批評とは、分析であり、分析の限りを尽くして、もはやそれ以上分割不可能なものを見出すことではないだろうか。
たとえ、究極的には、その最終的に分析不可能なものが、もはや1個の無であったとしても、その分析の道を進まない限り、批評に到達することはできないだろう。
小林秀雄もまた、どれだけ分析的な認識にかえて、直感的、経験的な認識を主張したとしても、まずやらなければならなかったことは、分析することであり、反省することだったのかもしれない。
これに対して、大岡昇平は、ある時点から、分析や反省という行為に対して、ある決定的な訣別を行っている。
大岡昇平の分析や解釈は、『俘虜記』や『野火』などの小説においてさえそうであったように、あまりにも過剰であるといってよいほどかもしれないのだが、それらは、あくまでも分析や解釈の向こうにある現実や生活を浮かび上がらせる手段でしかないのであろう。
大岡昇平の内部には、現実や生活に対する素朴な、そして分析や解釈という理論的作業によっては、決して汲み尽くせない現実の多様性への強固な信頼が生まれてきたようである。
それは、大岡昇平がフィリピン、ミンドロ島での戦争体験を通して獲得したものであろうか。
大岡昇平の『俘虜記』や『野火』その他で書かれている、過酷な戦争体験は、批評家大岡昇平が作家大岡昇平に転換する契機であることは否定しようがないが、大岡昇平の内部である価値転換がおこったのはその前の、大岡昇平が東京を離れ、神戸でのサラリーマン生活をはじめたときであり、それが、戦争、出征、俘虜、復員という歴史的な体験と偶然重なったようにも思われるのである。
大岡昇平は、昭和3年、19歳のときに、フランス語の家庭教師としてやってきた小林秀雄と出会い、小林秀雄を通じて、中原中也、河上徹太郎、中島健蔵などと知り合うなど、大岡昇平の文学的な交友関係は切り拓かれたようである。
小林秀雄との出会って以来、大岡昇平は、友人から、
「人が違ったようになった」
と言われるほどに変化したのだが、それは、大岡昇平が批評家小林秀雄の誕生劇の渦に呑み込まれていったということでもあろう。
以後、大岡昇平は、小林秀雄的なパラダイムの中で生きねばならず、やがて、小林秀雄や河上徹太郎らの後を追うように、彼自身も文壇にデビューするのだが、大岡昇平が、この頃書いた評論のなかでめぼしい物はあまりなく、ほぼ相前後して、小林秀雄の影響下に批評を書き始めた中村光夫と比較しても、大きな違いがあったようである。
中村光夫は、すでにその頃、のちに『フロオベルとモオパッサン』として1冊の本にまとめられることとなる一連の書評や、やがて彼の代表作ともなる二葉亭四迷に関する評論を続々と発表しており、大岡昇平が同じような年の、しかも同じ小林秀雄の門下生である中村光夫の華々しい活躍が気にならなかったはずはないように思う。
大岡昇平は、中村光夫について、
「二十三歳で『モオパッサン』を書いて以来、中村の経歴は伸び伸びと育った植物を思わせる。
底にモオパッサンとフロオベルの苦渋を秘めながら、それを立証しようとする彼の筆には、いささかの渋滞の跡がみられない」
とのちに書いているが、逆にこの当時の大岡昇平の筆には、「渋滞の跡」が顕著であったようである。
中村光夫と大岡昇平の違いは、大岡昇平の内部にあった「原理的思考」へのこだわりなのかもしれない。
この「原理的思考」へのこだわりは、中村光夫には、まったくといってよいほど無く、そのことが、場合によっては、中村光夫が、小林秀雄以上に大胆かつ明快な批評家であり得た理由なのかもしれない。
中村光夫にとっては、小林秀雄が理論物理学やベルクソン哲学に示した関心の深さは、決して理解し得ないものであり、中村光夫においては、「理論」と「現実」ずれ、言い換えれば、「アシルと亀の子」のパラドックスという問題が、問題として浮上することはなく、中村光夫は、原理的な問題を回避することによって、いわば評論という危機を無視することによって、大胆な批評家たりえたのかもしれない。
江藤淳が中村光夫を評して、
「大胆に間違う人であった」
というのは、非常に正確な中村光夫評であろう。
これに対して、大岡昇平は、小林秀雄の忠実な読者であったゆえに「大胆に間違うこと」が出来ず、理論と現実のずれに直面した大岡昇平は、沈黙を選んだようである。
昭和13年、9月中村光夫は、フランス給費留学生として渡仏し、パリ大学に入学したのに対し、大岡昇平は、そのわずか2カ月後、神戸にある帝国酸素株式会社に翻訳係として入社し、東京を離れた。
大岡昇平は、このことについて、
「前年日支事変が起こり、文筆で生活する自信を失ったためである」
と自筆年譜に記している。
しかし、『わが文学に於ける意識と無意識』のなかでは、
「一度でも世界大戦史を読んだ者にとって、あの時アメリカと戦うことは亡国を意味することは明白でした。
無知な軍人共が勝手な道を選ぶのは止むを得ないとしても、私の尊敬する人達まで、それに同調しているのを見て、私は人間に絶望したといえます。
私はフランス語の知識によって、或る日仏合弁会社の翻訳係に国内亡命する道を選びました」
と述べている。
「私の尊敬する人達」のなかには、小林秀雄もふくまれているだろう。
大岡昇平が、昭和13年に東京を離れたという事実は、小林秀雄にとっても見逃すことのできない重大事件であり、小林秀雄の最も優れた理解者のひとりである大岡昇平が、もっとも強力な批判者に転じたことを意味していたのではないだろうか。
戦後、フィリピンの俘虜収容所から復員してきた大岡昇平を小林秀雄は、喜んで迎え、大岡昇平に「従軍記」の執筆を勧め、大岡昇平は、小林秀雄のすすめに従って『俘虜記』の第1章にあたる「捉まるまで」を書いたようである。
小林秀雄にとって、大岡昇平は、フランス語の生徒であり、文学的な弟子であり、そして青春のある時期をともに過ごした、やや年少の友人であったのであろう。
小林秀雄のベルクソン論である『感想』を読むとき、『感想』は一種の大岡昇平昇平批判ではないかと、私には、思われるときがある。
そのとき、『感想』というベルクソン論が遺書に関する分析から始まっている理由も、また、大岡昇平を意識した批評家小林秀雄の遺書として書かれたようにも、思われるのである。
小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、5年間にわたり、「新潮」に連載された長編評論であるが、途中で突然未完のまま打ち切られた奇妙な評論である。
これは小林秀雄の作品のなかでも異例のことであり、大岡昇平も、このことについて「『本居宣長』前後」のなかで、
「五十六回にわたって連載された労作はここで中断され、単行本になっていない。
小林さんの著作歴において異常なことである」
と書いている。
人はしばしば、もっとも大切なものを隠そうとし、また、隠そうとするその動作によって、もっとも重要な本質的な問題が何であるかを暴露してしまうのかもしれない。
小林秀雄とて例外ではなくて、小林秀雄のベルクソン論には、小林秀雄の本質的な課題が隠されているのかもしれない。
小林秀雄は、ベルクソン論が、彼にとって重要だからこそ、出版もせず、全集にも入れようともせず、さらに言ってしまえば、ベルクソン論は小林秀雄にとってあまりにも重要な問題を孕んでおり、ある場合には、小林秀雄の文学成果を悉く覆してしまうかもしれないような、極めて危険な要素を含んだ作品だからこそ、出版もせず、全集にも入れようとしなかったのではないだろうか。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
最後の疑問から、次回は考えていきたいなあ、と思っております😊
よろしくお願いいたします😊
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
*最近、また、気になりだしました😊
小林秀雄「近代絵画」
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