▶危機一髪「フィルム没収」
「フィルムを没収する、と必ずいわれる。そのときは大人しく従った方がいい。
抵抗すれば、基地の中に連行されるだけだから・・・」
基地ゲートを固めていた沖縄人警備員が私の脇に来て、小声でささやく。
那覇空港に降り立った私は、
何はともあれ嘉手納基地を見ておきたいとタクシーに乗った。
1968年といえば、ヴェトナム反戦運動が盛んのときで、
東京でも「ベ平連」が街や駅などでデモや「反戦フォーク集会」を開くなど、
市民レベルでの運動が激化していたし、
新聞には「ヴェトナムに出撃するB52」といった見出しと共に、
嘉手納基地の名前が頻繁に登場していた。
沖縄は、タイやフィリピンと並び、ヴェトナム戦争最大の出撃基地だったのだ。
「何はともあれ嘉手納基地」という思いは、
そんな意識が大部分を占めていたせいだった。
あれやこれやの雑談を交えて話をしながら、
「嘉手納基地を眺めるにはどこが一番いいか?」と聞くと
「そりゃ16番ゲートあたりだ」と運転手さんの答えに従って降りた場所が、
滑走路への誘導灯が並び立つゲート16前だった。
▶撮影禁止、だがシャッターを切った!
ところが、そのとき、何ということか、まさにB52そのものが離陸を始めていた。
「黒い殺し屋」とは後に知ったB52の渾名だが、
その重たく響く轟音のすさまじさに度肝を抜かれながらタクシーを降り、
カメラを構え、「黒い怪鳥」に向けてシャッターを切った。
写真は、初めての沖縄で、初めて撮ったB52(1968年10月14日)
そして、B52は北東の空に遠ざかっていった。
ひと息ついた私はゲートの反対側に目を向けた。
そこには小高い丘をくり抜いた施設があった。
知花弾薬庫地域(1968年10月14日)
弾薬庫に違いないと、シャッターを切ったとき、
アメリカ映画で見慣れたパトカー(憲兵車両)がやってくるのが見えたのだった。
▶「フィルムを没収する!」
憲兵が何か喋った。
ゲート警備に立っていた沖縄人ガードが「フィルムを没収する」とすかさず通訳する。
実は、予期しないでもなかった。
だが、B52の発進に緊張し、
まだ解けぬ内に弾薬庫まで撮れた思いに浸っていた最中の出来事だった。
そして、冒頭の沖縄人警備員の言葉がささやかれたのだ。
「フィルムを没収する、と必ずいわれる。そのときは大人しく従った方がいい。
抵抗すれば、基地の中に連行されるだけだから・・・」
「報道の自由が・・・」などと抗議してみようかと思ったが止めた。
沖縄に着いたばかりなのに、いきなり憲兵隊に連行されては、
そもそもの目的さえ叶わない。
この窮地から脱する方法はきっとあるに違いない。
そう思っていたとき「まず、嘉手納署に行く」と憲兵がいう。
この言葉を聞いたとき、フィルムを没収されずに済む方法が思い当たった。
MPカーの後部座席に座らされた私は
嘉手納署に向かう数分の間に撮影済みのフィルムを巻き取り、
代わりに新品のフィルムを装填した。
これで窮地を脱することができると安堵した。
嘉手納署では署員が「フィルムは渡した方がいい」と同じことをいう。
いわれるまでもなく、私はカメラを取りだし、裏蓋を開け、フィルムを取り出す。
そしてその一端をつまんで36枚撮りのフィルム全てを一気に感光させた。
窮地は脱したものの、その一方で、この「事件」は、
私自身、沖縄でアメリカ軍支配を実感させられた瞬間ともなった。
※この「私の復帰前史」は、カメラマンとして復帰までの足かけ5年、
沖縄に暮らした私の実感的沖縄体験報告です。
※シリーズタイトル「やまと世から50年」の「やまと世(ゆー)」とは、
沖縄では日常語で、絶えず外国に従属させられてきた「世代わり」の歴史に
根ざしている。復帰前の沖縄は「アメリカ世」だった。