おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

小林秀雄以降の「告白」を三島由紀夫の『仮面の告白』から考える-三島由紀夫という作家について③-

2024-10-31 07:05:07 | 日記
三島由紀夫の小説の主人公たちは、自分の「意見」とか「思想」というものを持っていないようである。

一見して、「意見」や「思想」のように見えるものも、実は、相手との関係性の中に発生した役割としての「意見」であり「思想」でしかないようなのだ。

たとえば、三島由紀夫は、『仮面の告白』を

「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていたそれを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。
それがたまたま馴染みの浅い客の前で言い出されたりすると、白痴と思われかねないことを心配した祖母は険のある声でさえぎって、むこうへ行って遊んでおいでと言った」
と書き出している。

この書き出しの一節には、三島由紀夫の特質がよく出ているように、私には、思われる。

『仮面の告白』の主人公自身も、その事実関係に拘泥しているわけではなく、むしろ、この主人公は、個のような突飛な意見が、まわりの他人に対してどういう反応を惹起するのか、という役割の問題に拘っているのではないだろうか。

三島由紀夫はさらに続けて、
「笑う大人はたいてい何か科学的な説明で説き伏せようとしだすのが常だった。
そのとき赤ん坊はまだ目が明いていないのだとか、たとえ万一明いていたにしても記憶に残るようなはっきりとした観念が得られた筈はないのだとか、子供の心に呑み込めるように砕いて説明してやろうと息込むときの多少芝居がかった熱心さで喋り出すのが定石だった。
ねえそうだろう、とまだ疑り深そうにしている私のちいさな肩をゆすぶっているうちに、彼らは私の企みに危うく掛かるところだったと気がつくらしかった」
と書いている。

この大人たちの過剰反応こそが、この主人公の告白=意見の目的であろう。

この主人公の突飛な意見の目的は、これら大人たちの過剰反応によって、十分に達成されたわけである。

自分が話題の中心人物になること、つまり関係のネットワークの中に存在の場所を獲得すること、それがこの告白=意見の第一の目的だといってよいかもしれない。

したがって、この主人公が正しいか正しくないかを議論することは無意味であり、敢えて言うならば、正しくないことは、この主人公にははじめからわかりきっているのであり、科学的な説明や子供にも呑み込めるような砕いた説明も不要なのであろう。

三島由紀夫は、「告白」を嫌い、自己を語ることを極度に嫌悪していたが、それにもかかわらず、三島由紀夫は、誰にもまして、自己を語ることの好きな作家であったようである。

この矛盾は、単に批判・否定すれば済むような問題ではないだろう。

三島由紀夫が、『告白』ではなく『仮面の告白』というタイトルをつけたのは、そのことによって、告白という形式に依拠する近代文学を批判・否定したかっのではないだろうか。

この告白批判は、小林秀雄の「批評」という名の文学批判とその問題意識を共有するものであろう。

小林秀雄は「告白」について『批評家失格』のなかで、

「どんな切実な告白でも、聴手は何か滑稽を感ずるものである。
滑稽を感じさせない告白とは人を食った告白に限る。
人を食った告白なんぞ実生活では、何の役にも立たぬとしても、芸術上では人を食った告白でなければ何の役にも立たない」
と書いている。

「どんな切実な告白でも......」という点で、小林秀雄は「告白」という形式それ自体が、必然的に滑稽たらざるを得ないと言っているのである。

小林秀雄以前の批評家たちは、告白が正確であるかどうかを問題にしただけであり、告白という形式それ自体を問題にしたわけではなく、正直にそして正確に告白しているかどうかという点に、文学的価値の基準を置いていたようである。

無論、田山花袋の『蒲団』に始まる「私小説」という近代文学の基本構造を否定したり、批判すればそれでいいということではなく、問題は小林秀雄にいたってはじめて「告白」という形式それ自体の行きづまりが自覚されたという点にあるだろう。

文学批判としての小林秀雄の「批評」の意味は、「告白」不可能性の自覚以外の何ものでもないのだろう。

三島由紀夫は、『仮面の告白』の月報ノートに
「肉にまで喰い入った仮面、肉づきの仮面だけが、告白をすることができる。
『告白の本質は不可能だ』ということだ」
と書いている。

三島由紀夫は「仮面」をかぶることによって素顔を隠したのだろうか?

三島由紀夫の「仮面」の下にははたして素顔が隠されていたのであろうか?

おそらく、そうではなく、はじめから「素顔」などというものはどこにも存在していないように、私には、思われる。

私たちが、「素顔」と思い込んでいるものは、近代的な認識論的布置が、作り上げた幻想にすぎず、三島由紀夫が「告白の本質は不可能だ」というのは、「素顔」などどこにもない、と言っているのではないだろうか。

例えば、福田恆存は「『仮面の告白』について」のなかで、

「『仮面の告白』において三島由紀夫は自己の芸術家のいるべき揺るぎなき岩盤を発見している。
あるいは、そこから出発してこの作品を書いている。
この作品に『仮面の告白』と題したゆえんは、つまり作者が仮面のうしろに自己の素顔を自覚していたことの何よりの証拠ではないか」
と書いているが、私は、そうは思わない。

福田恆存は、「仮面」と「素顔」の二項対立が、それ自体近代的な知の産物でしかないとは思っていないのであろう。

「仮面」のうしろに「素面」があるはずだというのは、幻想であり、一般に「素面」と思われているものも「仮面」でしかなく、このことを指して三島由紀夫は、
「告白の本質は不可能だ」
と言っているのではないか、と、私には、思われるのである。

『仮面の告白』は三島文学を理解する上で重要な作品であり、それと同時に日本の近代文学の認識風景のなかに置くから、反面教師的な意味で問題作たり得るのかもしれない。

いわば『仮面の告白』は近代文学批判の書ではないだろうか。

三島由紀夫は、内面の秘密などを語るために『仮面の告白』を書いたのではなくて、むしろこの作品で語られている内面の秘密こそが、『仮面の告白』という作品を成立させるために仮構された作り話なのではないだろうか。

たとえ、その作り話が、三島由紀夫の伝記的事実とどれだけ一致していようとも、作り話であることに変わりはないのではないだろう。

三島由紀夫は、『私の文学を語る』のなかで秋山駿のインタビューに答えて

「自分に対するこだわりだけを『誠』と思っているでしょう。
一度ぐらいこだわってみせないと、だれも信用しないですね。
僕の場合は『仮面の告白』でちょっとこだわってみせたら、たちまち信用を博したのです。
後はどんな絵空ごとを書いても大丈夫だ。
ところが、それを一生繰り返している人がいるからじつに神経がタフだと思って感心している」
と語っている。

三島由紀夫は、『仮面の告白』のなかで、「告白」という形式への批判と、作中人物と作者自身とを同一化する物たちへの批判を企図したのであろう。

三島由紀夫が、「自分」に関心を持ちすぎる文学に生理的嫌悪を感ずるのは、「告白」という行為につきまとう自己欺瞞が耐え難いからであろう。

さらにいえば、自分にこだわっているふりをすることへの嫌悪があるからであろう。

「告白」という行為において、私たちは、自分自身に直面することなどないのかもしれない。

三島由紀夫にはオリジナルな「思想」がない、と、思うときが、私には、ある。

危険な思想家が危険なのではなく、思想を持たない思想家が危険なのだとも、思うが、もし、三島由紀夫が、危険な思想家、危険な文学者であったとすれば、それは、三島由紀夫がファシズムやテロリズム、あるいは美や殉教の思想と関係していたからではなく、三島由紀夫がいかなる思想も相対化し、思想を単なる役割として捉える視点を獲得していたからではないか、と思う。

私たちは、三島由紀夫というとすぐに「美学」や「美意識」を持ち出すが、それは、三島由紀夫の思想ではありえても、三島由紀夫の存在本質を表すことばではないだろう。

「詩は認識である」という三島由紀夫のことばがあるが、三島由紀夫の問題は、「美」や「美意識」のレベルで語るべきではなく、「論理」や「認識」を通して語るべきではないだろうか。

論理的思考が衰弱したとき、私たちは「思想」を作り出すこともあるのではないか。

論理は単に実在を記述し、説明するための道具ではなく、実在との対応関係によってその真偽が確定されるものでもないだろう。

いわば、論理にとっては「意味」は問題ではなくて、論理と論理の形式的な普遍妥当性が問題になるのではないだろうか。

三島由紀夫の小説は、テーマが論理に在り、いわゆる生活の問題に無いため、無味乾燥な印象を与えることがあるかもしれないが、むしろ、私たちは、三島由紀夫の小説=作品から非実体的な論理操作のもたらす現実感の欠如を感じ取っているのかもしれない。

三島由紀夫の最初の長編小説である『盗賊』の登場人物たちはことばの「意味」を誰も信じておらず、言葉の「論理」だけで生きており、ことばの「意味」に拘る人はたちまちのうちに、その論理的な恋愛劇に敗れる他はないようである。

「意味」を信じないということは、内面を信じないということであり、また、自己意識を信じないということであろう。

三島由紀夫が主張するのは、あくまでも対抗としての思想であり、いわゆるテーゼではないように思う。

つまり、三島由紀夫の思想は、テーゼに対するアンチテーゼとしての思想であるため、あくまでもテーゼを前提とした上での思想であり、それ自体が独立した思想体系たり得ているわけではないようにも、思う。

三島由紀夫の思想とは、反対のための反対の思想なのだろうか。

そのようなことを、次回、考えたいゆきたいと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

またまた、また見出し画像が載らないので😓見出し画像にしたかったものをこちらに載せます😅→→→


三島由紀夫の太宰治への激しい批判と近代文学批判としての『仮面の告白』-三島由紀夫という作家について②-

2024-10-30 07:14:17 | 日記
三島由紀夫が、「自分」に関心を持ちすぎる文学に生理的嫌悪を感ずるのは、「告白」という行為につきまとう自己欺瞞が耐え難いからではないだろうか。

逆に言えば、それは、自分にこだわっているふりをすることへの嫌悪でもあろう。

「告白」という行為において、人は決して、自己自身に直面しないように、私には、思われる。

三島由紀夫の文学について考えるとき、やはり、三島由紀夫の太宰治への激しい批判を想い起こしてしまう。

三島由紀夫の太宰治批判は、その激しさゆえに、単に太宰治という作家に対する好き嫌いの次元の問題を越えて、何かもっと別の、太宰治によって代表される近代日本文学の存在基盤の問題を暗示しているようである。

三島由紀夫は太宰治について、『小説家の休暇』のなかで、

「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。
第一私はこの人の顔がきらいだ。
第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。
第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ。
女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしていなければならない」
と述べた上で、
「太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。
生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。
いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」
と述べている。

三島由紀夫の太宰治批判の根拠は、太宰治が「病人」であるからではないし、「病人」ではないからでもなく、ただ病人であることの文学的価値を前庭として、病人などにはであることを目指し、またそれを自慢しているように見えるからであろう。

つまり、病気の人が病気について語ることは別段批判する必要はないが、健康な人が病人のふりをすることの論理的自己矛盾か批判されるにすぎないのである。

太宰治が「治りたがらない病人」を演じ続けたのは、少なくとも、文学の世界においては「病人」が価値であったからであろう。

私たちは、太宰治を読むとき、しばしば病気そのものを見てしまいがちであるが、太宰治の病気は演技としての病気であり、本来の病気ではなかったのではないだろうか。

三島由紀夫の太宰治批判に匹敵する太宰治批判に、江藤淳の太宰治批判がある。

これらふたつの太宰治批判の差異は、一方が作家の手によるものであるのに対し、他方は批評家の手によるものであるという点だけであろう。

江藤淳は、太宰治に対して『太宰治』のなかで、

「しかし、同時に彼のなかには、甘ったるい悪い酒のようなものがあった。
あるいは『ふざけるないい加減にしろ』と言いたくなるものがあった。
『ホロビ』の歌をうたっていられるのはまだ贅沢のうちである。
『ホロビ』てしまっても人は黙って生きて行かなければならぬ。
『ホロビ』た瞬間に託される責任というものもあるからである。(中略)『暗ク』生きるのもまた贅沢のうちであり、どこかに他人が声をかけてくれないかという薄汚れた期待を隠している。
私が自分を見出した状態は、甘えるのも甘えられるのも下手な芝居のように思えて来るようなものだったので、私は結局『アカル』く生きることにした。
『アカルサ』を演じるというのではない。
深海魚のように自家発電をして生きるのである。
そのためには太宰は役に立たなかったから、私は彼の作品を読むのをやめて語学をやりはじめた」
と批判している。

太宰治を厳しく批判した三島由紀夫と江藤淳からは、近親増悪に近いものが読み取れるのだが、逆にいえば、ふたりとも、太宰治の魅力を十分に認めているのではなかろうか。

認めた上で批判するからこそ、このふたりの太宰治批判は、相当厳しいものになり、やや感情的、生理的な反発となってしまうのではないだろうか。

ただ、三島由紀夫や江藤淳は、「病人」や「弱者」を批判しているのではなく、「思想としての病人」、「思想としての弱者」を批判しているのだろう。

近代日本文学のイデオロギー体系のなかでは、「病人」や「弱者」が価値であったため、作家たちは好んで「病人」や「弱者」を描き、それを賛美した。

太宰治もまた、この近代日本的パラダイムの中では、きわめてすぐれた優等生であったということのようである。

しかし、ここに問題があるのではないだろうか。

太宰治は、「病人」や「弱者」を好んで描き、また同時に彼自身も「病人」や「弱者」を演じ、私たちは、しばしば、作品人物と太宰治を同一視してしまったのである。

三島由紀夫や江藤淳が、太宰治の魅力を認めながら、それを激しく嫌悪するのは、太宰治における自己欺瞞的な倒錯の論理を、許さないからであろう。

しかし、この倒錯は、太宰治にだけあるのではなく、むしろ近代文学の存在根拠であると言っても過言ではないだろう。

私には、ここにはふたつの問題があるように、思われる。

ひとつは、作中人物と作者自身の同一化という問題であり、もうひとつは「告白」という問題である。

前者について、三島由紀夫は、『小説家の休暇』のなかで、

「ドン・キホーテは作中人物にすぎぬ。
セルバンテスは、ドンキホーテではなかった。
どうして日本の或る種の小説家は、作中人物たらんとする奇妙な衝動にかられるのであろうか」
と言っているのだが、これは、太宰治批判に関連して書かれた一節である。

私たちは、三島由紀夫の自決を知ってしまっているため、この批判がそのまま三島由紀夫自身にも当てはまることに気付いてしまうのである。

つまり、この問題は、三島由紀夫が考えたほど単純に割り切れるものではないようである。

フローベールの
「ボヴァリー夫人は私だ」ということばや、ロラン・バルトの
「作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生み出された近代の登場人物である」
ということばを思い起こすまでもなく、作者と作中人物とを切り離すことは容易ではないだろう。

しかし、三島由紀夫が作中人物と作者自身との同一化を明確に否定していることは重要であり、この二元論の主張は、「私は嘘つきだ」というクレタ人のパラドックスを連想させるし、三島由紀夫は、対象言語とメタ言語の階層的区別を主張するラッセルやタルスキーを思わせる。

ふたつの相反する命題が導き出されるというパラドックスを避けるためにラッセルは言語の階層性という考え方を導入して、対象言語とメタ言語の混同を禁止したようである。

つまり「私は嘘つきだ」という場合の言明のなかの「私」と、この言明の発話者としての「私」を区別するのである。

前者は対象言語レベルでの「私」であり、後者はメタ言語レベルでの「私」である。

三島由紀夫がラッセルと同じように、作品のなかの「私」と作品の書き手としての「私」の混同を禁止したことは明らかであろう。

しかも、この問題は、「告白の不可能」という問題と重複していおり、言い換えれば、表現や言説において、その内容が問題になっているのだろう。

三島由紀夫が太宰治批判を通して提起している問題は、結局のところ「言語」の問題であるといってよいだろう。

無論、表現技法や文体の問題としての「言語」ではなく、いわば、世界認識の問題としての「言語」である。

ラッセルやタルスキーによる「メタ言語」によるパラドックスの解消は、ゲーデルの証明によって、不可能であることが、立証されたようである。

つまり、このことは、三島由紀夫のように、作品のなかの「私」と作品の書き手としての「私」との混同の禁止という原則、それ自体が不可能であるということを意味する。

言い換えれば、「告白は不可能」だということもまた不可能であるということである。

ここに、三島由紀夫の論理矛盾があり、彼自身の悲劇が暗示されているようにも、私には、思われる。

三島由紀夫は
「ドン・キホーテは作中人物にすぎぬ。
セルバンテスはドンキホーテではなかった」
と言っていたが、そう言って済まされる問題ではなかったのであろう。

三島由紀夫もまた、
「作中人物たらんとする奇妙な衝動」から自由になることはできなかったようである。

これが、太宰治の文学が、復活する所以であり、太宰治の文学はどこかでこの問題に触れているように見える。

私たちは、概ね言語を通してしか世界を語ることが出来ないようである。

もし、言語以前の世界というものが在ったとしても、私たちはそれについて語ることはできないだろう。

ヴィトゲンシュタインのいうように
「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」
とすれば、言語の問題を抜きにして、言語によって表現された内容について議論しているだけでは不十分であろう。

言語の問題とは、言語と意味の問題であり、言語と現実の問題ではないだろうか。

告白とは、言語表現のなかに「私」が登場することであるのだが、言語表現のなかに、「私」が登場することによって、言語表現それ自体が、論理的な自己矛盾を抱え込むことになったのだろう。

い換えれば、自己を語ること、つまり自己告白という表現形式は、つねにその語り手の意志を超えたところで、自己矛盾を起こしているのだろう。

したがって、近代小説=私小説とは、良かれ悪しかれ、この自己矛盾を内包したままに成長、発展してきたと言えるし、この矛盾を徹底的に追及することが、近代文学であり、私小説であったと言ってよいのではないだろうか。

それを批判することは容易かもしれないが、それを克服することは、決して容易ではないだろう。

三島由紀夫の代表作といわれている作品に『仮面の告白』があるが、三島はこの作品で、タイトルを『告白』ではなく、『仮面の告白』としている。

ここに、三島由紀夫という作家の位置と構えがよく表示されているように、私には、思われる。

三島由紀夫は、「告白」を嫌い、自己を語ることを極度に嫌悪していたようである。

しかし、それにもかかわらず、三島由紀夫自身もまた、誰にもまして、自己を語ることの好きな作家であったようである。

無論、ここには矛盾があるのだが、この矛盾は、単に批判・否定すれば済むような話ではないだろう。

無論、ここには矛盾があるのだが、この矛盾は、単に批判・否定すれば済むような問題ではないであろう。

三島由紀夫は、『告白』ではなく、『仮面の告白』というタイトルをつけることによって、告白という形式に依拠する近代文学を批判・否定したかったのではないだろうか。

この告白批判と小林秀雄の「批評」という名の文学批判とその問題意識の共有については、次回、考えてみたいと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

見出し画像は、欲しいけど今は他も欲しいしキツいなあ......😅と思う本を眺めているときの画面です😅
ほしいものリストのなかの本が増えている気がして、本も読めないほどの状態から、本当に良くなりつつあるなあ、と嬉しく思っております😊

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「小林秀雄以後において文学はいかにして可能であるか」という問題と三島由紀夫-三島由紀夫という作家について①-

2024-10-29 07:00:07 | 日記
小林秀雄の文学批判にもっとも敏感に反応した文学者のひとりである三島由紀夫がいるだろう。

もし、三島由紀夫の悲劇というものが語られるとするならば、それは、小林秀雄の文学批判以後において、再び文学を再建しようとして、ついに文学の再現に成功したかに見えた、まさにその瞬間に、文学とともに自滅せざるを得なかった作家の悲劇ということもできるかもしれない、と、私は思うことがある。

ところで、三島由紀夫は、その名声あるいはその研究や解釈の量の多さに比して、批評らしい批評が少なかったことは極めて驚くべきことではないだろうか。

少ない例外のひとつに、磯田光一の『殉教の美学』があるが、それも、言ってしまえば、あまりにも三島の発言に忠実でありすぎるために、批評としてというよりは、研究や解釈の次元にとどまっており、磯田光一にも三島由紀夫が認識していた以上のものは見えていないようにも思われてしまうのである。

批評は、文学研究や作品の解釈とは少し異なり、文学作品の解釈を重要な要素として内包しているが、それにとどまるものではないのではないだろうか。

研究や解釈は「文学」を前庭としており、決して文学そのものの「根拠」を問うことはしないが、批評とは、まさに文学の「前提」を問う作業によって、はじめて成立した文学的形式であろう。

1990年代には、文芸評論の行き詰まりや、文芸評論の衰退が言われていたが、その原因のひとつには、文芸評論家、つまり批評家が批評を文学研究や作品解釈の領域に閉じ込めてしまったことがあるようである。

小林秀雄においてそうであったように、批評は、文学の内部の問題ではなくて、文学の基礎の問題であり、文学の外部との関係のなかにしか発生しない問題ではないだろうか。

批評は、作者の発言を寄せ集め、それに論理整合性を与えて、ひとつの思想体系にまとめあげることではなく、批評もまた、もうひとつの創造行為であろう。

作家の創造行為を解釈したり、鑑賞したりすることだけが批評ではないだろう。

三島由紀夫論を研究や解釈の対象としてまつりあげてしまい、完全無欠な偶像と化さしめているところに問題があるように、私には、思われる。

私たちは、三島由紀夫という作家とその作品を自明の価値として前提してしまっており、たとえば、その政治活動や政治思想に疑問を持つとしても、その作家としての才能や、その作品の文学的価値は誰にも否定しようがない、と思いがちであるが、三島由紀夫という作家は、それほど安全な作家、自明な作家なのだろうか。

中村光夫は、三島由紀夫が、無名に近い時代に、その作品原稿を読んで、
「これはマイナス百五十点」
だ、と言ったそうであるが、中村光夫(→のちに三島肯定論に転向するにしても)の、プラス百点でも、零点でもなく、「マイナス百五十点」の意味するものは大きいように思われる。

「マイナス百五十点」という中村光夫の評価は、三島由紀夫の文学が、文学という尺度からはみ出し、極めて微妙な位置にあることを意味しているのではないだろうか。

あるひとつの立場から見れば、マイナスになるかもしれないが、もうひとつの別の立場から見ればプラスになるかもしれないような位置に三島由紀夫の文学はあり、私たちにきわめて厳しい態度決定をせまっているということができるだろう。

私たちは、自らの立場をさらけ出すことなしに、三島由紀夫を読むことは不可能であり、三島由紀夫を読むということは、危険な作業なのだろう。

このことに関連して本多秋五は『物語戦後文学史』のなかで、

「三島由紀夫はそれまでの日本文学にとって、ぜんぜん異質の文学者であった」と書き、また、
「もし『近代文学』が最初から三島由紀夫を理解したら、『近代文学』というものは、存在しなかったろう」
とも書いている。

つまり、本多秋五は、三島由紀夫の文学を認めることは、本多たちの「近代文学」派の否定を意味する、と言っているわけであるが、ここで問題なのは、三島由紀夫という作家の存在の特異性であり、私たちが三島由紀夫を読むということは、その存在の特異性、その作品の解釈を詠むことであろう。

三島由紀夫の問題は、小林秀雄の「批評」なしに考えられないと、私には、思われる。

小林秀雄の「批評」とは、文学批判であり、文学の否定でもあった。

三島由紀夫は、小林秀雄による文学の批判以後において、再び、文学を再建しようとした人であったようである。

ここに、三島由紀夫という作家の問題を解く糸口があるのではないだろうか。

小林秀雄の「批評」を考えるとき、批評ということばが、危機ということばと同一の語源を持っていることを、私は、想起する。

批評は、危機という紋題とどこか関連しているようである。

もし、批評が、単なる文学研究や、作品の解釈でしかなかったならば、そこには危機という問題は介在する余地はないだろう。

批評という問題が、日本の文学史の上で、問題として登場したのは、小林秀雄の出現によってであろう。

江藤淳は、『小林秀雄』のなかで、
「小林秀雄以前に批評家はいなかった」
と書いているが、私には、この指摘は正しいように思われる。

なぜなら、小林秀雄以前の批評家たちには、危機という問題が欠如しているように見えるからであり、文学というものに対する根本的な懐疑、言い換えれば、文学に対する危機意識というものを持ち合わせていないように見えるからである。

小林秀雄以前の批評家たちは、文学というものの成立根拠や、あるいは、その存在基盤の普遍性を決して疑わなかったようである。

批評家小林秀雄の誕生により、はじめて批評という問題が近代文学の言説空間に出現したということは、小林秀雄の批評が、文学批判に他ならなかったことを示してはいないだろうか。

つまり、近代文学の成立根拠としての近代的世界認識の地平に対する危機意識の自覚こそが、批評家小林秀雄を生み出したのではないだろうか。

さらに言い換えれば、小林秀雄の出現によって、日本の近代文学は、はじめてその存立の危機に直面することになったのではないだろうか。

いかなる意味においても、小林秀雄は、近代文学の理論的イデオローグではないし、また、近代文学の研究や解釈を行った人でもない。

ウォルター・ベンヤミンのことばでいうならば、小林秀雄は、コメンタール(解説)の人ではなく、あくまでもクリティーク(批評)のひとであったのだろう。

小林秀雄の「批評」が生まれた背景について、小林は『伝統と反逆』のなかで、

「僕らは現実をどういう角度からどういう形式でもって眺めたらいいかわからなかった。
そういう青年期を過ごして来た。
僕なんかが小説が書けなくなったその根本理由は、人生観の形式を喪ったということだったらしい。
例えば恋愛すると滅茶々々になっちゃったんだよ。
そんな滅茶々々な恋愛は小説にならねえから、あたしァ諦めたんだよ。
諦めてね、もっとやさしい道をすすんだのか何だかかわからないけど、もっと抽象的な批評的な道を進んだのだよ。
抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果たして劣るものかどうか。
そういう実験にとりかかったんだよ。
これは僕らの年代からですよ。
それまでには、ありァしません。
その前のリアリズムというものは、僕らの感じた暴風雨みたいなリアリズムじゃないよ。」
と言っている。

小林秀雄の批評は、言語表現上の危機意識に他ならず、近代的な認識論的布置の解体と転換の自覚以外ではないだろう。

小林秀雄が、
「小説が書けなくなった」
というのは、それまでの文学的な表現形式をそのまま模倣・反復することが出来なくなった、ということであろう。

小林秀雄の出現によって、多くの作家が沈黙を余儀なくされたと言われるが、それは小林秀雄の批評が、小説という表現の形式を壊し、文学という形而上学をその根底から覆すような危険な要素を持っていたからではないだろうか。

つまり、小林秀雄の批評は、文学という形而上学の前庭としての近代的世界了解の認識論的構図への批判であったのだろう。

たとえば、柄谷行人は、日本近代においては、ヨーロッパ文化圏において「哲学者」が担っている役割を「文芸評論家」が担ってきた、と、言っている。

少なくとも、小林秀雄以後の批評的伝統は、単に文学というひとつのジャンルに限定できるようなものではなく、小林秀雄以後の評論は、良かれ悪しかれ文学というジャンルを超え出ているようである。

小林秀雄の出現によって確立された批評的空間は、単に作品の解釈や研究としての批評とは違った、原理的な批評を可能にしたようである。

ところで、小林秀雄によって批評として自覚された問題は、文学や文学作品の問題でありながら、単にそれにとどまるものではなかったように見える。

それは、誤解を恐れずに言うならば、認識の問題であったようにも、思われる。

ただ、小林秀雄の場合、文学的問題の追求を通して、その結果として認識の問題に触れたというだけだかもしれないが、それは、実は、極めて大きな出来事ではないだろうか。

日本の近代史において小林秀雄が果たした役割は、たとえば、中世スコラ哲学を批判したデカルトや、あるいは経験論と合理論をともに批判したカントのそれに近いものであったように、私には、思われる。

デカルトもカントも、いわゆる伝統的な形而上学を批判、解体したひとである。

たとえば、カントの形而上学批判の仕事をふまえて、
「カント以後において形而上学はいかにして可能であるか」
という問題が、カント以後の哲学界のテーマとなったが、同じく、小林秀雄の場合にも、小林秀雄の文学批判の仕事をふまえて、
「小林秀雄以後において文学はいかにして可能であるか」
という問題が、小林秀雄以後の文学的な中心テーマとなったのではないだろうか。

たとえ、それが十分自覚されることがなかったとしても、私たちが、この問題から自由であったはずはないだろう。

冒頭で触れたが、小林秀雄の文学批判にもっとも鋭敏に反応した文学者のひとりである三島由紀夫について、次回から考えてゆこうと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

昨日は、日記を休んでしまいました😅

日曜日は、外出する際、母からもらった洋服を着ました😊

意外に世代の超える洋服で嬉しかったです😊(外出前に母の撮影)→→→

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

小林秀雄の「アシルは額に汗して、亀の子の位置に関して、その微分係数を知るだけである」ということばから-小林秀雄とベルクソン哲学③-

2024-10-26 06:41:32 | 日記
ベルクソンは、ベルクソン哲学の誕生のきっかけのひとつになったであろう「アキレスと亀」の問題に、いたるところでふれているようである。

哲学者としてのベルクソンの処女作であり博士論文でもある『時間と自由』(原題『意識の直接与件論』)以来、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』、『思想と動くもの』といった一連のベルクソンの主著のいずれにおいても、この問題への言及が見られる。

「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄の眼に、このベルクソンの哲学的な原体験とも呼ぶべきゼノンのパラドックス、言い換えれば、「アキレスと亀」のパラドックスが見えなかったはずはなく、小林秀雄の文芸時評『アシルと亀の子』は、その題名が示すように、圧倒的なベルクソン哲学からの影響下に書かれていることは、小林秀雄は明言はしていないが、否定のしようがないだろう。

ベルクソンは、「アキレスと亀」の問題を、どのように捉え、どのように解決したのであろうか。

ベルクソンは、『思想と動くもの』のなかに収められた「変化の知覚」という講演のなかで、

「エレアのゼノンの議論は皆様もよくご記憶のところと思います。
彼の議論はすべて運動と通過された空間との混同を、もしくは少なくとも空間を取り扱うやり方で運動を取り扱うことができ、運動の分節を考慮せずに運動を分割することができるという確信を含んでおります。
ゼノンは次のようにいいます。
アキレスは亀を追いかけているが、決して追いつけないだろう。
なぜなら、亀がいた点にアキレスが到着したときには、亀は、その間に前進しているだろうから」
と話している。

ベルクソンは、ゼノンのパラドックスを、運動の問題として捉え、運動を運動のして捉えようとしないため、パラドックスに陥るのだと、考えているようである。

運動は分割不可能なものであるにもかかわらず、あえて運動を分割してしまうところに、矛盾の根拠を見出すのであろう。

分割された点の集合が運動になることはできない、と錯覚するのは、人が空間的な思考にあまりにも深く慣れすぎているせいかもしれない。

ベルクソンは、運動は「持続」であり、分割できないものだと考えており、そこに、ベルクソンの時間論が生まれるのだろう。

つまり、持続としての時間である。

ベルクソンは、時間もまた持続であり、分割できないものと考えており、その考えは、最初の著書『時間と自由』以来一貫してベルクソン哲学の核心となっている。

運動や変化を真の実在とし、不動や物を第二義的な実在とみなすベルクソンの存在論も、運動し変化するものとしての実在を把握するためには直感によるしかないとする認識論も、ともにこの運動の不可分性という問題から必然的に帰結する。

ベルクソンが、ゼノンのパラドックスのなかに、その哲学的開眼のきっかけのひとつを見出すのはこのようにしてであるのだろう。

ベルクソン哲学の核心は、運動や変化や持続を分割してはならない、という点にあるのだが、分割できないものを分割したときにうまれたものが形而上学であるといえよう。

形而上学は、運動するものの根底に不動物を設定し、それこそが真の実在であるとしたのだが、その真の実在なるものは、運動や変化が残した影であり、ベルクソンはそれを、運動や変化の「単なるスナップ写真である」
と言っている。

つまり、スナップ写真をいくらつなぎ合わせても、それは運動になることはないだろう。

ベルクソンは、『変化と知覚』のなかで、

「私はこれ以上しつこく申しません。
われわれ一人一人が体験してみればよいのです。
われわれ一人一人が変化や運動の直接的洞察を自ら行ってみればよいのです。
そうすればこれらの絶対的不可分性を感じ取るでしょう」
と言った上で、
「変化はある、然し変化の下に、変化するものはない。
変化は支えを必要としない。
運動はある、しかし、運動する惰性的不変化的対象はない。
運動は、運動体を含まない」
と言っている。

ベルクソンはこのような観点から、伝統的な形而上学を批判し、また実証科学を批判する。

形而上学は、経験論であれ、合理論であれ、いずれにしろ変化の下に、変化しないもの、つまり不動の実在を実体として前提とする。

言い換えれば、変化の下に不変の実在を前提とする実体論的な思考は、必然的に、ゼノンのパラドックスに直面せざるを得ないのである。

ベルクソンが批判したのは、ヨーロッパ的形而上学に根強く残存している、いわゆる実体論的思考であったと言ってよいのかもしれない。

プラトン以来のヨーロッパ的思考体系のなかには、「イデア」からカントの「物自体」や、ヘーゲルの「精神」に到るまで、ヨーロッパ的思考体系のなかには、常に、実体化された不動の「存在」が前提として与えられており、これはどうしても消し去ることの出来ない前提なのであろう。

ベルクソンは、そのような存在を否定する。

ベルクソンにとって、変化、運動こそが実在であり、精神や物質というような「物」は、変化や運動が残した影に過ぎないのだろう。

小林秀雄は、『アシルと亀の子』と題する文芸時評を、第6回目で『文学は絵空ごとか』という題に変えてしまっており、以後、1回ごとに題は変えられることになるのだが、小林秀雄は、『アシルと亀の子』という題名を変更したことについて、『文学は絵空ごとか』のなかで、

「毎月、『アシルと亀の子』なんて同じ題をつけているのは芸がないから取りかえろと言われて、なるほどと思い、偶々、正宗白鳥氏の文芸時評を読んでいたら、文学はついに絵空ごとに過ぎぬという嘆声に出会ったので、今月は、多くを語りたい作品もなかったし、ただわけもなくこんな表題をつけてしまった。
だが私にとっては依然として、アシルは理論であり、亀の子は現実である事に変わりはない。
アシルは額に汗して、亀の子の位置に関して、その微分係数を知るだけである」
と述べている。

『アシルと亀の子』という題名によって小林秀雄は、理論(アシル)が現実(亀の子)に追いつけないことを言いたかったのだろう。

無論、それは、理論そのものが誤った観念の上に成立した理論だからではなく、それは理論というもの常に内包する矛盾だろう。

実際的な経験の世界では、アシルが亀の子に追いつくことを、私たちは、知っているのだが、それを、理論的に説明しようとするとき、アシルは亀の子に追いつけなくなってしまうのである。

ベルクソンによれば、それは理論が、運動を運動として捉えるのではなく、運動を空間のなかで、空間化して捉えようとするからであり、分割不可能な運動を分割可能な空間の1点として捉えようとするからである。

しかし、私たちは、日常生活において、時間を空間のなかで数量化して考え、運動を空間的な点の集合として考えることに慣れきっている。

私たちが、常識として信じ込んでいる考え方は、一種の空虚な観念論に過ぎないということを、ゼノンのパラドックスは教えているようである。

時間を空間的な量として考え、運動を空間のなかで数量化して考えている限り、ゼノンのパラドックスを避けて通ることはできないだろう。

つまり、そのような常識に依拠している限り、「運動は存在しない」という奇怪な結論に辿り着かざるを得ないのであろう。

しかし、実際には、ゼノンのパラドックスを信じる人はおらず、アキレスが亀に追いつくことは自明であり、運動が存在することも自明なことである。

人はいつもこの理論と現実の矛盾をほとんど感じることはないが、それは、人が都合の良いときだけ理論を信用し、都合が悪くなると現実を信用するという、論理的な不徹底のなかで生活しているからか、まったく理論的な分析や説明と無縁に、直接的経験のなかで生きているからではないだろうか。

小林秀雄が、文芸時評の題として「アシルと亀の子」を選んだのは、ベルクソンの影響であると同時に、小林の主な関心が、理論(アシル)と現実(亀の子)の矛盾という点にあったからであろう。

小林秀雄は、新しい理論によって、新しい解釈を提出したのではなく、彼が提出した問題は、理論と現実が一致することは決してあり得ないという、理論的思考そのものの不可能性という問題であった。

小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、量子物理学の説明が終わったところで中断している。

小林秀雄も、もうそれ以上先へ進むことは出来なかったからであり、彼は『感想』の第53回目のなかで、

「それなら、ハイゼンベルクが衝突したのは、あの古いゼノンの、ベルクソンがそのソフィズムに、哲学の深い動機が存する事を、飽くことなく、執拗に主張したゼノンのパラドックスだったと言って差し支えない
と書いている。

小林秀雄は、ハイゼンベルクが量子物理学で直面した矛盾が、ゼノンのパラドックスに他ならないと言っており、これにより、小林秀雄が「物理学」にこだわった理由が理解できるように思われる。

小林秀雄にとって、「物理学の革命」もゼノンのパラドックスの中にあり、それに対するひとつの解答が量子物理学だということになるのではないだろうか。

小林秀雄が、「アシルと亀の子」という題名に込めた「アシルと亀の子」は主として、マルクス主義に対する批判がテーマであったが、そのマルクス主義批判は、極めて根底的な批判であったといってよいだろう。

そして、それは、理論的な思考そのものの批判であったということができるだろう。

ただ、小林秀雄は、その批評で、絶えず理論的な思考を批判したかのように見えてしまうが、実際は、中途半端な理論を批判しただけであり、理論に対して現実の優位性を説いたわけではないだろう。

小林秀雄が、マルクス主義や科学主義に対して、激しい批判の論陣を張ったのは、それが科学的思考であったからではなく、それが科学的思考に矛盾するから、あるいは、中途半端な科学でしかなかったから、批判したように、私には、思われるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

見出し画像



についてですが、私は、最近、大岡昇平にシンパシーのようなものと尊敬の念を感じ、また、励まされています😊
闘病とはまた異なるものの、過酷な状況下、生き死にや「人間」の問題に直面しながら生き延び、それを昇華した姿勢に学ぶことが多いです😌

ちなみに、大岡昇平の変化や戦争ではない変化のきっかけについては前に日記のなかで、描いております😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

小林秀雄がベルクソン哲学の助けを借りて後世に言い残そうとした作品である『感想』から-小林秀雄とベルクソン哲学②-

2024-10-25 07:08:04 | 日記
小林秀雄のベルクソン論である『感想』の第1回目は、ベルクソンの遺書の紹介で終わっており、そこで紹介されているベルクソンの遺書は、

「世人に読んで貰いたいと思った凡てのものは、今日までに既に出版したことを声明する。
将来、私の書類その他のうちに発見される、あらゆる原稿、断片、の公表をここにはっきりと禁止しておく。
私の凡ての講義、授業、講演にして、聴講者のノート、あるいは私自身のノートの存するかぎり、その公表を禁ずる。
私の書簡の公表も禁止する。
J・ラシュリエの場合には、彼の書簡の公表が禁止されていたにも係わらず、学士院図書館の閲覧者の間では、自由な閲覧が許されていた。
私の禁止がそういう風に解される事にも反対する」

というものであるが、小林秀雄はこの遺書を書き写したあとに、ベルクソンは、
「自分の沈黙について、とやかく言ったり、自分の死後、遺稿集の出るのを期待したりする愛読者や、自分の断簡零墨まで漁りたがる考証家に、君達は何もわかっていない、と言って置きたかったのである」
と付け加えているが、私には、このことばは、小林秀雄自身のことばのように思われる。

「自身の死後、遺稿集の出るのを期待したりする愛読者」や、・「自分の断簡零墨まで漁りたがる考証家」に「君達は何もわかっていない」と言いたかったのは小林秀雄自身ではないだろうか。

そして、小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、「君達は何もわかっていない」ということをベルクソン哲学の助けを借りて、私たちに言い残そうとした作品であったということができよう。

だからこそ、小林秀雄は、『感想』の冒頭から、反省的、分析的な認識によっては、直接的な経験の実相に迫ることは出来ない、と、何回も繰り返したのではないだろうか。

それは、小林秀雄の批評を、単に伝記的な事実や、あるいは外国文学からの影響という観点から分析しようとするような、後世の読者や研究者たちへの警告であったかもしれない。

小林秀雄は、批評という経験は、小林秀雄個人の単純な経験であって、それは他の何ものにも置き換えられないものであることを、言いたかったもしれない。

小林秀雄のベルクソン論である『感想』の第1回目が、ベルクソンの遺書の紹介で終わっていることを冒頭で述べたが、『感想』の第1回目は、母の死の記述から始まっている。

「終戦の翌々年、母が死んだ。
母の死は、非常に私の心にこたえた。
それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかったように思う」

勿論、これは小林秀雄固有のレトリックであり、小林秀雄が戦争という大事件によって精神を動かされ、傷つき、精神的に相当こたえたはずである。

戦争という大事件よりも、母の死の方が心にこたえたというのは、母の死が心にこたえるような次元から、物事を考えるべきだと言っているのであろう。

戦争というような大事件になると、母の死に直面するときと同じような位置から対するとは、限らず、私たちは、母の死のようなことがらについては、純粋にそのままその死を哀しむであろうが、戦争ということがらになると、とたんにその悲劇を悲しむというよりは、それを分析し、反省し、解釈してしまう。

小林秀雄があえて戦争より母の死の方が精神にこたえたというのは、一種の認識の問題を言っているのであって、戦争と母の死を単純に比較しているわけではなくて、母の死に直面したときのような、直感的で、単純かつ素朴な認識法と、戦争という社会的大事件に直面したときのような、いわゆる分析的で、反省的な認識法とを対比しているだけである。

小林は、このことを次のように

「以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基づいていて、曲筆はないのである。
妙な気持になったのは後の事だ。
妙な気持は、事後の徒な反省によって生じたのであって、事実の直接な経験から発したのではない。
では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない」
と要約しているが、ここに小林秀雄が対置するふたつの認識法が書かれている。

それは、事後の徒な反省によって生じる反省的認識と、事実の直接的な経験から発した経験的認識であり、小林秀雄は前者を斥け、後者を重視しているようである。

小林秀雄は、このふたつの認識について、とりわけ、その直接的な経験に基づく経験的認識について、母の死後の「妙な経験」を通じて説明しており、その「妙な経験」を、「或る童話的体験」と呼んでいる。

「或る童話的経験」について簡単にまとめてしまうと、

小林秀雄は、母の死から数日後のある日、仏にあげる蝋燭を切らしたのに気付き、それを買いに出かけた。

そのときは、もう夕暮れで、小林が、門を出たところで、今まで見たこともないような大きな蛍が光っているのを見つけた。

小林は、そのとき、母が蛍になっていると思い、そう考えると、もう、その考えから逃れられなくなった。

しばらく歩いていくと、曲がり角で蛍は見えなくなるのだが、その後、一度も吠えかかってきたことのない犬に激しく吠えかけられ、踏切近くまで来たとき、子供が「火の玉が飛んでいったんだ」と大声で踏切番と話しており、踏切番は笑って手を振っていた。

小林秀雄は、それを見て、
「何だそうだったのか」と思い、なんの驚きも感じなかった。

という話である。

小林秀雄は、この妙な経験を、すこしも奇妙だとか、感傷的だとか思いはせず、この事実を後から反省し、分析し、解釈した結果、妙な気持になったのであろう。

言い換えれば、このような事実を、その渦中においてではなくて、それからしばらくした後で、合理的に理解しようとしたときに、奇妙だと思ったのであろう。

さらに言い換えれば、経験という一回性の固有のものを、他の何ものかに置き換えるとき、この経験は、一般化され、その本来の固有性は失われてるのであろう。

それが、説明であり、解釈であり、そして理論による説明なのではないだろうか。

しかし、その経験の渦中に在っては、反省的な心の動きは少しもなく、他人からは奇妙に見えていたとしても、その当事者にとっては、すべてがアタリマエのことであったのだろう。

無論、私たちは、誰しもこのような経験を持っているのだが、ただ、それを語ることができず、またそれを他人にもわかるように説明することが、出来ないだけであろう。

しかし、私たちは、それを語ろうとするし、また説明しようとするので、そこに矛盾が起こってしまうのであろう。

小林秀雄は、『感想』の第1回目で死んだ母が蛍になった話を書いたのだが、その2カ月後に、水道橋のプラットフォームから転落したとき、「母親が助けてくれたことがはっきりした」と書いている。

小林秀雄は、それは、後から反省し、考えた上で、「母親が助けてくれた」と思ったのではないと言うのである。

小林がこの例で言いたかった事は、反省的思考と経験とは必ずしも一致しないということではないだろうか。

言い換えれば、私たちは、現実という直接的経験を、理論によって正確に説明することも、表現することも、出来ないということではないだろうか。

現実の世界では、たしかに、アシルは亀の子に追いつき、追い越してゆくのに、それを論理的に説明し、表現しようとすると、アシルは亀の子に追いつくことができない、という結論に達するほかはないようである。

小林秀雄は、
「この時も、私は、いろいろと反省してみたが、反省は、決して経験の核心には近付かぬ事を確かめただけであった」
と言っている。

このような考え方は、ベルクソンの、いわゆる「分析と直観」という考え方に基づいているのだろう。

ベルクソンは、認識をふたつに分ける。

ひとつは、「科学」的思考において用いられる分析的認識であり、もうひとつは、「哲学」的思考において用いられる直感的認識である。

ベルクソンは、分析的認識は、真の実在としての持続を認識することはできず、分析的認識は、対象を既知の要素に還元する操作である、と考えているようである。

つまり、分析することは、ある物を、その物ではない別の物に置換することであるため、分析をいくら繰り返しても、その物の実在に触れることはできない。

その物の実在は、他の何ものにも置き換えられないものだからである。

だから、分析的認識は、あくまでも相対的認識にとどまるのだろう。

これに対して、直感的認識は、その対象を外側から分析するのではなくて、その対象そのものの持続のなかに一体化することであり、記号や言語によらないで、直接的に知ることが直観であろう。

言い換えれば、ベルクソンのいう直観とは、対象を、持続の相においてとらえるということであり、持続する実在を時間のなかでとらえるということであろう。

そして、『形而上学入門』のなかで、ベルクソンは、言っている、
「直観から分析に移ることはできるが、分析にから直観に移ることはできない」
と。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

次回も、小林秀雄とベルクソン哲学者シリーズの予定です😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し画像は、本を買った、近くの本屋さんで行っていた展示です😊
撮影可でした😊