おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

ありふれた内気を社交不安症にする社会-闘病生活を経て考えたこと②-

2024-04-17 07:16:08 | 日記
オルダス・ハクスリーが描いたディストピア『素晴らしい新世界』は、苦痛からの解放が、脳の死に容易く変わってしまうことを示しているようにも、私には、思われるときがある。

私が、闘病生活(過剰処方からの脱却も含む)を経て考えたことは、
人生の困難に対する私たちの自然な反応を、病気の同義語にするべきではないということ、
また、どんな失意にもあてはまる診断があるわけではないし、どんな問題にも使える薬があるわけではない、ということである。

「偽薬より抗うつ薬の方が効くかどうか」
をめぐっては未だに論争が盛んに行われている。

なぜなら、研究で治療される患者の多くが、あまり重いうつ病ではなく、積極的な薬物療法実は不要である場合があまりにも、多いからである。

では、それを認識し、診断のハードルを適切に上げれば、過剰処方はなくなるのだろうか。

DSM-5がうつ病の診断を後押しして、抗うつ薬の過剰な普及をも正当化してしまったことは、事実である。

しかし、たとえ処方対象になる特定の診断がなくとも、むやみな処方が起こりうることを示す歴史上の先例がある。

抗不安薬のバリウムとリブリウムは、今日の抗うつ薬並みに1970年代~80年代のアメリカを席巻した。

つまり、明白なターゲットがなくとも、DSMが何を言おうが言うまいが、人々は、利益第一の製薬企業と一部の軽率な専門家に従って薬を飲み続けてしまうかもしれないのである。

歴史上の先例はもうひとつある。
こちらは、かなり古く、シャーマンの時代にまで遡る。

アルプスの氷河に良好な状態で保存されていた5000年前の男性のミイラは、人間は気分が悪いときには決まって気分が良くなるものを飲みたくなると言うことを教えてくれる。

彼は、薬草の入った小さな袋を身につけていた。
その成分は、当時のプロザック(抗うつ薬のひとつ)そのものであった。

歴史の曙から飲まれてきたほとんどの薬は、病気を問わず、また、時代を問わず、せいぜいわずかな効果しか望めず効き目がないか、直接の害があるか有毒であった。

それでも、シャーマンや神官や医師はそれらを処方し、患者は従順にそれらを飲んで見かけ上の恩恵を得ていたようである。

効果がなく、害をなす恐れがあっても、なお、薬の魔力は生き続けているのであろう。

どうも偽薬好きは、私たちのDNAに刻み込まれているようである。

一部の人々や製薬企業が自らの利潤のために助長している「病気」のために、何百万もの人々が有害である恐れのある高価な薬を飲んでいることを思うとき、私は、反発を感じざるを得ない。

そのような「病気」が実はありがちな不快や人生の悩みに過ぎず、生きていれば避けて通れないことを私たちは、知っている。

軽度か一過性の症状が出ている人たちの大多数にとって、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)は非常に効果で有害の恐れのある偽薬にすぎない。

時間、自然な回復、運動、周囲の助け、精神療法などが持つ力を私たちはもっと信頼すべきだし、化学的不均衡や薬に自動的に信頼を置くことはもっと避けるべきであろう。

もちろん、このようなことはうつ病が長引いたり、重かったりする場合にはあてはまらないが、精神医学は、助けを必要とし、助けから利益を得られる本当の病人を治療すべきであり、一部の利潤のために、人間が困難に直面した際の自然な反応までもを精神疾患に変え、薬を過剰に処方するために、時間と金と労力を浪費すべきではないだろう。

社交不安症(当時は社会恐怖症と呼ばれた)は、ありふれた内気を一時期、精神疾患のなかで3番目に多い疾患に変えたことがある。

有病率は7~13%(どれほど軽々しく診断を下すかによって変わってくる)である。

一時期、アメリカだけで、社交不安症の条件を満たす成人は、1500万人以上もおり、製薬企業にとって格好の宣伝対象となったのである。

内気は、誰にでも見られる完全に正常な特徴であり、後悔するよりも安全である方を選ぶ、と、いう生存上の大きな利点がある。

私たちの祖先が、安定した状況で日々を生きていくために、新しいものや試していないものを回避することは、賢明な態度であっただろう。

そうでなければ、回避を好むDNAはこれほど広く生き残れなかったであろう。

もちろん、社交不安症が生活に多大な支障をもたらしていて、誰が見ても精神疾患にほかならない人もいる。

しかしながら、そのような人は少なく、あまりにも小さな市場なので製薬企業は関心を示さない。

製薬企業が長けているのは、それらの人の展延した捉え方である。

つまり、製薬企業は、わずかに内気すぎる性向が、薬物療法の必要な精神疾患へと手品や魔法のように変えてしまう世界を、思い描いてしまうのである。

内気がふつうに見られるものであることが、かえって製薬企業に豊富なマーケティング対象を与えたのである。

正常な内気を精神疾患の社交不安症から隔てる明確な境界線は、ない。

そこで、製薬企業は総力をあげてのキャンペーンを開始し、内気な人たちすべてに「自分は病気だ」と思い込ませ、治療を受けなければ損だと信じさせようとしたのである。

製薬企業にとっては、都合のいいことに、有名人の多数が、現にひどく内気で、喜んでサクラになってくれることがわかった。

社交不安症(繰り返すが、当時は社会恐怖症と呼ばれていた)と診断されたことを公表し、ようやく適切な治療を受けたおかげで解放されたというある意味生き証人になってくれたのである。

医師たちもまた製薬企業から一大攻勢をかけて丸め込まれてしまい、
「医師の診断を」という宣伝の指示に従って訪れた「患者」候補に進んで抗うつ薬のパキシルを処方した。

やがて、社交不安症は珍しいが影の薄い精神疾患から、最もよく見られて最もよく治療されている精神疾患のひとつになったのである。

さらに、社交不安症には、製薬企業がマーケティングをする上で好都合な特徴があった。

それは、診断を受けた人のほとんどが、実際には病気ではないので、容易く回復させることが出来ることである。

そのような人々は偽薬に高い反応を示してしまうのだが、製薬企業にとって、その高さは魅力であった。

「ほんとうは病気ではない」だれかが、「ほんとうは必要のない」薬の偽薬効果によって回復すれば、そのひとは、薬を止めるという危険を冒すよりは、幸運のお守りとして、薬を使い続けることになりやすいからである。

しかし、なんの恩恵もないのに、むしろ害になるのに忠実な常連客に仕立て上げられ、服薬を続けることによって、余計な合併症を招く可能性があることなど、製薬企業は教えてなどくれない。

人生の困難を排除することは出来ないし、人生の困難に対する自然な反応は必ずある。

しかし、まずは、必要のない状況にまで強引に押しつけられるべきではない過剰な診断や過剰な投薬があることを、人生の困難に直面したとき、思い出そう、と、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今回は、闘病生活を経て考えてみたことシリーズの②を描いてみました。

良かったらお時間のあるときに読んでやって下さいね(*^^*)

今日は予報と違い、朝から晴れました( ^_^)

天気が良いと、なんだか嬉しいです(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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