百円硬貨と五百円硬貨しか所持していない時に、第三者Aが「Rは一万円札を持っている」と信じて口外した場合には、「真実相当性」があると言えます。しかし、そこには「真実性」は有りません。
Aの言動に「真実性」を与えるには、少なくともRが直近に一万円札を持っている事を確認する必要が有ります。但し、Aの認識後、Rは直ぐに遺失して一万円札を持っていないかも知れませんが、それでも「真実性」は担保されます。
つまり、「真実性」及び「真実相当性」は、「真実」とは限らないと云う事です。「真実」とは当事者の主観であり、「真実性」は多くの人の客観性を必要とします。「真実相当性」の場合は、客観的・合理的に信じるに値する状態である必要が有りますが、その判断は少数でも可能です。
例えば、貧乏人Pが百円硬貨と五百円硬貨しか所持していない時に、第三者Aが「Pは一万円札を持っていない」と信じて口外した場合には、「真実相当性」があると言えます。また、そこには「真実性」も有ります。Aは、Pが一万円札を持っているのを見た事が無いので、当然です。
それでも、直近にPが一万円札を拾得した可能性も有るので、Aの言う事が間違いであるかも知れません。「真実」とは当事者の主観です。但し、拾った「一万円札」が偽札である可能性も有るので、人間の主観である「真実」が「事実」とは限りません。
『事実;Wikipedia』
もともとは、神がしたこと、という意味である。
まずラテン語のfacere(あるいはfacio)「する」「行う」という意味の動詞 があり、その過去分詞形factumが「(神によって)行われた」と形容詞的に用いられ、それが名詞化し「(神によって)行われたこと」を意味するようになったものである。
フランス語のfaitも同様で、faire(する、行う)という動詞があり、その過去分詞形のfaitが名詞化したものである。
英語のfactも15世紀にラテン語のfactumを語源として使われるようになったものである。
「実在的なもの」とされるのであるため、幻想・虚構・可能性などと対立する。
「Nアッチ系」の「眞相はかうだ(こうだ)」でも明らかなように、「真」とは主観を意味します。漢字の音符で 「眞」 と 「相」を調べると、
眞;「鼎(かなえ:三つ足の鍋)で煮炊きした食べ物を匙ですくう形で、鼎のなかに食べ物がいっぱい入っているさまを表す。その中身がいっぱいに詰まっていることから、「ほんもの」「まこと」の意味に仮借カシャ(当て字)された。篆文から眞の形になり、新字体は、さらに真に変化する。
相; 「木+目」の会意。枝葉の茂った大きな樹木を目で見ること。単に見るのでなく、その雄大な姿を自分と向き合う存在(相手)として見ること。
だそうです。鍋の中に実がたくさん入っていれば「真実」であり、「事実」には神の関与が必須となります。また、自分の目の前の存在が大きい場合を「相手」と云い、反対に、弱く小さい人に対し「相手にならない」と言う事からも、分かりますww
「眞相はかうだ」の内容は「米国の作った物語」であり、「Nアッチ系」は中身が「事実」ではない事を「眞相」と表記して、小さな抵抗を示したのかも知れません。当然、この「眞相」には「真実相当性」は有ります。
日本国民にすれば「Nアッチ系」は巨大なプロパガンダ機関なので、「真実相当性」に過ぎない「眞相」を「事実」と信じ込む人も多くいたようです。
日本は「政教分離」なので、行政・司法・立法に於いて神の関与を拒否している事から、「事実」を扱うことが出来ないのかも知れませんww
世界の保守層が「事実」を尊重するのに対して、革新系に「無神論者」が多いのも納得できそうな気もします。
Aの言動に「真実性」を与えるには、少なくともRが直近に一万円札を持っている事を確認する必要が有ります。但し、Aの認識後、Rは直ぐに遺失して一万円札を持っていないかも知れませんが、それでも「真実性」は担保されます。
つまり、「真実性」及び「真実相当性」は、「真実」とは限らないと云う事です。「真実」とは当事者の主観であり、「真実性」は多くの人の客観性を必要とします。「真実相当性」の場合は、客観的・合理的に信じるに値する状態である必要が有りますが、その判断は少数でも可能です。
例えば、貧乏人Pが百円硬貨と五百円硬貨しか所持していない時に、第三者Aが「Pは一万円札を持っていない」と信じて口外した場合には、「真実相当性」があると言えます。また、そこには「真実性」も有ります。Aは、Pが一万円札を持っているのを見た事が無いので、当然です。
それでも、直近にPが一万円札を拾得した可能性も有るので、Aの言う事が間違いであるかも知れません。「真実」とは当事者の主観です。但し、拾った「一万円札」が偽札である可能性も有るので、人間の主観である「真実」が「事実」とは限りません。
『事実;Wikipedia』
もともとは、神がしたこと、という意味である。
まずラテン語のfacere(あるいはfacio)「する」「行う」という意味の動詞 があり、その過去分詞形factumが「(神によって)行われた」と形容詞的に用いられ、それが名詞化し「(神によって)行われたこと」を意味するようになったものである。
フランス語のfaitも同様で、faire(する、行う)という動詞があり、その過去分詞形のfaitが名詞化したものである。
英語のfactも15世紀にラテン語のfactumを語源として使われるようになったものである。
「実在的なもの」とされるのであるため、幻想・虚構・可能性などと対立する。
「Nアッチ系」の「眞相はかうだ(こうだ)」でも明らかなように、「真」とは主観を意味します。漢字の音符で 「眞」 と 「相」を調べると、
眞;「鼎(かなえ:三つ足の鍋)で煮炊きした食べ物を匙ですくう形で、鼎のなかに食べ物がいっぱい入っているさまを表す。その中身がいっぱいに詰まっていることから、「ほんもの」「まこと」の意味に仮借カシャ(当て字)された。篆文から眞の形になり、新字体は、さらに真に変化する。
相; 「木+目」の会意。枝葉の茂った大きな樹木を目で見ること。単に見るのでなく、その雄大な姿を自分と向き合う存在(相手)として見ること。
だそうです。鍋の中に実がたくさん入っていれば「真実」であり、「事実」には神の関与が必須となります。また、自分の目の前の存在が大きい場合を「相手」と云い、反対に、弱く小さい人に対し「相手にならない」と言う事からも、分かりますww
「眞相はかうだ」の内容は「米国の作った物語」であり、「Nアッチ系」は中身が「事実」ではない事を「眞相」と表記して、小さな抵抗を示したのかも知れません。当然、この「眞相」には「真実相当性」は有ります。
日本国民にすれば「Nアッチ系」は巨大なプロパガンダ機関なので、「真実相当性」に過ぎない「眞相」を「事実」と信じ込む人も多くいたようです。
日本は「政教分離」なので、行政・司法・立法に於いて神の関与を拒否している事から、「事実」を扱うことが出来ないのかも知れませんww
世界の保守層が「事実」を尊重するのに対して、革新系に「無神論者」が多いのも納得できそうな気もします。
旧年中は非常に為になる講義を教授させて頂き、
毎日、お勉強状態でした。どうも有難うございます。
物事を客観的に捉えるのは非常に難しいです。
ですが脳の活性化には大いに役立つと愚考してます。
今年もますますのご活躍を期待しております。
よろしくお付き合い下さいます様に...感謝です。
私の科学的駄文は、脳の活性化に役立っても、社会では何の役にも立ちません。
本人が言っているので、間違いないww