おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

不具合により

2024-11-02 18:33:31 | 日記

ブログのログインの不具合により、なかなかこちらに連載することが、暫く難しくなりました😓

 

病気療養の観点から、パソコンを廃してからこのブログをはじめ、スマホ1台で皆さまのブログを拝読し、私もスマホ1台で描いていました。

 

やはり、デジタルが苦手なので、友人にみてもらうも、なかなかログインの方法が解らず、皆さまの投稿を拝読できず、哀しく思いますが、ヘルプセンターからの解答を待ちたいと思います。

 

 


小林秀雄の「批評」=「文学批判」を乗り越えて、文学の再建を試みた生涯-三島由紀夫という作家について④-

2024-11-01 05:51:46 | 日記
三島由紀夫が主張するのは、あくまでも対抗思想であり、いわゆるテーゼではないように思う。

つまり、三島由紀夫の思想は、テーゼに対するアンチテーゼとしての思想であるため、あくまでもテーゼを前提とした上での思想であり、それ自体が独立した思想体系たり得ているわけではないようにも、思う。


三島由紀夫の思想とは、反対のための反対の思想なのかもしれない。

だからこそ、三島由紀夫を、たとえば「反戦後」という思想や、あるいは晩年の「右翼思想」、「反革命思想」によって語ることは出来ないのではないだろうか。

むろん「反戦後」という思想や、あるいは「反革命思想」は、それ自体として十分に検討に値するであろうが、それらの思想によって三島由紀夫の問題を捉えることはできないだろう。

そして、問題は三島由紀夫の思想の内容ではなく、なぜ、三島由紀夫は単なる「反対のための反対」の思想ではなく、自立した思想を語ろうとはしなかったのか、という問題である。

前回、『仮面の告白』の書き出しについて触れたが、三島由紀夫の小説の主人公たちもまた、決して自分の「意見」とか「思想」というものを持っていないようであり、一見して「意見」や「思想」のように見えるものも、実は、相手との関係性のなかに発生した役割としての「意見」であり「思想」でしかないようである。

『仮面の告白』の書き出しのなかでは、「自分が生まれたときの光景を見たことがある」という主人公の意見に対する大人たちの過剰反応こそが、主人公の告白=意見の目的である。

「自分が生まれたときの光景を見たことがある」という主人公の突飛な意見の目的は、大人たちの過剰反応によって、十分に達成されたわけである。

自分が話題の中心人物になること、つまり関係のネットワークのなかに存在の場所を獲得すること、それがこの告白=意見の第一の目的といってもよいだろう。

だから、この主人公の告白が正しいか、正しくないかを論議しても無意味であろうし、敢えて言うならば、正しくないことはこの主人公には、はじめからわかりきっているのであろう。

『仮面の告白』の主人公と大人たちの差異は、三島由紀夫と他の同時代の文学者との差異であるように、私には、見える。

三島由紀夫の作品のなかの人物たちは、ことばの「意味」を信用しておらず、思想や意見を、その「意味」において捉えてはいないようである。

私には、『仮面の告白』の主人公は、ことばや思想を、 その「意味」においてではなくて「役割」においてとらえているように思われる。

したがって、『仮面の告白』の主人公と大人たちの差異は、ことばや思想の捉え方の差異だと言え、この差異が「意味」を生産しているのではないだろうか。

つまり、この差異が、主人公と大人たちを結びつける役割を果たしているのではないだろうか。

三島由紀夫が最も恐れていたものは、差異の消滅であり、いいかえれば同一化ということであろう。

だからこそ、三島由紀夫は決して他人の言説を肯定せず、必ずそれに対立しているようである。

というより、「対立」関係を作り出すために、反対意見で理論武装するため、三島由紀夫の意見や思想を、三島由紀夫の本来的な意見や思想とは見なせないように思う。

三島由紀夫という人は「思想」や「意見」を持たない人だからこそ、いつでも、その時代の思潮に反対するような、逆説的な、反時代的な「思想」や「意見」をものの見事に操ることが出来たのかもしれない。

私たちが、三島由紀夫的と思いがちである「芸術至上主義」や「美学」や「美意識」ということばも、三島由紀夫の本来的な思想や意見を表したものではなくて、その時代状況の関数としてしか意味を持たないことばであろう。

三島由紀夫は自決の1週間前に、古林尚「図書新聞」連載の『戦後派作家対談』のインタビューのなかで、

「私は十代の思想に立ちもどっしまった。
『敗戦より妹の死のほうが、ショックだった』と書いたのは、ウソで、敗戦は非常にショックだったのです。
どうしていいかわからなかった。
政治のことはわからないので、芸術至上主義に逃げ、そこから古典主義に移行し、行きづまると十代の思想にかえったのです」
と言ったようである。

三島由紀夫にとって「思想」や「意見」とは何だったのだろうか。

三島由紀夫は同じ古林との対談のなかで、

「まず天皇があって、それに忠誠を誓ってゆくのではなく、自分に忠誠心が初めに在って、そのローヤリティーの対象としての天皇が必要なんだ」
と言っている。

この三島由紀夫が主体であり、天皇が客体であるという思惟構造を見ていると、天皇や芸術至上主義というような、いわゆる「思想」は、三島由紀夫にとって、正しいか正しくないかといった内容の問題として考えられているのではなくて、ただ単に「役割」の問題として考えられているように思われるのである。

そこには、正しい思想や間違った思想があるのではなく、ただ思想を必要とする人間がいるというだけではないだろうか。

三島由紀夫の恐ろしさは、そのことを知り抜いていたことにあるのかもしれない。

三島由紀夫には、『反革命宣言』というエッセイがあるが、このエッセイのタイトルが象徴するように、三島由紀夫の「思想」なるものは、すべて「反」なのであろう。

そして、それは、思想的なものに対する挑戦としての「反」なのであろう。

三島由紀夫の生涯は「批評」との戦いの生涯だったのかもしれない。

もし、「批評」が「文学批判」に他ならないとするならば、三島由紀夫の文学的営為は、その評論を克服することが中心であったのではないだろうか。

小林秀雄以降の作家たちは小林秀雄の批評を避けて通ることはできないのだが、多くの作家たちは小林秀雄の批評とは無縁な場所で、文学という形而上学に耽っていたようでもある。

三島由紀夫が、そのような「批評の恐ろしさ」を知らない作家たちと対立することは、やはり避けられなかったのかもしれない。

しかし、三島由紀夫は、小林秀雄以降の批評家たちとも対立するのである。

なぜなら、小林秀雄以降の批評家の多くは、小林秀雄の批評を模倣、反復しているに過ぎないが、三島由紀夫は、小林秀雄の「批評」=「文学批判」を乗り越えて文学の再建を試みる側の人だからである。

三島由紀夫は、かつて近代文学が依拠したであろう近代的な知のパラダイムに依拠するわけにはいかず、しかも、単に小林秀雄的文学批判を模倣、反復するのではないとすれば、近代的な知のパラダイムを批判し、否定するだけで満足するわけにはいかなかったのだろう。

つまり、
「告白は不可能だ」という自覚の下でもう一度告白を『仮面の告白』として行うことが、三島由紀夫の直面したパラドックスだったのではないだろうか。

「告白は不可能だ」という三島由紀夫のことばは、小林秀雄の文学批判=批評を念頭に置いていたものであろうし、三島由紀夫の「告白」から『仮面の告白』への移動は、三島由紀夫の「文学批判」としての小林秀雄的批評の地平から、それを内在的に反批判し、再び文学の形而上学の構築へと向かおうとする構えを示しているのであろう。

しかし、結局のところ、三島由紀夫もまた、小林秀雄的批評を乗り越えることはできなかったのかもしれない。

三島由紀夫の自決に際して公表された「檄」の一文は、それを暗示しているようである。

三島由紀夫は、「檄」のなかで、「告白の不可能性」という戒律を投げ捨てて、思い切り「告白」しているのではないだろか。

どこか幸福そうな三島由紀夫の姿がそこには在るようにも思える。

「われわれは四年待った。
最後の一年は熱烈に待った。
もう待てぬ。
自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待とう、共に起こって義のために共に死ぬのだ」

三島由紀夫は、この「檄」ではじめて、その心情を「告白」し、「告白」という近代文学の装置に屈服したといってよいかもしれない。

この「檄」が、三島由紀夫にしてはめずらしい哀切な響きを伴うのは、この「檄」には『仮面の告白』ではない「告白」があるからではないだろうか。

わずか数行のなかに、「待った」という動詞を何度も反復する「檄」は、三島由紀夫の生涯を要約しているようにも、思われる。

三島由紀夫は、「待つ」人であったのだろう。

そして、それは、三島由紀夫が「主体性」の人ではなく、「関係」の人であったことを意味するだろう。

三島由紀夫は、自立的存在ではなく、あくまでも他者との関係のなかでしか存在し得ない人であったのだろう。

しかし、三島由紀夫ほど強烈な「意志の人」はいないだろう。

つまり、三島由紀夫ほど主体的で在り続けた人はいないだろう。

そして、主体的、意志的で在り続けることが、いかに不毛であり、空虚であるかを、三島由紀夫は、思い知らされていたのだろう。

「われわれは四年待った。
最後の一年は熱烈に待った。
もう待てぬ」

という三島由紀夫のことばを文学的コンテクストに置き換えれば、それは三島由紀夫が「告白」のできる状況の到来を待っていたということであり、さらに厳密に言えば、「告白」 するに足る内容としての挫折の機会の到来を待っていたということではないだろうか。

言い換えれば、それは作者三島由紀夫が作中人物たらんとすることであり、三島由紀夫は、作中人物となることの不可能を自覚したとき、作品の内部においてではなくて、実生活のレベルでそれを果たそうとしたのではないだろうか。

三島由紀夫の問題は「美学」の問題でも「倫理」の問題でもなく、「論理学」の問題であったのだろう。

論理の世界では、Aという命題を認めたならば、そのAという命題から導かれるBという命題やCという命題があり得るとすれば、そのBやCの命題をも必然的に認めざるを得ない。

三島由紀夫の小説の作中人物たちは、感情や生活によって生きるのではなくて、論理によっていきており、そして、論理によって破滅するようなのである。

三島由紀夫の死は、論理や思想を徹底的に突き詰めたとき、何がその先に待っているかを象徴しているようにも、思われる。

だからこそ、私たちは、三島由紀夫を批判したり、絶讃したりするまえに、三島由紀夫の強靱な論理思考のプロセスを追跡することからはじめなければならないのだろう。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

明日から、また、不定期更新の予定ですので、また、よろしくお願いいたします😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。