2007年のフランス映画「画家と庭師とカンパーニュ」(原題:Dialogue avec mon jardinie)は都会返りの絵描きと、勤勉実直な庭師との交流を描いた友情ものだ。「画家と庭師とカンパーニュ」という名詞を並べただけの題名のとおり、美しいフランスのアトリエと菜園を舞台にした男二名の人生に焦点があてられ、余分な人間関係はほとんどない。その主役の名前すら明らかになっていない。内面に共感させないためなのだろうか。かなり簡潔な話なのに、飽きないのが魅力だ。
パリでひと花咲かせて売れっ子画家になったにも関わらず、故郷に帰った画家。親の遺した菜園を管理するため募集した庭師としてやって来たのは、小学校時代の旧友だった。
すでに髪に白いものが混じりはじめたふたりは、すぐに昔話で盛り上がって意気投合。互いを「キャンバス」「ジャルダン(仏語で”庭”の意)」と呼び合い、主従関係を越えて、余すところなくこころの内を明かしあう。まるで小学校のときのいたずらで退学になってからの、日々を取り戻すかのように。
風景画家と庭師。キャンバスに描くか、描くもののを植えるかの違いだけ。どちらも芸術的な仕事のように思われるが、ふたりの男の辿ってきた道のりも、考え方もまったく相容れない。
女癖が悪く、長年連れ添った妻とは別居状態で離婚間近という画家。モデルで愛人の若い女を、菜園のあるアトリエに連れ込み、愛妻家の庭師を困惑させる。家業を放棄し、自分で築いた今の地位あってなのに、それに不満をこぼしてばかりいる。
無学で中学卒業から働きに出ていた庭師は、たびたび画家のふりまく教養のひけらかしや、知名度がありながら自分の表現に満足していない不平屋ぶりに、ときに眉をひそめながらも、我がままな画家に付き合ってやる。庭師は、もと国鉄職員だったが労使交渉で職を辞し、子どものころの夢だった庭師の仕事をはじめたばかりだったのだ。
性質が正反対の男ふたりがコンビを組んでという設定は、古今東西数あれども、ここでのふたりは取っ組み合うほど衝突をしたりはしない。大きな諍いごともなく、展開されていくのは、ごくごくありふれた日常のできごとばかり。だが、凝りすぎたしかけがないのが、かえって小気味いい。ありふれた事を描きながら、主役二名のやりとりには人生のエッセンスが詰められている。
ふたりの友情は、性格の違いによるこじれではなく、誰にでも訪れる人生の終焉によってついえてしまう。だが、その死があまりに悲愴感を漂わせないのは、辛気くさくならないようにやんわりとしたほろ苦い情緒を引き出すような終盤の川のシーンがあったからだろう。
芸術家を主役にしている作品にありがちな自己主張の激しさを、血と汗と涙を流して過酷な労働を強いられながらも、その仕事に誇りをもってあたっている一般人の経験深い至言によっていさめている。なんとも胸に沁みる名作だ。
犬が吠えかかる理由や、庭師が妻を「奥さん」と敬意をこめて呼ぶ意味など、謎は残したままふしぎな余韻が残される。この謎めいた部分こそが、とりたててふつうの労働者であった男を、こころの荒んだ男を救う神の遣いかのように神格化せしめているのだ。しかも、自己賛美のような嫌味っぽさがない。
庭師が忠告したナイフとロープの必要性は、最後になってつながってくるのだが、サスペンスのような予兆を期待してまうと裏切られる。ひねくれた鑑賞者をあざ笑うかのように、素直さを要求される作品だ。こころが洗われるような翠ゆたかで光りあふれる庭園を目にしていれば、おのずと穿った見方もできなくなろう。
平凡だがささやかな幸せを大切にする人間の生き方が、才能にうぬぼれて孤独で、愛に飢えた男を変えてしまう。よくある話なのだが、こころにじんわりと残る。原作者が画家のせいか、ギャラリーの場面でそれなりの絵画論が盛り込まれているのも興味深い。なにより女癖が悪い主人公のそれをあからさまにするような際どい演出がなかったのがよかった。
ゼロ年代以降の洋画では、繰り返し観たいと思わせた数少ない作品となった。私はこの作品を忘れない。
監督はジャン・ベッケル。
原作は画家アンリ・クエコ。
出演はダニエル・オートゥイユと、ジャン=ピエール・ダルッサン。
(2010年11月12日)
画家と庭師とカンパーニュ - goo 映画
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パリでひと花咲かせて売れっ子画家になったにも関わらず、故郷に帰った画家。親の遺した菜園を管理するため募集した庭師としてやって来たのは、小学校時代の旧友だった。
すでに髪に白いものが混じりはじめたふたりは、すぐに昔話で盛り上がって意気投合。互いを「キャンバス」「ジャルダン(仏語で”庭”の意)」と呼び合い、主従関係を越えて、余すところなくこころの内を明かしあう。まるで小学校のときのいたずらで退学になってからの、日々を取り戻すかのように。
風景画家と庭師。キャンバスに描くか、描くもののを植えるかの違いだけ。どちらも芸術的な仕事のように思われるが、ふたりの男の辿ってきた道のりも、考え方もまったく相容れない。
女癖が悪く、長年連れ添った妻とは別居状態で離婚間近という画家。モデルで愛人の若い女を、菜園のあるアトリエに連れ込み、愛妻家の庭師を困惑させる。家業を放棄し、自分で築いた今の地位あってなのに、それに不満をこぼしてばかりいる。
無学で中学卒業から働きに出ていた庭師は、たびたび画家のふりまく教養のひけらかしや、知名度がありながら自分の表現に満足していない不平屋ぶりに、ときに眉をひそめながらも、我がままな画家に付き合ってやる。庭師は、もと国鉄職員だったが労使交渉で職を辞し、子どものころの夢だった庭師の仕事をはじめたばかりだったのだ。
性質が正反対の男ふたりがコンビを組んでという設定は、古今東西数あれども、ここでのふたりは取っ組み合うほど衝突をしたりはしない。大きな諍いごともなく、展開されていくのは、ごくごくありふれた日常のできごとばかり。だが、凝りすぎたしかけがないのが、かえって小気味いい。ありふれた事を描きながら、主役二名のやりとりには人生のエッセンスが詰められている。
ふたりの友情は、性格の違いによるこじれではなく、誰にでも訪れる人生の終焉によってついえてしまう。だが、その死があまりに悲愴感を漂わせないのは、辛気くさくならないようにやんわりとしたほろ苦い情緒を引き出すような終盤の川のシーンがあったからだろう。
芸術家を主役にしている作品にありがちな自己主張の激しさを、血と汗と涙を流して過酷な労働を強いられながらも、その仕事に誇りをもってあたっている一般人の経験深い至言によっていさめている。なんとも胸に沁みる名作だ。
犬が吠えかかる理由や、庭師が妻を「奥さん」と敬意をこめて呼ぶ意味など、謎は残したままふしぎな余韻が残される。この謎めいた部分こそが、とりたててふつうの労働者であった男を、こころの荒んだ男を救う神の遣いかのように神格化せしめているのだ。しかも、自己賛美のような嫌味っぽさがない。
庭師が忠告したナイフとロープの必要性は、最後になってつながってくるのだが、サスペンスのような予兆を期待してまうと裏切られる。ひねくれた鑑賞者をあざ笑うかのように、素直さを要求される作品だ。こころが洗われるような翠ゆたかで光りあふれる庭園を目にしていれば、おのずと穿った見方もできなくなろう。
平凡だがささやかな幸せを大切にする人間の生き方が、才能にうぬぼれて孤独で、愛に飢えた男を変えてしまう。よくある話なのだが、こころにじんわりと残る。原作者が画家のせいか、ギャラリーの場面でそれなりの絵画論が盛り込まれているのも興味深い。なにより女癖が悪い主人公のそれをあからさまにするような際どい演出がなかったのがよかった。
ゼロ年代以降の洋画では、繰り返し観たいと思わせた数少ない作品となった。私はこの作品を忘れない。
監督はジャン・ベッケル。
原作は画家アンリ・クエコ。
出演はダニエル・オートゥイユと、ジャン=ピエール・ダルッサン。
(2010年11月12日)
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