ゆめのつづき

リアル世界では秘密にしていることなど、
生きづらさを吐露する場所にさせて頂けたらと思います。

小中学校9年間

2023-06-14 21:03:00 | JWとの関わり
こんばんは、
元JW2世
40代独身♀
南由斗です。
 
 
「愛のある懲らしめの鞭棒」でたたかれて育ったわけですが、
 
うちは父の反対が強かったので、
周りの2世よりは進歩が遅かったです。
 
母も、きっと自分のことで精いっぱいだったのかもしれませんが、
私に特権を得るように強くは言いませんでした。

私の父への態度がひどかったのもあるかもしれません。

JWの教えの中で、
家庭内でも慎ましく模範的な振る舞いをしなければならないと教わりますから、

特権を得るにはまだふさわしくないと母が判断していた可能性はあります。
 
中学生までは、
母との聖書研究のほかに、
日曜日の集会と休日の野外奉仕に参加するだけでした。

父が仕事から帰宅していない時は、
夜の集会に出席しました。
帰宅すると、
玄関で待ち構えていた父に怒鳴られ、
塩をまかれました。

私には自分の部屋がなくて、
居間にしか居場所がなかったので、
何時間も説教というかJWの悪口をグチグチ聞かされて、
ものすごく嫌でした。
 
よく「ク〇じじい!うるせぇ!」って汚い言葉を父に浴びせていました…

母はよく、
「ちょっとあんた…そんな言葉遣いじゃ証言にならないでしょ」
とおろおろしていました。
 
今となっては両親に申し訳ないです……
 
大会がある日は、
学校を休んで行くのですが、
母は当日になってやっと父に、
「今日から3日間大会だから」と打ち明けるので、
父から「学校行け」と怒鳴られて、
逃げるようにして家を出て大会に出ていた記憶があります。
 
父が見える所に宗教の出版物を置いておくことも禁止だったので、
父がいない時や入浴中に聖書研究をしたり集会の予習をしたりして、
父が居間に戻ってきたら慌てて出版物を隠して、
学校の宿題をしているふりをするというのが続きました。
 
 
周りの2世は、お父さんが理解者である子が多く、
中学生で伝道者になっていたりバプテスマ(献身・洗礼のこと)を受けていました。

バプテスマは大会で行われるのですが(…でしたよね…?)、
同年代の子がバプテスマを受けるのを見るたびに、
『あ〜あの子もエホバ側に持っていかれちゃった』
と思っていました。

私は伝道者になる気さえありませんでしたし、
バプテスマなんてもってのほかでした。
 
弟2人は聖書研究を嫌がって、
集会もあからさまに拒絶するようになり、
特に母が可愛がっていた下の弟が、
小学校高学年で不良グループと関わってグレるようになってしまい、
小学校にもあまり登校しなくなりました。
 
上の弟も、グレるまではいきませんでしたが、
宗教からも家族からも離れていきました。

 
なので、母の期待の眼差しは私だけに向けられているような気がして、
私は嫌々ながらも宗教から離れることができずにいました。
 
 
小中学の9年間、
いじめを受け、
クラスメイトの嫌なところばかり見て、
 
そもそも世の人と親しくなってはいけないため友達もろくにできず、
友達ができたとしても、
私の人間性に問題がありすぎて、
1週間も仲良しを続けることができず、
すぐ仲違いしてしまったりしていました。

 
JWにおいて、
学歴は軽視されてきたので、
必要ないと思って勉強もろくにせず、
特に数学は赤点で補習ばかり。
 
楽しみごとは一人でお絵描き、
休みの日は母と伝道活動に行く。
 
帰宅しても、父と怒鳴り合い。
 
といった具合で、
毎日地獄のような日々でした。
 
早く大人になって、
懲らしめの鞭を受ける方じゃなく、
与える側になりたいと思っていました。

同時に、
大人になって、
この世の人たちと仕事をしなければならないのは辛いから、
大人になる前にどうにか死にたいとも思っていました。

中学2年・3年頃は、
ストレスから、毎日自分の髪の毛をむしっていました。

ストレスとは気付いてなかったですが、
髪の毛を抜くたびに、
快感を得られたのと、
アトピーがひどかったので、
かゆみを誤魔化せたからだと思います。



私の人格はすっかり歪んでしまっていました。

小中学時代はこんな感じです。

※あ、人格が歪んでいるのは今も治ってません笑



ひどい文章ですが、
読んでくださっている方、
ありがとうございます。

ゆっくりではありますが、
今度は高校に入ってからのことを書こうと思います。

鞭の記憶

2023-06-12 20:58:00 | JWとの関わり
こんばんは、
40代独身♀
南由斗です。


宗教2世問題の中で、
JWの体罰・虐待・鞭がこんなに世間を騒がせていることに驚いている今日この頃です。

なぜなら、私にとっては、それが普通の生活だったから。

周りの2世も同じようにしつけられていたので、当たり前だったから…

うちには、母の司会者であるK姉妹から手に入れたゴム製の鞭棒があり、
それはそれはしなやかで、
少しの力でもかなり痛めつけることができる素材でした。

回数は人にもよるでしょうが、
大体は何十回もたたかれるわけですから、
今考えると、実の母から拷問のような虐待を受け、それも組織ぐるみで推奨していたと思うとゾッとします。

大人同士の会話で、

『叩く方が痛いのはダメだから、素手で叩くのはダメ』とか、
どうしたら痛みを強められるかとか、
そんな会話が聞こえたのを覚えています。

素手で叩くと、痛みが伝わって、
情でたたけなくなってしまうからでしょうかね。

母も、いろいろと工夫していて、
緑のゴムホースを使ってみたり、
布団たたきを試したりしていました。

布団たたきは、木製もプラスチック製もあったと思うけど、すぐ壊れてしまいました。
壊れるぐらい叩かれたからなんですけどね。


鞭でうたれる時は、お祈りの後、
『お願いします』と言って自分でズボンをおろしました。

ぐずぐすしていると、
恐怖のカウントダウンが始まります。

0になると容赦なく鞭うち開始です。

当然痛みで避けようとしたり手で防御しようとしたりします。

避けようとすると回数が増えましたし、
防御しようとした手に鞭が当たろうがお構いなしに叩かれました。

終わったら、『ありがとうございました』と言わされました。

その日のお風呂はお尻がヒリヒリ痛かったです。

パンツまでおろしたかどうか、確証はないですが、

「はい、おしり出して」
とよく言われたので、パンツをおろしたことあったかもしれません。

うちは3人兄弟なのですが、
3人とも鞭でうたれる時は、長女の私から順番にたたかれるので、
私がたたかれている間に、
弟2人はトイレに逃げ込んでやり過ごす知恵を身につけます。

弟たちは、パンツの中に新聞紙をかませて、なるべく痛くないように工夫していました。

下の弟は、母親キラーだったので、
かなりの頻度で鞭を逃れていました。

顔がとても可愛くて愛嬌があったので、
母は怒れなくなってしまったらしいです。

私と上の弟は激しく鞭をうたれたので、
私たちはすごく神経質な人間になりました。

ストレスもあるのか、
2人ともアトピーがひどく、かんしゃくもちだし、常にイライラしていました。

上の弟は、大きくなってから、
「宗教とアトピーさえなければ」
とよく言っていました。


ところで、
同じゴム製の鞭棒が王国会館の第二会場にもあり、
言うことを聞かない子供が、その鞭棒でたたかれるわけですが、

最近どなたかのブログで読んだ記事にも、
たぶんまるきり同じゴム製の鞭棒のことが書かれていたので、
JW組織の中で、広めていた信者がいたのかもしれません。

私が幼い頃は、会衆に宣教者がいたような記憶があります。

35〜40年くらい前かな?

リチャード名◯っていう兄弟の名前をすごく覚えていますが、
たまたま来ていた所に会っただけなのか、
うちの会衆に在籍していたのか、分からないですが、
すごい人で雲の上の人なのだろうなと思っていました。

きっと、こういう人たちの指導のもと、
懲らしめの鞭棒は使用されたのでしょう。
確証はなく、憶測でしかないですが。


鞭うちは嫌だったけど、
大人になってからも虐待されていたとは気付いてなくて、
(虐待っていう言葉もまだなかったか、知らなかった)

親の信じていることは正しくて自分が言うことを聞かなかったから仕方なかったんだと思っていました。


宗教の活動は嫌々やっていて、
心まで持っていかれてないから、
洗脳されていないと思っていたのですが、

28歳くらいの時に、
あるサイトで知り合った元JWの方に、

それ虐待だよ、
洗脳されてるよ、

って教えてもらって知ったんです。

その辺のことはまた追って書けたらと思います。


ということで、
思い出してみた鞭の記憶でした。

狂った人生のはじまり

2023-06-10 22:03:00 | JWとの関わり

こんばんは

元JW2世、40代独身♀

南由斗です。

 

人生が狂った最初のきっかけって何だったっけ?

 

思い出しながら書いていこうと思います。

 

うちは、両親と私と弟2人の5人家族です。

父は高校の教師で、母は教え子だったらしいです。

子供3人ももうけてるし、最初はきっと仲の良い家族だったんだと思います。

小さい頃、父が仕事に出かける前や、帰宅後に、

みんなで玄関まで出てお見送りやお出迎えをしていたり、

その時に父から”高い高い”をしてもらったり、

握手か何かしたりした幸せだった記憶があります。

 

だけど、ほどなくして、

家庭内は険悪ムードへと一転します。

 

私がまだ幼稚園の頃、

母は、K姉妹

(JWは、献身したら「兄弟」「姉妹」と呼び合う…で合ってるかな?)

の訪問を受け、聖書の研究をするようになりました。

K姉妹が他の人を連れ添ってくることもよくあり、

母が信頼しきっている様子から、

良い人なのだろうというのは思っていましたが、

同時に、異様な雰囲気も感じ取っていました。

 

そのうちに、K姉妹が来ると、

母が鞭でたたいてくるというパターンも理解するようになりました。

衝撃だったのは、

K姉妹か誰かが、他人の子供を別の部屋に連れて行って鞭をしていたことです。

お手本を見せるみたいな感じだったかと。

その他人の子供というのが、

私だったのか、弟だったのか、

それとも別の研究生の子供だったのか覚えていないですが、

昭和ならではの、みんなでしつけしましょう的な感じなのかなと思っていました。

 

普通の方には分からないと思うけど、洗脳状態にあるので、

どんなにギャン泣きしながら別の部屋に連れていかれてたたかれている子供がいても、誰も止めようとか思わないんです。

 

自分がそうなっても、助けてもらえるとか止めてもらえるとか、期待すらしません。

 

だって、その宗教の中では、それがちゃんと教育してしつけていて模範的なのだから。

止めるとしたら、悪になってしまう。

 

日曜日には、

反対者の父を家に置いて4人で王国会館(JWの集会場所)に行きました。


平日週2日ほど、夜の集会もあり、

父が仕事から帰宅する前に4人で集会に行くこともありました。

 

当時の私には想像力がなかったので、

どうして父がそんなに反対するのか、

どうして母と仲良くできないのか疑問でした。

そりゃそうですよね。

 

今までの家族のだんらんはなくなり、

食卓を囲む回数も減り、

仕事から帰宅しても誰もいなくて、

作り置きの夕飯がサランラップしてあって、

むなしく一人で食べる…

 

そんな様子を想像力を働かせて一度すら考えてみることができなかった私。

 

いつしか、両親は家庭内別居していました。

父は、2階の部屋から出てこなくなりました。

食事は2階で食べ、2階で寝るようになりました。

子育てに興味・関心を示さなくなりました。

 

反対者の父はサタン側だと洗脳され、

私も関わらないようにしていましたし、

父には長い間ずいぶん反抗的な態度をとりました。

 

同時に、父が家にいる時は、母は積極的にはたたいてこなかったので、

鞭打ちの刑にあった時は、父が早く仕事から帰ってこないかなと思ったものです。

 

だけど、虐待に気づいていてちゃんと助けてくれない父に、

恨みもかなりあったと思います。

 

小学生にあがって、学校から帰宅すると、母の研究中だったりして、

極度の人見知りだった私は、玄関にうじうじとどまっていて、

部屋の扉をあけることができないこともありました。

 

そうすると、研究に参加しなかったということで、鞭をうたれた記憶があります。

私も母の司会で聖書研究をさせられていました。

お祈り、日々の聖句、聖書通読にはじまり、学校での証言の練習などなど…

本当に嫌で嫌で仕方なかったですが、

鞭でうたれるので仕方なくやっていました。

 

学校が楽しければ少しは良かったのでしょうが、

小学1年生の担任の先生は、

昭和にはよくいた体罰教師だったので、

私は毎朝たたかれていて地獄の日々でした。

 

先生にたたかれていた原因は、

母の決めたルールのせいです。


母が決めた学習のノルマが達成できたら学校に行けるという謎のルールがあり、

登校時間が迫ると、遅刻して先生にたたかれるのが嫌だからぐずるわけです。

でも、ぐずると、母から鞭うちの刑にされ、

結果、どのみち遅刻して、

先生にもたたかれるというわけです。

 

それが毎朝毎朝続くので、

嫌だし苦しいけど、これが自分の運命なんだと思って諦めていました。

 

小学3年生ともなると、

クラスメートもいろいろと分かってきて、

宗教のことをいじられたりします。


やんちゃな男子からは、よくからかわれました。

しょっちゅう暴力も受けていたので、

父がよくその男子の家に電話して親御さんに注意してくれていたのを覚えています。

 

私は、宗教的な理由で学校行事にはほとんど参加できなかったので、

かなり目立った存在でしたし、

小中学生の9年間は、ほとんどいじめの対象になっていました。

 

これが当たり前の人生で、

これがダサい私の生きる道なのだと思うしかありませんでした。

そして、小学生~大人になってからもずっと、ずっと、

死にたくて仕方なく、

いつもどうやって死のうかばかり考えていました。

 

洗脳で、

エホバがいるからまだ守られているけれど、

宗教から離れたら、この世ではとても生きていけない、離れるわけにはいかないんだ、

と思っていました。


家庭も学校も居心地が悪い、

その中で、JWの中だけではちやほやされて、

「お父さんから迫害を受けながら集会に来て偉いね」

って褒められて、

そりゃ集会でじっとしているのは苦痛だけど、

終わった後の交わりは心地よかったです。


聖書にはまったく興味がなく、集会は嫌々ながらでしたが、

学校のクラスメイトの陰湿なところばかり見ていたので、

兄弟姉妹たちの人柄に魅力と安心感を感じていたのは間違いないです。


私の居場所はここしかないと思いました。


正直、離れてずいぶん経つ今でも、

あの時のような心地よい居場所はこの世で見出したことはありません。


もう戻ることはないですが…

 

ということで、

思い出すのにだいぶ時間がかかってしまい、長い文章になってしまいましたが、

人生が狂った最初のきっかけはこんな感じだったかなと思います。


はじめまして

2023-06-06 22:31:24 | JWとの関わり

はじめまして、南由斗(みなみゆと)と申します。

この名前は、高校生の頃からもう一人の私として大切にしてきた名前です。

 

5~6歳頃より27~28歳頃まで深く関わった宗教のおかげで、

人生を狂わされた者の一人です。

家庭内もめちゃくちゃになりました。

あの頃は、家庭内が壊れていることにも気付いていませんでしたが。

 

JW=エホバの証人です。

 

エホバのエの字も使いたくもないので、

JWもしくは宗教と表記することが多いと思います。

 

40代中年のおばさんになってもなお、

これからどうやってこの世の中で生きて行ったらよいのか、

どうしてみんなのようにうまく渡り歩けないのか、

悩んでいます。

 

今までは、過去の記憶にフタをしていました。

それに、洗脳もまだ解け切れていません。

 

頭のどこかで、そんなに悪いものではなかったと、

みんな良心的で善良な人たちだったし、

エホバがいるかどうかは別にして、

愛のある組織だったと、

 

まだ思いたい自分もいて…

 

ですが、

最近の統一教会やJWに関する報道がきっかけで、

特に虐待については記憶がよみがえり、

報道が流れるたびに苦しい感情があふれてきます。

 

最初は、報道にただならぬショックを受けたのですが、

被害を受けた元JWの方たちの勇気ある行動を見て、

私がまだ洗脳状態にあると気づいてしまいました…

 

ずっと過去から逃げていたら、

この先何も変わらないなと思いました。

 

それで、

辛くても、過去の記憶を少しずつ解放していくことで、

今の生きづらさの原因や解決策に気付けるのかもしれないと思い、

過去の記憶と向き合ってみることにしました。

 

もう聖句(聖書の言葉)とか賛美の歌とか全然記憶にないし、

記憶もあいまいなので、

違っていることもあるかもしれませんので、

適当にスルーして頂くか、

指摘して頂ければと思います。