オルテガは「(大衆とは)ただ欲求のみを持っており、自分には権利だけあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない。(つまり、)みずからに義務を課す高貴さを欠いた人間である。」と言っているようですが、私は、本を読まないので判りませんし、その上「原文」を知る由もないのですが、この場合の「人間」は、社会構造を成す「ヒトの集合体」であり、個別の「ヒト」を意味するものではないと思われます。
つまり、オルテガ自身が「ヒトでなし」ではないと仮定したら、「社会性」を持った瞬間に「高貴さを欠いた人間」の一成分になり下がると、自ら認めていると言えます。当然ながら、共産主義国家では「人民には権利が無く、自ら課す義務すら無い」ので、「大衆」は存在できない社会体制と言えます。共産主義国家では、「権利」と云う名で施しを受け、「義務」と称する命令が有るだけです。共産主義国家の「ヒトの集合体」が、「国民」や「大衆」ではなく、「人民」である理由がここにあります、
「本来の日本」の場合は、「権利」に対する施しは無くとも「義務」の場合は自ら遂行される事から、これは「国民」と言えます。字義で言う「義務」は、教育の結果として自ら課すものであり、お願いされる筋合いはないのですが、民主主義・法治国家である以上は「上からのお願い」も止むを得ないのかも知れません。但し、これが行き過ぎると「国民」は「大衆」に変貌します。
「大衆」とは、ヒトの大脳皮質の制御下にある人間の集合体なので、教育を含む洗脳によって維持できる事は「歴史が証明」しています。
「自然保護」を合理的に否定出来る人はいないと思いますが、「自然の摂理」を守った場合は「自然淘汰」を受け入れる事になります。アポトーシスは自然現象で、合理的に「不要な成分」を破壊・処理しますが、人間社会で行われると悲惨な結果を迎える事になります。
これを回避するには「人間と自然」を分離するか、人間が自然を支配する必要があります。ここで言う「人間」とは支配者層のことで、その他の「ヒト」は自然の一部、つまり「人民」の事です。これは「共産主義」を合理的に肯定します。
共産主義の理論(科学的社会主義)は、ブルジョアであるコーエン&ロスチャイルド家の一員のマルクス(1815~1883年)によって提起されました。その理論では、人間社会は階級対立を通じて発展するとされ、資本主義下での階級対立は、何れその内部崩壊とともに社会主義へと変革されると予測したのですが、社会主義化後の階級闘争には触れていないようです。
大侵略時代(通称、15~17世紀の大航海時代)に植民地を増やして来た欧米列強が、日本の台頭により危うくなり、日露戦争を経て、マルクスの理論が実践されました。ロシア革命により共産主義国家が成立し、「人民階級」が誕生しました。この「人民」とは、被支配層の事で「家畜」と言い換えた方が解りやすいかもしれません。
この成功例を見た欧米列強の支配層は、他国の「人民」から直接搾取するのではなく、他国人民を間接統治た方が合理的である事に気が付き、ワンワールドによる世界支配を企てました。
そこに立ち塞がったのが大日本帝国ですが、当然の結果が待ち受けていました。「国民」よりも「人民」の方が、科学的な進化形であることはマルクスは150年前に言っています。
マルクスは「人間解放」を主張し、無産階級(プロレタリア―ト)を「非人間的な扱いを受けた労働者階級」と定義付け、「人民」として「解放」する事を目指しました。ブルジョア系のマルクスが言う「人間解放」や「科学的共産主義」の意味を日本人は理解する事が出来ないようですが、支那大陸では「人民解放」に成功し、「日本から緑化事業の資金」を得て、禿山に緑のペンキを塗ることで見事に「科学的な自然保護」を成し遂げました。
「人民と自然」を一体と考えれば「自然保護」は簡単に解決可能で、自然災害も単なる自然現象と解釈され、自然環境下に於ける「アポトーシス」に過ぎないと言えます。日本で活躍している「環境保護団体」や、新幹線による環境破壊に反対している「県知事」は、支那大陸での出来事を勉強したようで、熱海で自然淘汰が利用され、社会に不要な廃材・残土を処理し、県民もアポトーシスされたようです。
DSの求める「ワンワールド」は、支配層のみが「人間」であり、他は「自然」に分類されます。「国民」を解放し「人民」とする事で、「人間」にとっての、誇り有る明るい未来を望んでいるようです。
つまり、オルテガ自身が「ヒトでなし」ではないと仮定したら、「社会性」を持った瞬間に「高貴さを欠いた人間」の一成分になり下がると、自ら認めていると言えます。当然ながら、共産主義国家では「人民には権利が無く、自ら課す義務すら無い」ので、「大衆」は存在できない社会体制と言えます。共産主義国家では、「権利」と云う名で施しを受け、「義務」と称する命令が有るだけです。共産主義国家の「ヒトの集合体」が、「国民」や「大衆」ではなく、「人民」である理由がここにあります、
「本来の日本」の場合は、「権利」に対する施しは無くとも「義務」の場合は自ら遂行される事から、これは「国民」と言えます。字義で言う「義務」は、教育の結果として自ら課すものであり、お願いされる筋合いはないのですが、民主主義・法治国家である以上は「上からのお願い」も止むを得ないのかも知れません。但し、これが行き過ぎると「国民」は「大衆」に変貌します。
「大衆」とは、ヒトの大脳皮質の制御下にある人間の集合体なので、教育を含む洗脳によって維持できる事は「歴史が証明」しています。
「自然保護」を合理的に否定出来る人はいないと思いますが、「自然の摂理」を守った場合は「自然淘汰」を受け入れる事になります。アポトーシスは自然現象で、合理的に「不要な成分」を破壊・処理しますが、人間社会で行われると悲惨な結果を迎える事になります。
これを回避するには「人間と自然」を分離するか、人間が自然を支配する必要があります。ここで言う「人間」とは支配者層のことで、その他の「ヒト」は自然の一部、つまり「人民」の事です。これは「共産主義」を合理的に肯定します。
共産主義の理論(科学的社会主義)は、ブルジョアであるコーエン&ロスチャイルド家の一員のマルクス(1815~1883年)によって提起されました。その理論では、人間社会は階級対立を通じて発展するとされ、資本主義下での階級対立は、何れその内部崩壊とともに社会主義へと変革されると予測したのですが、社会主義化後の階級闘争には触れていないようです。
大侵略時代(通称、15~17世紀の大航海時代)に植民地を増やして来た欧米列強が、日本の台頭により危うくなり、日露戦争を経て、マルクスの理論が実践されました。ロシア革命により共産主義国家が成立し、「人民階級」が誕生しました。この「人民」とは、被支配層の事で「家畜」と言い換えた方が解りやすいかもしれません。
この成功例を見た欧米列強の支配層は、他国の「人民」から直接搾取するのではなく、他国人民を間接統治た方が合理的である事に気が付き、ワンワールドによる世界支配を企てました。
そこに立ち塞がったのが大日本帝国ですが、当然の結果が待ち受けていました。「国民」よりも「人民」の方が、科学的な進化形であることはマルクスは150年前に言っています。
マルクスは「人間解放」を主張し、無産階級(プロレタリア―ト)を「非人間的な扱いを受けた労働者階級」と定義付け、「人民」として「解放」する事を目指しました。ブルジョア系のマルクスが言う「人間解放」や「科学的共産主義」の意味を日本人は理解する事が出来ないようですが、支那大陸では「人民解放」に成功し、「日本から緑化事業の資金」を得て、禿山に緑のペンキを塗ることで見事に「科学的な自然保護」を成し遂げました。
「人民と自然」を一体と考えれば「自然保護」は簡単に解決可能で、自然災害も単なる自然現象と解釈され、自然環境下に於ける「アポトーシス」に過ぎないと言えます。日本で活躍している「環境保護団体」や、新幹線による環境破壊に反対している「県知事」は、支那大陸での出来事を勉強したようで、熱海で自然淘汰が利用され、社会に不要な廃材・残土を処理し、県民もアポトーシスされたようです。
DSの求める「ワンワールド」は、支配層のみが「人間」であり、他は「自然」に分類されます。「国民」を解放し「人民」とする事で、「人間」にとっての、誇り有る明るい未来を望んでいるようです。
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