1933年、立岩の調査に訪れた中山平次郎氏は、名和洋一郎氏とともに焼ノ正の土取り場から次々と得られる、赤紫色石の石材から製作された磨製石庖丁の未成品採集に夢中となった。中山氏は翌年に「石庖丁製作所址」と公表し、四工程からなる磨製石庖丁製作の過程を提示した。その工程は、80年の歳月を経ても色あせることはない。
中山氏は、同時に2つの課題をのこされた。「原産地」と「原産地から離れた立岩の意味」である。私は、後者の課題は前者の解明にあると考える。
・踏査に
何度、笠置山の周囲をうろついたことだろう。目的は、恐竜の化石であるが、ご存知であろうがこの地は、白亜紀前期の頁岩類が厚く堆積し、その中から肉食恐竜の歯が発見された。私は20年前、自然史博物館の友の会に属しており、千石峡に何度も足を運んでは化石を求めていた。当時、明らかになったのは、千石の川沿いに道が走るが、そこから、笠置山山麓に横に続く頁岩の分厚い層が観察できる。そこまで這い上がると厚い化石層が横に途切れることなく続いているのがみられた。ブロティオプシスを大量に含むため、蜂の巣のような厚い化石層で、丹念に探せば必ず動物の化石が採集できると、確信できるものであった。
早速、写真を撮り自然史博物館の冊子に投稿して、掲載された。その後、仕事が忙しいのと八幡駅まで通うのがつらくなり、友の会をやめてしまった。その化石採集時に亀の甲羅の一部が入った化石を発見した。これが、今日、立岩製磨製石器の原材料を採集した場所であり、運命的な出会いをしていたとは、まったく気づいてなかった。ただ、附近の傾斜面を踏査しているときに、赤紫の輝緑凝灰岩の岩盤が広がっていたことは記憶していた。しかし、私は石庖丁などの磨製石器にまったく興味を示しておらず、黒色頁岩に含まれる化石を探して、山中の石を割り続けていた。
ある時、1本の沢を見つけることになる。沢の底には頁岩の岩盤が見えやすく、水流のため滑らかで骨の化石があれば黒色の本体が見えるはずと、登ることにした。ところが、何も見えぬままに遡ると、水底に赤紫の岩盤が見えてきた。「輝緑凝灰岩か、化石はないな」当時の正直な感想である。沢をあきらめ平たん地に上がると、間もなく見つけたのが亀の甲羅の化石で、アドックスではないかとの鑑定を後日受けることとなった。確かに化石は黒色で、割れ口は網目状の組織が見られる。
この時点で、私の頭の中にある立岩の石庖丁の原材は、川原に点在する手ごろな礫で、筑豊の連中もそう信じて疑わなかった。ただ疑問に感じたのは、化石を求めて川原をうろいていた時、意外と礫が落ちていないのだ、例えば飯塚の歴史資料館で石庖丁製作体験を子供たちにやらせるのだが、川原から礫を拾って持ち帰り、剥片状態にして磨かせる。研磨は子供でもできるが、そこまでの加工は困難らしく、時間もない。
私も1度やったが、手ごろな礫がそれほどなく、礫を割るのもいささか難しかった。厚味がとれず子供たちは研磨に苦労した。穿孔は電動ドリルでこれが一発で孔が開く。
それからしばらく、千石峡に行くことはなかった。そこに、中村修身さんから抜き刷りが送られてきたが、その最後に、笠置山あるいは千石峡で原材が採取された跡があれば教えていただきたいというような内容で〆られていた。おや、そういえばアドックスらしき亀の化石を発見した場所に、輝緑凝灰岩の露頭があったはずだが。
・現地踏査に向かう
「中村さんの疑問に答えなければ」千石峡に立った時身震いがした。あらためて沢の両側に無数に堆積する巨礫、おそらくt単位の角ばった巨礫も見えた。まさに、「なんじゃこりゃ」である。沢の横から少し登るとわずかな平地が見える。千石峡にはなかなか見れない光景であるが、モウソウ竹やヒノキ、雑木がまばらにはえ、周囲を尾根がさえぎるため薄暗い。すでに、猪は筍掘りに興じたらしく、あたりが耕作地のようになっている。なんと鼻がよいのか、猪が筍に飽きた頃人間の出番となるらしい。おかげで、地面化の石材があらわになり、長雨にさらされた後には丁寧に洗浄される。小豆色あるいは赤紫がはえ、気が付くとあたり一面が輝緑凝灰岩の岩片に覆われていた。
先ずは、沢に降り立つのだが、これは壁面がむき出しになっているため土層の観察に都合かよい。厚さ1.5mほどの河川堆積層は、大小の亜角礫が粗めの土に固められている。層位ははっきりしないが、数層に分かれるようで、意外に少ないのが輝緑凝灰岩であり、扁平な小礫が上層に見受けられる。その層を下流側に観察しながら下ると、突然、無数の剥片が斜めに河川内に崩れ落ちている。その中に半月形や長方形の薄板状の剥片がまばらに混じり、しかも、色調は赤紫色に統一されている。つまり、輝緑凝灰岩の剥片やチップが散乱し、特に、チップはすごい量である。層を追うとチップが埋もれている場所は、土坑状に落ち込みが見られるようで、何やら人工的なにおいがする。
面白いのは、円礫が混在する礫層内には輝緑凝灰岩が案外に少ない。小さなが岩片程度のものは含まれているが、多くが別のものである。ところが、やや下流の壁面には大量の岩片が埋もれ、沢に崩れ落ちている。中には、未成品も含まれていて発掘調査が必要であるが、チップは大小様々なものがあり、大量に見られるのはどうもこのあたりに限定されるようで、整形や調整剥離のものと考えられるのである。
後に、藤田先生をご案内した際に「立岩を掘っていても未成品はよく出るが、石屑は少ないんだよ」と話された。「へえーそうなんだ」、飯塚の嶋田さんや樋口君に聞いてみよう、それは、私が考えている打製工程と磨製工程を区分し、原産地と生産地にあてはめている状況が見られるのだ。これも、分業の形態の1つかな。なんて考えた。
話は戻るが、大量のチップのあたりから、やや奥に進むと大きな板状の剥片が落ちている。周囲には長く細めの板状剥片があって、どうも、石剣や石戈の原材料のようである。さらに奥に進むと、大形の角礫がいくつか落ちていて、その周囲には石庖丁の未成品らしきものが、かなりの量で散在する。その周囲に、わずかに見える輝緑凝灰岩の露頭がある。本来、平坦地の奥に切り立つ崖面が、露頭その物であろうが、何せ腐植土に覆われてどうしようもない。重機か何かで少し削れば10m程度の高さを示す赤紫の崖面が登場しようが、それでは、遺跡が台無しである。
散乱する未成品らしきものは、すでに、半月形に近い。長方形状のものもあるが、多くは薄く割られている。輝緑凝灰岩の片理(葉理)を利用したもので、これが石庖丁の原材選定の1要因になっていることは間違いない。
※石材選択の要因について、の材質の特徴「節理・片理面」からアプローチしたレポートは、立正大の考古学論究に提出済み。12月頃に発刊予定らしいが、掲載されるかどうかはまだわかりません。
露頭写真の右にある石材は、輝緑凝灰岩層から割り出された、あるいは、崩落した岩塊である。幅30㎝、長さ21㎝、厚さ15㎝の角ばった所謂「角礫」である。お気づきであろうか、これは露頭に合わせて置いている。両側が直線的に平行しているが、南北方向の節理面で横方向の縞模様が片理、手前の不正形な割れ口が東西方向の節理面にあたる。
この節理と片理の組み合わせが笠置山の輝緑凝灰岩の形状と岩質を決定する大きな要因である。露頭は1本の沢に沿って山頂に向かって長く続のである。したがって、沢を登ると右手にその岩層が続いており、自然の崖になった沢の縁に多くの岩塊が砕け落ちているのを見ることができる。大きいものは、私より大きく沢の水をさえぎるように横たわっている。もちろん、近づいて観察しないと赤紫色のそれとは分からない。いつ転がり落ちたのか、全体は土色となり苔むしている。しかも、シダがはえていて近頃崩落したのではない、それこそ、立岩から訪れた弥生人が見ていたかもしれないような古さを感じる。その頃は、赤紫色の落ち着いた色合いで、緑の風景にマッチしたのかどうかは定かではないが、それなりの風情を醸し出していたのでないか。
写真は輝緑凝灰岩の板状剥片である。このような幅広の板状剥片は、材質的特徴が分れば瞬時に作れるものである。長さ56㎝、幅25㎝、厚さ6㎝を測るもので、これを縦長に割っていけば、石剣や石戈の素材を獲得することは容易である。これは、自然に割れたものではなく人工的につくられたものである。石材はなにも石庖丁だけではない、石製武器の材料もえられる環境であらねばならない。
要は、磨製石鏃、扁平片刃石斧といった小さなものから、石庖丁、石鎌の中程度、石剣、石戈といった長く大きなものまでを作れる石材の要素と無限に近いほど原材が確保できる条件がそろわねばならない。
・輝緑凝灰岩の選択
弥生人にとって赤紫の石材はどのように理解されたのだろう。今のところ縄文人までは石器の石材として利用していない。また、弥生になっても早期から前期の板付Ⅱa式段階を経ても確実な資料にはめぐり合っていない。桂川町の土師地区(八王寺遺跡)を含む小地域は、弥生前期後半期から今山の石斧がかなり入り込むポイントとである。立岩丘陵も数は多いようで、何かの関連性をかんじるのだが、特に、土師地区では輝緑凝灰岩製の石庖丁を前期後半のⅡb式あたりに使用している可能性があるが、確証はない。立岩丘陵では、下條先生が『立岩』に記す2例から前期末といいうことになり、現時点ではその時期を上限とかんがえる。
前期末といえば、立岩丘陵に弥生文化が入り込むのが板付Ⅱa~Ⅱb式段階で、定着し活動が活発化するのが前期末~中期初頭となる。そこに生活した立岩の人々に、必要だった様々な磨製石器があるが、石斧は今山系で石庖丁は頁岩質砂岩となる。しかし、両者は遠方から搬入する品物であり、自からの村で作り出すものでなかつた。とくに、人口増加に対応するように拡大化する農耕地、多くの稲などが栽培されるがその収穫具として必要な石庖丁を獲得しようとする必要性が、輝緑凝灰岩にたどり着いた。仮に、北九州市域から北東部の脇野亜層群の広がりの中で、いち早く凝灰岩質の堆積岩を利用して石庖丁を製作していたら、遠賀川上流域に拡大化あるいは伝わることが考えられる。
土屋みずほ氏の論考に提示された一覧表からは、前期末をさかのぼる例は見受けられない。遠賀川上流から下流域、東北部九州一帯が一斉に石庖丁製作をはじめたような感じである。
笠置山の輝緑凝灰岩の岩質について少し掘り下げてみる。
笠置山山麓の道を歩くと、頭上に頁岩の露頭が続く。続いて、八木山川をのぞく、あるいは、川原におりて輝緑凝灰岩の礫をさがしてみると、思いのほか見当たらない。多くは頁岩の礫で、森貞次郎先生が戦前に書かれた「無数に」との表現には程遠いのが現状である。尤も先生はもっと上流のようすをそのように表現されたことが想像できる。さらに、すたすた歩き廃屋の数件の旅館に至る。近年、その上で砂防ダム工事が行われた。出来上がった砂防近くを観察するが、やはり、赤紫色の石はお目にかかれない。森先生は最後に露頭を発見したと書かれている。ここが重要で、山麓を探しまわってようやく露頭にたどり着いたという情景が目に浮かぶのである。川沿いに歩いてキャンプ地に到着するが、その間に輝緑凝灰岩の露頭は1箇所と少ない。
したがって、森先生が記された「無数に云々」とは中山平次郎先生の予想にピタリと一致して、鞍手郡内の笠置山麓に流れる川底に散布する礫を見つけた、そのインパクトがそのまま文章になったのであろう。最初の感動であったが次の露頭の発見は、先生らしく冷静に記述されている。
さて、この岩質はどのような特徴があるのだろうか。詳細は先に記した立正大の考古学論究(12月発刊予定)に示したが、基本的に笠置山麓をスカートのヒダのようにくねくねと褶曲しながら、脇野亜層の黒色頁岩が取り巻く形で、そのヒダの1本がかろうじて裾野にたどり着いている。したがって、八木山川の橋から細い道を通ってキャンプ地に着くまで、まだ、露頭は1箇所しか見ていない。概ね反対側もそのような感じであろうか、山頂の450mあたりに行くと露頭が見られるらしいが、おそらく、私が見つけた露頭が山頂にのびるものと想像する。尤もこの頂まで登って原材を採集する必要があったかどうかは、今後の調査によろう。
とにかく、褶曲によって現れた輝緑凝灰岩の露頭は、黒色頁岩の下から現れ、わずかにその姿を見せるが沢の底へと消えていくのである。幅は十数m、高さは7~8m程度ある。よく観察すると岩層の南北と東西に亀裂が入る。いわゆる節理というやつで、南北の亀裂はしっかりと垂直に深く深く切り裂いている。東西方向は傾斜を持っており、自然に両亀裂から割れると南北相当の両側が平行する。しかし、東西方向の上下断面は平行四辺形状に割れるのである。また、軟質な岩質は風化と水流によって容易に磨滅するが。南北ラインは平行のままで、東西ラインは磨滅して丸くなる。
この割れ方は規則正しく、縦横概ね決まった大きさに割れていく特徴がある。つまり、多くのブロックが自然に崩落していくのである。
続いてブロックの割れ方は、1~2㎝基本として4㎝の厚さまで板状に剥がれるが、節理に直交する片理のその正体である。これもまた規則正しく畳を積み重ねたようだ。しかし、これは節理とは異なり自然に剥がれるようなものではない。これは2000年以上たってもほとんど変化しない表面の質と色合いに出ている。また、片理の厚さに整えればそれ以上剥がれることはまずない。頁岩質砂岩は土中にあっても表面が変化し、薄く剥がれていく。一方、輝緑凝灰岩は表面に露出していても磨滅はするものの、片理面での剥離はあるかもしれないが薄く剥がれることはない。
能登原氏の分析によれば、頁岩質砂岩は割った当初は漆黒である。問題は漆黒の肌にかくれた葉理(片理)がどの程度の厚さであるのか、縦断面で確認する必要があろう。もし確認できればそれが剥離しやすさの根本的原因になる。私的には頁岩質砂岩の葉理はすでに存在しており、風化によって葉理面が剥がれやすくなり張り合わせた薄板のように剥がれ落ちるものと考える。もう1点は輝緑凝灰岩は著しく軟質であるらしい。だが、それは片理面に垂直に硬度計を当てた場合ではないだろうか、つまり、本体の研磨面に相当する。しかし、片理に垂直な面で石庖丁の背部面に相当する面となるがその方向の硬度を測ってもらいたいと考える。それが刃部の硬さと鋭利さに通じるからで、硬さと軟らかさの組み合わせが持ち味となろうか。
片理面の大きな特徴として南北方向の節理から打ち剥がすと割と簡単に板状に剥がれるが、東西方向では片理面の接着度が強いのか、貝殻状に剥離する傾向にある。つまり、石庖丁の刃部が上下左右に力が加わっても、板状に剥がれにくい。しかし、左右両端部に加わると剥がれやすいことになる。しかし、片理面1枚から作られていれば、その危険性も薄くなることになる。輝緑凝灰岩の岩質の強みはそこにあるのではなかろうか。さらに、多方面からのアプローチが必要であろう。
階段状に現れた片理面
6/17 耳寄りな情報を入手した。飯塚市川島で昔工事が行われそこから目尾のに大量の土砂が運ばれ、巨大な石炭の露天掘りした穴を埋めたらしい。その土は嘉穂東高校つまり焼ノ正遺跡からさらに遠賀川沿いに下ったところで土木工事が行われいたらしく、その廃土がトラックで運ばれていたが、その大量の土砂に輝緑凝灰岩製の様々石器や未成品が大量に含まれ、その中にかなり大型の砥石が含まれていたらしい。情報提供の氏はその土砂採取の場所を確認して、その位置が河川敷に近いことから川原で石器が製作されたのではないかと想定した。
1つは、殿ヶ浦では河床下3mから多くの製品や未成品が得られている。その位置から推定すると川島の例も川底の遺跡で、当時は川原とも考えられるが、注意すべきは昭和初期に中山平次郎氏と名和洋一郎氏の2人が盛んに採集した石庖丁の未成品類は、下ノ方遺跡から土取りされている現場で、かなりの土と共に大量の製品や未成品が運び出されたと考える。その土は河川附近の県道に使用されたようで、人工的な盛り土に利用された下ノ方の資料の可能性が考えられる。
中山氏は、「飯塚市立岩字焼ノ正の石庖丁製造所址」の中で、「県営の道路改修造用の土砂採掘の為目下盛んに崩されつつある個所があって」「包含層はすでに大分崩されて居たから、新道の下積となった遺物も定めし多かるべく」と記し、発見が早く調査に至っていればどれほど資料が集められたかという気持ちが込められている。当時、県道のどの部分に使用されたのかが判明すれば、目尾に運ばれた土砂内の遺物群がどこからという疑問が解決されよう。
下ノ方遺跡のものであれば、中山氏があえて書かれた「新道の下積となった遺物も定めし多かるべく」との気持ちが反映されよう。私は以前、立岩丘陵の全体が発掘調査されたなら、どれほどの資料が得られたであろうかとブログに記したが、私のおごりではないかと批判された。まったくの見当違いで、むしろ、中山氏と想いが重なるのである。この気持ちは高校生の頃であろうか、糟屋郡の古大間池が破壊され、中学2年からコツコツと採集した部分が削り取られた時の気持ちに近い。私は意外と純粋なんですよ。
また、笠置から遠賀川へと流れ込む河川があるが、今は3面側溝の水路である。旧嘉穂から秋月に抜ける古八丁を踏査しながら、おそらくこの道は古代以前に遡ると直感したが、基本的に上り下りは関係なく直線で目的地に到達する。私は古道の基本は直線と考えており、様々な理由で迂回する、例えば新八丁などは比較的新しい発想の道と考える。
直線とくれば、笠置山から直線的な河川と狭小な平地で、その先に遠賀川があり河床下には殿ヶ浦遺跡があり、川を渡ると川島の丘陵に至る。川島の丘陵続くように遠賀川上流にたどると立岩丘陵となる。
問題は、笠置山の南山麓から流れ出る河川は相田から流れ出るもう1本河川と庄司本村付近で合流し、遠賀川にそそぐ。情報によればその河川工事の際に、こぶし大ほどの輝緑凝灰岩の円礫層が分厚く露出していたらしい。ということは、笠置から流れ出る河川もしくは、相田から流れ出る河川に輝緑凝灰岩の崩落礫が集中する箇所があることになる。笠置は、1度訪れたが円礫が河川の上流に結構見受けられたが、露頭は見らなかった。しかし、分厚い層をなすほどの量であれば、上流に露頭があるものと考えられる。再度、笠置と相田を訪れる価値があろう。
6/23 早速、訪れてみた。今日は気温は低いが蒸し暑い。なんとか雨は降らないようで、車を走らせ笠置ダムのある公園に到着した。そこから自転車に乗り換え、まずは笠置橋のバス停の先から左に入り、細長の河川を登っていく。この道は相田にぬける古道のようで途中から笠置古城への登り道となる。河川はその道の分岐点に立つと笠置古城への登坂沿いに1本、本流はさらに谷奥から流れている。分岐点近くには小規模の採石を行っていたのか、崖状の露頭があり観察のため水路ほどの小河川をわたる。渡り際に観察をすると輝緑凝灰岩の礫が若干混じっているものの数的には少ない事を確認した。先の露頭にたどり着くと、そこは変成岩のがれきの山であり、まさしく、中世代の下にある古生層だった。
確認後、本流となる河川を観察すると少数の輝緑凝灰岩を確認、その流れを追って左手に小規模な谷水田を見ながら古道を進む。途中、何度か河川をのぞきこむが赤紫色の塊は見えない。さらに奥へと進み水田のもっとも奥に到着、水田はきれいに耕されているが、表土に驚くほど石屑が混じっている。河川はそのすぐ脇を流れており、少しの間観察するが赤紫色の石は見当たらない。しかし、巻貝の化石を含む頁岩がちらほら見える以外は、変成岩の礫であろうか。その後、三角の水田をひとまわりして表土に混じる石を観察、その下の水田も歩いてみるが、人為的な剥片は1点もない。また、輝緑凝灰岩は1点も見られなかった。
引き返す途中で何度か河川を観察するが、赤紫色の礫はやはりない。先ほどの分岐点までもどり笠置城への道を歩きながら、もう一度小河川をのぞき込むと、数少ないが赤紫色の礫が観察される。どうも、山城への登り道あたりから下手になると輝緑凝灰岩が観察されるようであるが、付近にその露頭があるとはとても思えないほどの量である。さらに、その河川は急斜面の沢となって山から下る。その途中で赤紫色の礫が混じるのか、以前、山頂に向かって山を登ったが、大量の赤紫色の礫やその露頭は発見できなかった。沢はおそらく山頂付近にまで続くのであろうから、そこまで登ると露頭があって、そこに流れ込む可能性が高い。
「笠置側に石器のにおいがしない。」というのが数回の踏査結果である。それから、自転車をこいで飯塚市側へと道を下り、途中から右の旧道に曲がる。やがて、河川と並走するが、目線は河床礫を狙うものの赤紫色は全く見当たらない。所々に水田に水を引くための堰がつくられ、水流がたまり水となり深さを増している。いるいる、「ハヤだな」つぶやくと、聞こえたのか群れを成して逃げていく。体の横にラインが見えた。このあたりではイシバヤというやつだ。
それから、相田へと向かう広い道を自転車で進む。もう一本気になる河川が流れる谷沿いの水田地であるが、笠置の何倍の広さであろうか。ちょうど坂道を越えると右手に神社が見えてきた。そこに、山側から1本の道が通じていた。なるほど、笠置からの道はここに続くのかと1人納得。早速、河川をのぞくと、変成岩の礫ばかり、笠置の河川とはまったくちがう。つまり、この河川は輝緑凝灰岩の堆積には無関係のようである。それにしても、対面する庄司本村から相田へ続く丘陵は魅力的である。
結論として、こぶし大ほどの輝緑凝灰岩の円礫層が分厚く露出していたのは笠置方面からの礫の堆積であろうが、何が原因でそのような堆積層ができたのかは、今の河川をみるかぎり困難な問題である。
次に、笠置山から遠賀川を渡り、川島や立岩方面への道筋を考えねばならない。川中にある殿ヶ浦遺跡は、仮重要な存在であり、地下4mから縄文後期の土器、2mから多くの輝緑凝灰岩製石器の未成品が得られている。
ようやく、「考古学の諸相Ⅲ」に笠置山採集地点の観察結果を掲載した。先生方にいくつか貴重なご教示を得た。『福岡地方史研究』最新号に笠置山と立岩の距離を埋めるものとして、そもそも、石庖丁は打製段階での技法は石核を使用した半月形横長剥片を量産する剥片石器に分類され、その段階でおのずと軽量化されるため、運搬距離約6㎞は何ら支障ないと判断、根拠は薄弱ながら前近代の背負子による運搬を想定しながら内容をすすめると、今山の石斧も内陸運搬で十分に対応できると書いてみた。研究史をさぐると色々見えてきます。意外な点が見えなかったりします。
福岡地方史研究に石庖丁等石器の運搬について、近現代的合理性を論考に持ち込むと意外な結果になることが見えて来た。しかし、近年いや今でも私たちの脳裏にはそのことが当たり前のようにインプットされており、資料の選択から解釈に至るまで、あらゆる思考部分を支配することは当然である。
平成26年の1月に入り、ニュースがとびこんできた。1本の電話があり弥生石器研究の第一人者であり、立岩に深くかかわってこられた下條先生から、2月に現地見学と採集資料の調査をお願いしたいとのこと、わが耳をうたがうとはこの時の事であろう。電話の向こうから先生の声が聞えてくるのだが、頭に血が上ってしまい、何を答えているのか自分で分からなくなっていた。
笠置山麓で原材採集地を発見して10年以上が経過、古文化談叢に資料紹介したが、なかなか反応がないが当然であろう。昭和61年、原田遺跡で有文小銅鐸を発見した時に、見学にお出でになった学会の有数な先生方、中でも今後の私の考えや対応について最も心をくだいてくださった森 貞次郎先生は、そっと、「発見した時より、あとが大変ですよ。これが学会で問題になるのは、最低10年は必要ですね。」と、こんな風に言ってくださった。細分単位は10年、今回の笠置山の件はこの編年上にのっているように感じる。
下條先生が来られる前に灰緑色等の所謂「赤紫色の輝緑凝灰岩」以外の資料を数点採集しようと、千石峡に出かけた。その際に、灰色系の資料を得る事ができた。灰緑色は剥片城の薄いものを1点加えている。問題は、灰色系のものが輝緑凝灰岩なのか、なんとなく、頁岩質砂岩に見える所が面白い。下條先生にお聞きしようと思うが、肉眼視における頁岩質砂岩の鑑定がどうなのか、ひょっとすると、灰色系の石材が出回っていたかもしれないと思っている。これは、頁岩質砂岩製石庖丁の石材鑑定がどこまで有効なのか、確かに理化学的鑑定は、プレパラート等を活用し岩石学的に特徴を明確化している。しかし、全ての石材を理化学的に鑑定しているわけではなかろう。岩石学の先生は、割って新鮮な面をみなければ分からないという。おそらく、風化が進んだ石材を鑑定するのは困難であろう。