おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

不具合により

2024-11-02 18:33:31 | 日記

ブログのログインの不具合により、なかなかこちらに連載することが、暫く難しくなりました😓

 

病気療養の観点から、パソコンを廃してからこのブログをはじめ、スマホ1台で皆さまのブログを拝読し、私もスマホ1台で描いていました。

 

やはり、デジタルが苦手なので、友人にみてもらうも、なかなかログインの方法が解らず、皆さまの投稿を拝読できず、哀しく思いますが、ヘルプセンターからの解答を待ちたいと思います。

 

 


小林秀雄の「批評」=「文学批判」を乗り越えて、文学の再建を試みた生涯-三島由紀夫という作家について④-

2024-11-01 05:51:46 | 日記
三島由紀夫が主張するのは、あくまでも対抗思想であり、いわゆるテーゼではないように思う。

つまり、三島由紀夫の思想は、テーゼに対するアンチテーゼとしての思想であるため、あくまでもテーゼを前提とした上での思想であり、それ自体が独立した思想体系たり得ているわけではないようにも、思う。


三島由紀夫の思想とは、反対のための反対の思想なのかもしれない。

だからこそ、三島由紀夫を、たとえば「反戦後」という思想や、あるいは晩年の「右翼思想」、「反革命思想」によって語ることは出来ないのではないだろうか。

むろん「反戦後」という思想や、あるいは「反革命思想」は、それ自体として十分に検討に値するであろうが、それらの思想によって三島由紀夫の問題を捉えることはできないだろう。

そして、問題は三島由紀夫の思想の内容ではなく、なぜ、三島由紀夫は単なる「反対のための反対」の思想ではなく、自立した思想を語ろうとはしなかったのか、という問題である。

前回、『仮面の告白』の書き出しについて触れたが、三島由紀夫の小説の主人公たちもまた、決して自分の「意見」とか「思想」というものを持っていないようであり、一見して「意見」や「思想」のように見えるものも、実は、相手との関係性のなかに発生した役割としての「意見」であり「思想」でしかないようである。

『仮面の告白』の書き出しのなかでは、「自分が生まれたときの光景を見たことがある」という主人公の意見に対する大人たちの過剰反応こそが、主人公の告白=意見の目的である。

「自分が生まれたときの光景を見たことがある」という主人公の突飛な意見の目的は、大人たちの過剰反応によって、十分に達成されたわけである。

自分が話題の中心人物になること、つまり関係のネットワークのなかに存在の場所を獲得すること、それがこの告白=意見の第一の目的といってもよいだろう。

だから、この主人公の告白が正しいか、正しくないかを論議しても無意味であろうし、敢えて言うならば、正しくないことはこの主人公には、はじめからわかりきっているのであろう。

『仮面の告白』の主人公と大人たちの差異は、三島由紀夫と他の同時代の文学者との差異であるように、私には、見える。

三島由紀夫の作品のなかの人物たちは、ことばの「意味」を信用しておらず、思想や意見を、その「意味」において捉えてはいないようである。

私には、『仮面の告白』の主人公は、ことばや思想を、 その「意味」においてではなくて「役割」においてとらえているように思われる。

したがって、『仮面の告白』の主人公と大人たちの差異は、ことばや思想の捉え方の差異だと言え、この差異が「意味」を生産しているのではないだろうか。

つまり、この差異が、主人公と大人たちを結びつける役割を果たしているのではないだろうか。

三島由紀夫が最も恐れていたものは、差異の消滅であり、いいかえれば同一化ということであろう。

だからこそ、三島由紀夫は決して他人の言説を肯定せず、必ずそれに対立しているようである。

というより、「対立」関係を作り出すために、反対意見で理論武装するため、三島由紀夫の意見や思想を、三島由紀夫の本来的な意見や思想とは見なせないように思う。

三島由紀夫という人は「思想」や「意見」を持たない人だからこそ、いつでも、その時代の思潮に反対するような、逆説的な、反時代的な「思想」や「意見」をものの見事に操ることが出来たのかもしれない。

私たちが、三島由紀夫的と思いがちである「芸術至上主義」や「美学」や「美意識」ということばも、三島由紀夫の本来的な思想や意見を表したものではなくて、その時代状況の関数としてしか意味を持たないことばであろう。

三島由紀夫は自決の1週間前に、古林尚「図書新聞」連載の『戦後派作家対談』のインタビューのなかで、

「私は十代の思想に立ちもどっしまった。
『敗戦より妹の死のほうが、ショックだった』と書いたのは、ウソで、敗戦は非常にショックだったのです。
どうしていいかわからなかった。
政治のことはわからないので、芸術至上主義に逃げ、そこから古典主義に移行し、行きづまると十代の思想にかえったのです」
と言ったようである。

三島由紀夫にとって「思想」や「意見」とは何だったのだろうか。

三島由紀夫は同じ古林との対談のなかで、

「まず天皇があって、それに忠誠を誓ってゆくのではなく、自分に忠誠心が初めに在って、そのローヤリティーの対象としての天皇が必要なんだ」
と言っている。

この三島由紀夫が主体であり、天皇が客体であるという思惟構造を見ていると、天皇や芸術至上主義というような、いわゆる「思想」は、三島由紀夫にとって、正しいか正しくないかといった内容の問題として考えられているのではなくて、ただ単に「役割」の問題として考えられているように思われるのである。

そこには、正しい思想や間違った思想があるのではなく、ただ思想を必要とする人間がいるというだけではないだろうか。

三島由紀夫の恐ろしさは、そのことを知り抜いていたことにあるのかもしれない。

三島由紀夫には、『反革命宣言』というエッセイがあるが、このエッセイのタイトルが象徴するように、三島由紀夫の「思想」なるものは、すべて「反」なのであろう。

そして、それは、思想的なものに対する挑戦としての「反」なのであろう。

三島由紀夫の生涯は「批評」との戦いの生涯だったのかもしれない。

もし、「批評」が「文学批判」に他ならないとするならば、三島由紀夫の文学的営為は、その評論を克服することが中心であったのではないだろうか。

小林秀雄以降の作家たちは小林秀雄の批評を避けて通ることはできないのだが、多くの作家たちは小林秀雄の批評とは無縁な場所で、文学という形而上学に耽っていたようでもある。

三島由紀夫が、そのような「批評の恐ろしさ」を知らない作家たちと対立することは、やはり避けられなかったのかもしれない。

しかし、三島由紀夫は、小林秀雄以降の批評家たちとも対立するのである。

なぜなら、小林秀雄以降の批評家の多くは、小林秀雄の批評を模倣、反復しているに過ぎないが、三島由紀夫は、小林秀雄の「批評」=「文学批判」を乗り越えて文学の再建を試みる側の人だからである。

三島由紀夫は、かつて近代文学が依拠したであろう近代的な知のパラダイムに依拠するわけにはいかず、しかも、単に小林秀雄的文学批判を模倣、反復するのではないとすれば、近代的な知のパラダイムを批判し、否定するだけで満足するわけにはいかなかったのだろう。

つまり、
「告白は不可能だ」という自覚の下でもう一度告白を『仮面の告白』として行うことが、三島由紀夫の直面したパラドックスだったのではないだろうか。

「告白は不可能だ」という三島由紀夫のことばは、小林秀雄の文学批判=批評を念頭に置いていたものであろうし、三島由紀夫の「告白」から『仮面の告白』への移動は、三島由紀夫の「文学批判」としての小林秀雄的批評の地平から、それを内在的に反批判し、再び文学の形而上学の構築へと向かおうとする構えを示しているのであろう。

しかし、結局のところ、三島由紀夫もまた、小林秀雄的批評を乗り越えることはできなかったのかもしれない。

三島由紀夫の自決に際して公表された「檄」の一文は、それを暗示しているようである。

三島由紀夫は、「檄」のなかで、「告白の不可能性」という戒律を投げ捨てて、思い切り「告白」しているのではないだろか。

どこか幸福そうな三島由紀夫の姿がそこには在るようにも思える。

「われわれは四年待った。
最後の一年は熱烈に待った。
もう待てぬ。
自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待とう、共に起こって義のために共に死ぬのだ」

三島由紀夫は、この「檄」ではじめて、その心情を「告白」し、「告白」という近代文学の装置に屈服したといってよいかもしれない。

この「檄」が、三島由紀夫にしてはめずらしい哀切な響きを伴うのは、この「檄」には『仮面の告白』ではない「告白」があるからではないだろうか。

わずか数行のなかに、「待った」という動詞を何度も反復する「檄」は、三島由紀夫の生涯を要約しているようにも、思われる。

三島由紀夫は、「待つ」人であったのだろう。

そして、それは、三島由紀夫が「主体性」の人ではなく、「関係」の人であったことを意味するだろう。

三島由紀夫は、自立的存在ではなく、あくまでも他者との関係のなかでしか存在し得ない人であったのだろう。

しかし、三島由紀夫ほど強烈な「意志の人」はいないだろう。

つまり、三島由紀夫ほど主体的で在り続けた人はいないだろう。

そして、主体的、意志的で在り続けることが、いかに不毛であり、空虚であるかを、三島由紀夫は、思い知らされていたのだろう。

「われわれは四年待った。
最後の一年は熱烈に待った。
もう待てぬ」

という三島由紀夫のことばを文学的コンテクストに置き換えれば、それは三島由紀夫が「告白」のできる状況の到来を待っていたということであり、さらに厳密に言えば、「告白」 するに足る内容としての挫折の機会の到来を待っていたということではないだろうか。

言い換えれば、それは作者三島由紀夫が作中人物たらんとすることであり、三島由紀夫は、作中人物となることの不可能を自覚したとき、作品の内部においてではなくて、実生活のレベルでそれを果たそうとしたのではないだろうか。

三島由紀夫の問題は「美学」の問題でも「倫理」の問題でもなく、「論理学」の問題であったのだろう。

論理の世界では、Aという命題を認めたならば、そのAという命題から導かれるBという命題やCという命題があり得るとすれば、そのBやCの命題をも必然的に認めざるを得ない。

三島由紀夫の小説の作中人物たちは、感情や生活によって生きるのではなくて、論理によっていきており、そして、論理によって破滅するようなのである。

三島由紀夫の死は、論理や思想を徹底的に突き詰めたとき、何がその先に待っているかを象徴しているようにも、思われる。

だからこそ、私たちは、三島由紀夫を批判したり、絶讃したりするまえに、三島由紀夫の強靱な論理思考のプロセスを追跡することからはじめなければならないのだろう。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

明日から、また、不定期更新の予定ですので、また、よろしくお願いいたします😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

小林秀雄以降の「告白」を三島由紀夫の『仮面の告白』から考える-三島由紀夫という作家について③-

2024-10-31 07:05:07 | 日記
三島由紀夫の小説の主人公たちは、自分の「意見」とか「思想」というものを持っていないようである。

一見して、「意見」や「思想」のように見えるものも、実は、相手との関係性の中に発生した役割としての「意見」であり「思想」でしかないようなのだ。

たとえば、三島由紀夫は、『仮面の告白』を

「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていたそれを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。
それがたまたま馴染みの浅い客の前で言い出されたりすると、白痴と思われかねないことを心配した祖母は険のある声でさえぎって、むこうへ行って遊んでおいでと言った」
と書き出している。

この書き出しの一節には、三島由紀夫の特質がよく出ているように、私には、思われる。

『仮面の告白』の主人公自身も、その事実関係に拘泥しているわけではなく、むしろ、この主人公は、個のような突飛な意見が、まわりの他人に対してどういう反応を惹起するのか、という役割の問題に拘っているのではないだろうか。

三島由紀夫はさらに続けて、
「笑う大人はたいてい何か科学的な説明で説き伏せようとしだすのが常だった。
そのとき赤ん坊はまだ目が明いていないのだとか、たとえ万一明いていたにしても記憶に残るようなはっきりとした観念が得られた筈はないのだとか、子供の心に呑み込めるように砕いて説明してやろうと息込むときの多少芝居がかった熱心さで喋り出すのが定石だった。
ねえそうだろう、とまだ疑り深そうにしている私のちいさな肩をゆすぶっているうちに、彼らは私の企みに危うく掛かるところだったと気がつくらしかった」
と書いている。

この大人たちの過剰反応こそが、この主人公の告白=意見の目的であろう。

この主人公の突飛な意見の目的は、これら大人たちの過剰反応によって、十分に達成されたわけである。

自分が話題の中心人物になること、つまり関係のネットワークの中に存在の場所を獲得すること、それがこの告白=意見の第一の目的だといってよいかもしれない。

したがって、この主人公が正しいか正しくないかを議論することは無意味であり、敢えて言うならば、正しくないことは、この主人公にははじめからわかりきっているのであり、科学的な説明や子供にも呑み込めるような砕いた説明も不要なのであろう。

三島由紀夫は、「告白」を嫌い、自己を語ることを極度に嫌悪していたが、それにもかかわらず、三島由紀夫は、誰にもまして、自己を語ることの好きな作家であったようである。

この矛盾は、単に批判・否定すれば済むような問題ではないだろう。

三島由紀夫が、『告白』ではなく『仮面の告白』というタイトルをつけたのは、そのことによって、告白という形式に依拠する近代文学を批判・否定したかっのではないだろうか。

この告白批判は、小林秀雄の「批評」という名の文学批判とその問題意識を共有するものであろう。

小林秀雄は「告白」について『批評家失格』のなかで、

「どんな切実な告白でも、聴手は何か滑稽を感ずるものである。
滑稽を感じさせない告白とは人を食った告白に限る。
人を食った告白なんぞ実生活では、何の役にも立たぬとしても、芸術上では人を食った告白でなければ何の役にも立たない」
と書いている。

「どんな切実な告白でも......」という点で、小林秀雄は「告白」という形式それ自体が、必然的に滑稽たらざるを得ないと言っているのである。

小林秀雄以前の批評家たちは、告白が正確であるかどうかを問題にしただけであり、告白という形式それ自体を問題にしたわけではなく、正直にそして正確に告白しているかどうかという点に、文学的価値の基準を置いていたようである。

無論、田山花袋の『蒲団』に始まる「私小説」という近代文学の基本構造を否定したり、批判すればそれでいいということではなく、問題は小林秀雄にいたってはじめて「告白」という形式それ自体の行きづまりが自覚されたという点にあるだろう。

文学批判としての小林秀雄の「批評」の意味は、「告白」不可能性の自覚以外の何ものでもないのだろう。

三島由紀夫は、『仮面の告白』の月報ノートに
「肉にまで喰い入った仮面、肉づきの仮面だけが、告白をすることができる。
『告白の本質は不可能だ』ということだ」
と書いている。

三島由紀夫は「仮面」をかぶることによって素顔を隠したのだろうか?

三島由紀夫の「仮面」の下にははたして素顔が隠されていたのであろうか?

おそらく、そうではなく、はじめから「素顔」などというものはどこにも存在していないように、私には、思われる。

私たちが、「素顔」と思い込んでいるものは、近代的な認識論的布置が、作り上げた幻想にすぎず、三島由紀夫が「告白の本質は不可能だ」というのは、「素顔」などどこにもない、と言っているのではないだろうか。

例えば、福田恆存は「『仮面の告白』について」のなかで、

「『仮面の告白』において三島由紀夫は自己の芸術家のいるべき揺るぎなき岩盤を発見している。
あるいは、そこから出発してこの作品を書いている。
この作品に『仮面の告白』と題したゆえんは、つまり作者が仮面のうしろに自己の素顔を自覚していたことの何よりの証拠ではないか」
と書いているが、私は、そうは思わない。

福田恆存は、「仮面」と「素顔」の二項対立が、それ自体近代的な知の産物でしかないとは思っていないのであろう。

「仮面」のうしろに「素面」があるはずだというのは、幻想であり、一般に「素面」と思われているものも「仮面」でしかなく、このことを指して三島由紀夫は、
「告白の本質は不可能だ」
と言っているのではないか、と、私には、思われるのである。

『仮面の告白』は三島文学を理解する上で重要な作品であり、それと同時に日本の近代文学の認識風景のなかに置くから、反面教師的な意味で問題作たり得るのかもしれない。

いわば『仮面の告白』は近代文学批判の書ではないだろうか。

三島由紀夫は、内面の秘密などを語るために『仮面の告白』を書いたのではなくて、むしろこの作品で語られている内面の秘密こそが、『仮面の告白』という作品を成立させるために仮構された作り話なのではないだろうか。

たとえ、その作り話が、三島由紀夫の伝記的事実とどれだけ一致していようとも、作り話であることに変わりはないのではないだろう。

三島由紀夫は、『私の文学を語る』のなかで秋山駿のインタビューに答えて

「自分に対するこだわりだけを『誠』と思っているでしょう。
一度ぐらいこだわってみせないと、だれも信用しないですね。
僕の場合は『仮面の告白』でちょっとこだわってみせたら、たちまち信用を博したのです。
後はどんな絵空ごとを書いても大丈夫だ。
ところが、それを一生繰り返している人がいるからじつに神経がタフだと思って感心している」
と語っている。

三島由紀夫は、『仮面の告白』のなかで、「告白」という形式への批判と、作中人物と作者自身とを同一化する物たちへの批判を企図したのであろう。

三島由紀夫が、「自分」に関心を持ちすぎる文学に生理的嫌悪を感ずるのは、「告白」という行為につきまとう自己欺瞞が耐え難いからであろう。

さらにいえば、自分にこだわっているふりをすることへの嫌悪があるからであろう。

「告白」という行為において、私たちは、自分自身に直面することなどないのかもしれない。

三島由紀夫にはオリジナルな「思想」がない、と、思うときが、私には、ある。

危険な思想家が危険なのではなく、思想を持たない思想家が危険なのだとも、思うが、もし、三島由紀夫が、危険な思想家、危険な文学者であったとすれば、それは、三島由紀夫がファシズムやテロリズム、あるいは美や殉教の思想と関係していたからではなく、三島由紀夫がいかなる思想も相対化し、思想を単なる役割として捉える視点を獲得していたからではないか、と思う。

私たちは、三島由紀夫というとすぐに「美学」や「美意識」を持ち出すが、それは、三島由紀夫の思想ではありえても、三島由紀夫の存在本質を表すことばではないだろう。

「詩は認識である」という三島由紀夫のことばがあるが、三島由紀夫の問題は、「美」や「美意識」のレベルで語るべきではなく、「論理」や「認識」を通して語るべきではないだろうか。

論理的思考が衰弱したとき、私たちは「思想」を作り出すこともあるのではないか。

論理は単に実在を記述し、説明するための道具ではなく、実在との対応関係によってその真偽が確定されるものでもないだろう。

いわば、論理にとっては「意味」は問題ではなくて、論理と論理の形式的な普遍妥当性が問題になるのではないだろうか。

三島由紀夫の小説は、テーマが論理に在り、いわゆる生活の問題に無いため、無味乾燥な印象を与えることがあるかもしれないが、むしろ、私たちは、三島由紀夫の小説=作品から非実体的な論理操作のもたらす現実感の欠如を感じ取っているのかもしれない。

三島由紀夫の最初の長編小説である『盗賊』の登場人物たちはことばの「意味」を誰も信じておらず、言葉の「論理」だけで生きており、ことばの「意味」に拘る人はたちまちのうちに、その論理的な恋愛劇に敗れる他はないようである。

「意味」を信じないということは、内面を信じないということであり、また、自己意識を信じないということであろう。

三島由紀夫が主張するのは、あくまでも対抗としての思想であり、いわゆるテーゼではないように思う。

つまり、三島由紀夫の思想は、テーゼに対するアンチテーゼとしての思想であるため、あくまでもテーゼを前提とした上での思想であり、それ自体が独立した思想体系たり得ているわけではないようにも、思う。

三島由紀夫の思想とは、反対のための反対の思想なのだろうか。

そのようなことを、次回、考えたいゆきたいと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

またまた、また見出し画像が載らないので😓見出し画像にしたかったものをこちらに載せます😅→→→


三島由紀夫の太宰治への激しい批判と近代文学批判としての『仮面の告白』-三島由紀夫という作家について②-

2024-10-30 07:14:17 | 日記
三島由紀夫が、「自分」に関心を持ちすぎる文学に生理的嫌悪を感ずるのは、「告白」という行為につきまとう自己欺瞞が耐え難いからではないだろうか。

逆に言えば、それは、自分にこだわっているふりをすることへの嫌悪でもあろう。

「告白」という行為において、人は決して、自己自身に直面しないように、私には、思われる。

三島由紀夫の文学について考えるとき、やはり、三島由紀夫の太宰治への激しい批判を想い起こしてしまう。

三島由紀夫の太宰治批判は、その激しさゆえに、単に太宰治という作家に対する好き嫌いの次元の問題を越えて、何かもっと別の、太宰治によって代表される近代日本文学の存在基盤の問題を暗示しているようである。

三島由紀夫は太宰治について、『小説家の休暇』のなかで、

「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。
第一私はこの人の顔がきらいだ。
第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。
第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ。
女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしていなければならない」
と述べた上で、
「太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。
生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。
いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」
と述べている。

三島由紀夫の太宰治批判の根拠は、太宰治が「病人」であるからではないし、「病人」ではないからでもなく、ただ病人であることの文学的価値を前庭として、病人などにはであることを目指し、またそれを自慢しているように見えるからであろう。

つまり、病気の人が病気について語ることは別段批判する必要はないが、健康な人が病人のふりをすることの論理的自己矛盾か批判されるにすぎないのである。

太宰治が「治りたがらない病人」を演じ続けたのは、少なくとも、文学の世界においては「病人」が価値であったからであろう。

私たちは、太宰治を読むとき、しばしば病気そのものを見てしまいがちであるが、太宰治の病気は演技としての病気であり、本来の病気ではなかったのではないだろうか。

三島由紀夫の太宰治批判に匹敵する太宰治批判に、江藤淳の太宰治批判がある。

これらふたつの太宰治批判の差異は、一方が作家の手によるものであるのに対し、他方は批評家の手によるものであるという点だけであろう。

江藤淳は、太宰治に対して『太宰治』のなかで、

「しかし、同時に彼のなかには、甘ったるい悪い酒のようなものがあった。
あるいは『ふざけるないい加減にしろ』と言いたくなるものがあった。
『ホロビ』の歌をうたっていられるのはまだ贅沢のうちである。
『ホロビ』てしまっても人は黙って生きて行かなければならぬ。
『ホロビ』た瞬間に託される責任というものもあるからである。(中略)『暗ク』生きるのもまた贅沢のうちであり、どこかに他人が声をかけてくれないかという薄汚れた期待を隠している。
私が自分を見出した状態は、甘えるのも甘えられるのも下手な芝居のように思えて来るようなものだったので、私は結局『アカル』く生きることにした。
『アカルサ』を演じるというのではない。
深海魚のように自家発電をして生きるのである。
そのためには太宰は役に立たなかったから、私は彼の作品を読むのをやめて語学をやりはじめた」
と批判している。

太宰治を厳しく批判した三島由紀夫と江藤淳からは、近親増悪に近いものが読み取れるのだが、逆にいえば、ふたりとも、太宰治の魅力を十分に認めているのではなかろうか。

認めた上で批判するからこそ、このふたりの太宰治批判は、相当厳しいものになり、やや感情的、生理的な反発となってしまうのではないだろうか。

ただ、三島由紀夫や江藤淳は、「病人」や「弱者」を批判しているのではなく、「思想としての病人」、「思想としての弱者」を批判しているのだろう。

近代日本文学のイデオロギー体系のなかでは、「病人」や「弱者」が価値であったため、作家たちは好んで「病人」や「弱者」を描き、それを賛美した。

太宰治もまた、この近代日本的パラダイムの中では、きわめてすぐれた優等生であったということのようである。

しかし、ここに問題があるのではないだろうか。

太宰治は、「病人」や「弱者」を好んで描き、また同時に彼自身も「病人」や「弱者」を演じ、私たちは、しばしば、作品人物と太宰治を同一視してしまったのである。

三島由紀夫や江藤淳が、太宰治の魅力を認めながら、それを激しく嫌悪するのは、太宰治における自己欺瞞的な倒錯の論理を、許さないからであろう。

しかし、この倒錯は、太宰治にだけあるのではなく、むしろ近代文学の存在根拠であると言っても過言ではないだろう。

私には、ここにはふたつの問題があるように、思われる。

ひとつは、作中人物と作者自身の同一化という問題であり、もうひとつは「告白」という問題である。

前者について、三島由紀夫は、『小説家の休暇』のなかで、

「ドン・キホーテは作中人物にすぎぬ。
セルバンテスは、ドンキホーテではなかった。
どうして日本の或る種の小説家は、作中人物たらんとする奇妙な衝動にかられるのであろうか」
と言っているのだが、これは、太宰治批判に関連して書かれた一節である。

私たちは、三島由紀夫の自決を知ってしまっているため、この批判がそのまま三島由紀夫自身にも当てはまることに気付いてしまうのである。

つまり、この問題は、三島由紀夫が考えたほど単純に割り切れるものではないようである。

フローベールの
「ボヴァリー夫人は私だ」ということばや、ロラン・バルトの
「作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生み出された近代の登場人物である」
ということばを思い起こすまでもなく、作者と作中人物とを切り離すことは容易ではないだろう。

しかし、三島由紀夫が作中人物と作者自身との同一化を明確に否定していることは重要であり、この二元論の主張は、「私は嘘つきだ」というクレタ人のパラドックスを連想させるし、三島由紀夫は、対象言語とメタ言語の階層的区別を主張するラッセルやタルスキーを思わせる。

ふたつの相反する命題が導き出されるというパラドックスを避けるためにラッセルは言語の階層性という考え方を導入して、対象言語とメタ言語の混同を禁止したようである。

つまり「私は嘘つきだ」という場合の言明のなかの「私」と、この言明の発話者としての「私」を区別するのである。

前者は対象言語レベルでの「私」であり、後者はメタ言語レベルでの「私」である。

三島由紀夫がラッセルと同じように、作品のなかの「私」と作品の書き手としての「私」の混同を禁止したことは明らかであろう。

しかも、この問題は、「告白の不可能」という問題と重複していおり、言い換えれば、表現や言説において、その内容が問題になっているのだろう。

三島由紀夫が太宰治批判を通して提起している問題は、結局のところ「言語」の問題であるといってよいだろう。

無論、表現技法や文体の問題としての「言語」ではなく、いわば、世界認識の問題としての「言語」である。

ラッセルやタルスキーによる「メタ言語」によるパラドックスの解消は、ゲーデルの証明によって、不可能であることが、立証されたようである。

つまり、このことは、三島由紀夫のように、作品のなかの「私」と作品の書き手としての「私」との混同の禁止という原則、それ自体が不可能であるということを意味する。

言い換えれば、「告白は不可能」だということもまた不可能であるということである。

ここに、三島由紀夫の論理矛盾があり、彼自身の悲劇が暗示されているようにも、私には、思われる。

三島由紀夫は
「ドン・キホーテは作中人物にすぎぬ。
セルバンテスはドンキホーテではなかった」
と言っていたが、そう言って済まされる問題ではなかったのであろう。

三島由紀夫もまた、
「作中人物たらんとする奇妙な衝動」から自由になることはできなかったようである。

これが、太宰治の文学が、復活する所以であり、太宰治の文学はどこかでこの問題に触れているように見える。

私たちは、概ね言語を通してしか世界を語ることが出来ないようである。

もし、言語以前の世界というものが在ったとしても、私たちはそれについて語ることはできないだろう。

ヴィトゲンシュタインのいうように
「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」
とすれば、言語の問題を抜きにして、言語によって表現された内容について議論しているだけでは不十分であろう。

言語の問題とは、言語と意味の問題であり、言語と現実の問題ではないだろうか。

告白とは、言語表現のなかに「私」が登場することであるのだが、言語表現のなかに、「私」が登場することによって、言語表現それ自体が、論理的な自己矛盾を抱え込むことになったのだろう。

い換えれば、自己を語ること、つまり自己告白という表現形式は、つねにその語り手の意志を超えたところで、自己矛盾を起こしているのだろう。

したがって、近代小説=私小説とは、良かれ悪しかれ、この自己矛盾を内包したままに成長、発展してきたと言えるし、この矛盾を徹底的に追及することが、近代文学であり、私小説であったと言ってよいのではないだろうか。

それを批判することは容易かもしれないが、それを克服することは、決して容易ではないだろう。

三島由紀夫の代表作といわれている作品に『仮面の告白』があるが、三島はこの作品で、タイトルを『告白』ではなく、『仮面の告白』としている。

ここに、三島由紀夫という作家の位置と構えがよく表示されているように、私には、思われる。

三島由紀夫は、「告白」を嫌い、自己を語ることを極度に嫌悪していたようである。

しかし、それにもかかわらず、三島由紀夫自身もまた、誰にもまして、自己を語ることの好きな作家であったようである。

無論、ここには矛盾があるのだが、この矛盾は、単に批判・否定すれば済むような話ではないだろう。

無論、ここには矛盾があるのだが、この矛盾は、単に批判・否定すれば済むような問題ではないであろう。

三島由紀夫は、『告白』ではなく、『仮面の告白』というタイトルをつけることによって、告白という形式に依拠する近代文学を批判・否定したかったのではないだろうか。

この告白批判と小林秀雄の「批評」という名の文学批判とその問題意識の共有については、次回、考えてみたいと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

見出し画像は、欲しいけど今は他も欲しいしキツいなあ......😅と思う本を眺めているときの画面です😅
ほしいものリストのなかの本が増えている気がして、本も読めないほどの状態から、本当に良くなりつつあるなあ、と嬉しく思っております😊

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「小林秀雄以後において文学はいかにして可能であるか」という問題と三島由紀夫-三島由紀夫という作家について①-

2024-10-29 07:00:07 | 日記
小林秀雄の文学批判にもっとも敏感に反応した文学者のひとりである三島由紀夫がいるだろう。

もし、三島由紀夫の悲劇というものが語られるとするならば、それは、小林秀雄の文学批判以後において、再び文学を再建しようとして、ついに文学の再現に成功したかに見えた、まさにその瞬間に、文学とともに自滅せざるを得なかった作家の悲劇ということもできるかもしれない、と、私は思うことがある。

ところで、三島由紀夫は、その名声あるいはその研究や解釈の量の多さに比して、批評らしい批評が少なかったことは極めて驚くべきことではないだろうか。

少ない例外のひとつに、磯田光一の『殉教の美学』があるが、それも、言ってしまえば、あまりにも三島の発言に忠実でありすぎるために、批評としてというよりは、研究や解釈の次元にとどまっており、磯田光一にも三島由紀夫が認識していた以上のものは見えていないようにも思われてしまうのである。

批評は、文学研究や作品の解釈とは少し異なり、文学作品の解釈を重要な要素として内包しているが、それにとどまるものではないのではないだろうか。

研究や解釈は「文学」を前庭としており、決して文学そのものの「根拠」を問うことはしないが、批評とは、まさに文学の「前提」を問う作業によって、はじめて成立した文学的形式であろう。

1990年代には、文芸評論の行き詰まりや、文芸評論の衰退が言われていたが、その原因のひとつには、文芸評論家、つまり批評家が批評を文学研究や作品解釈の領域に閉じ込めてしまったことがあるようである。

小林秀雄においてそうであったように、批評は、文学の内部の問題ではなくて、文学の基礎の問題であり、文学の外部との関係のなかにしか発生しない問題ではないだろうか。

批評は、作者の発言を寄せ集め、それに論理整合性を与えて、ひとつの思想体系にまとめあげることではなく、批評もまた、もうひとつの創造行為であろう。

作家の創造行為を解釈したり、鑑賞したりすることだけが批評ではないだろう。

三島由紀夫論を研究や解釈の対象としてまつりあげてしまい、完全無欠な偶像と化さしめているところに問題があるように、私には、思われる。

私たちは、三島由紀夫という作家とその作品を自明の価値として前提してしまっており、たとえば、その政治活動や政治思想に疑問を持つとしても、その作家としての才能や、その作品の文学的価値は誰にも否定しようがない、と思いがちであるが、三島由紀夫という作家は、それほど安全な作家、自明な作家なのだろうか。

中村光夫は、三島由紀夫が、無名に近い時代に、その作品原稿を読んで、
「これはマイナス百五十点」
だ、と言ったそうであるが、中村光夫(→のちに三島肯定論に転向するにしても)の、プラス百点でも、零点でもなく、「マイナス百五十点」の意味するものは大きいように思われる。

「マイナス百五十点」という中村光夫の評価は、三島由紀夫の文学が、文学という尺度からはみ出し、極めて微妙な位置にあることを意味しているのではないだろうか。

あるひとつの立場から見れば、マイナスになるかもしれないが、もうひとつの別の立場から見ればプラスになるかもしれないような位置に三島由紀夫の文学はあり、私たちにきわめて厳しい態度決定をせまっているということができるだろう。

私たちは、自らの立場をさらけ出すことなしに、三島由紀夫を読むことは不可能であり、三島由紀夫を読むということは、危険な作業なのだろう。

このことに関連して本多秋五は『物語戦後文学史』のなかで、

「三島由紀夫はそれまでの日本文学にとって、ぜんぜん異質の文学者であった」と書き、また、
「もし『近代文学』が最初から三島由紀夫を理解したら、『近代文学』というものは、存在しなかったろう」
とも書いている。

つまり、本多秋五は、三島由紀夫の文学を認めることは、本多たちの「近代文学」派の否定を意味する、と言っているわけであるが、ここで問題なのは、三島由紀夫という作家の存在の特異性であり、私たちが三島由紀夫を読むということは、その存在の特異性、その作品の解釈を詠むことであろう。

三島由紀夫の問題は、小林秀雄の「批評」なしに考えられないと、私には、思われる。

小林秀雄の「批評」とは、文学批判であり、文学の否定でもあった。

三島由紀夫は、小林秀雄による文学の批判以後において、再び、文学を再建しようとした人であったようである。

ここに、三島由紀夫という作家の問題を解く糸口があるのではないだろうか。

小林秀雄の「批評」を考えるとき、批評ということばが、危機ということばと同一の語源を持っていることを、私は、想起する。

批評は、危機という紋題とどこか関連しているようである。

もし、批評が、単なる文学研究や、作品の解釈でしかなかったならば、そこには危機という問題は介在する余地はないだろう。

批評という問題が、日本の文学史の上で、問題として登場したのは、小林秀雄の出現によってであろう。

江藤淳は、『小林秀雄』のなかで、
「小林秀雄以前に批評家はいなかった」
と書いているが、私には、この指摘は正しいように思われる。

なぜなら、小林秀雄以前の批評家たちには、危機という問題が欠如しているように見えるからであり、文学というものに対する根本的な懐疑、言い換えれば、文学に対する危機意識というものを持ち合わせていないように見えるからである。

小林秀雄以前の批評家たちは、文学というものの成立根拠や、あるいは、その存在基盤の普遍性を決して疑わなかったようである。

批評家小林秀雄の誕生により、はじめて批評という問題が近代文学の言説空間に出現したということは、小林秀雄の批評が、文学批判に他ならなかったことを示してはいないだろうか。

つまり、近代文学の成立根拠としての近代的世界認識の地平に対する危機意識の自覚こそが、批評家小林秀雄を生み出したのではないだろうか。

さらに言い換えれば、小林秀雄の出現によって、日本の近代文学は、はじめてその存立の危機に直面することになったのではないだろうか。

いかなる意味においても、小林秀雄は、近代文学の理論的イデオローグではないし、また、近代文学の研究や解釈を行った人でもない。

ウォルター・ベンヤミンのことばでいうならば、小林秀雄は、コメンタール(解説)の人ではなく、あくまでもクリティーク(批評)のひとであったのだろう。

小林秀雄の「批評」が生まれた背景について、小林は『伝統と反逆』のなかで、

「僕らは現実をどういう角度からどういう形式でもって眺めたらいいかわからなかった。
そういう青年期を過ごして来た。
僕なんかが小説が書けなくなったその根本理由は、人生観の形式を喪ったということだったらしい。
例えば恋愛すると滅茶々々になっちゃったんだよ。
そんな滅茶々々な恋愛は小説にならねえから、あたしァ諦めたんだよ。
諦めてね、もっとやさしい道をすすんだのか何だかかわからないけど、もっと抽象的な批評的な道を進んだのだよ。
抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果たして劣るものかどうか。
そういう実験にとりかかったんだよ。
これは僕らの年代からですよ。
それまでには、ありァしません。
その前のリアリズムというものは、僕らの感じた暴風雨みたいなリアリズムじゃないよ。」
と言っている。

小林秀雄の批評は、言語表現上の危機意識に他ならず、近代的な認識論的布置の解体と転換の自覚以外ではないだろう。

小林秀雄が、
「小説が書けなくなった」
というのは、それまでの文学的な表現形式をそのまま模倣・反復することが出来なくなった、ということであろう。

小林秀雄の出現によって、多くの作家が沈黙を余儀なくされたと言われるが、それは小林秀雄の批評が、小説という表現の形式を壊し、文学という形而上学をその根底から覆すような危険な要素を持っていたからではないだろうか。

つまり、小林秀雄の批評は、文学という形而上学の前庭としての近代的世界了解の認識論的構図への批判であったのだろう。

たとえば、柄谷行人は、日本近代においては、ヨーロッパ文化圏において「哲学者」が担っている役割を「文芸評論家」が担ってきた、と、言っている。

少なくとも、小林秀雄以後の批評的伝統は、単に文学というひとつのジャンルに限定できるようなものではなく、小林秀雄以後の評論は、良かれ悪しかれ文学というジャンルを超え出ているようである。

小林秀雄の出現によって確立された批評的空間は、単に作品の解釈や研究としての批評とは違った、原理的な批評を可能にしたようである。

ところで、小林秀雄によって批評として自覚された問題は、文学や文学作品の問題でありながら、単にそれにとどまるものではなかったように見える。

それは、誤解を恐れずに言うならば、認識の問題であったようにも、思われる。

ただ、小林秀雄の場合、文学的問題の追求を通して、その結果として認識の問題に触れたというだけだかもしれないが、それは、実は、極めて大きな出来事ではないだろうか。

日本の近代史において小林秀雄が果たした役割は、たとえば、中世スコラ哲学を批判したデカルトや、あるいは経験論と合理論をともに批判したカントのそれに近いものであったように、私には、思われる。

デカルトもカントも、いわゆる伝統的な形而上学を批判、解体したひとである。

たとえば、カントの形而上学批判の仕事をふまえて、
「カント以後において形而上学はいかにして可能であるか」
という問題が、カント以後の哲学界のテーマとなったが、同じく、小林秀雄の場合にも、小林秀雄の文学批判の仕事をふまえて、
「小林秀雄以後において文学はいかにして可能であるか」
という問題が、小林秀雄以後の文学的な中心テーマとなったのではないだろうか。

たとえ、それが十分自覚されることがなかったとしても、私たちが、この問題から自由であったはずはないだろう。

冒頭で触れたが、小林秀雄の文学批判にもっとも鋭敏に反応した文学者のひとりである三島由紀夫について、次回から考えてゆこうと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

昨日は、日記を休んでしまいました😅

日曜日は、外出する際、母からもらった洋服を着ました😊

意外に世代の超える洋服で嬉しかったです😊(外出前に母の撮影)→→→

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。