Re-Set by yoshioka ko

■『ゲリラは処刑されたのか?』 ③

 ペルーのリマで起きた日本大使公邸人質事件での最高指導者が、次のような書簡を寄せた、と共同通信が配信している。《以下引用》

 「1996年にペルーの日本大使公邸人質事件を起こした左翼ゲリラ、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)の最高指導者ビクトル・ポライ服役囚(56)が21日までに共同通信に書簡を寄せ、同事件を含めたMRTAのゲリラ活動の「敗北」を認め、武力闘争の放棄を表明した。武力突入から10年を迎えるのを前に、弁護士を通じて服役中のリマ近郊の刑務所から書簡を送った」(4月21日『共同通信』)《引用ここまで》

 この事件は《テロとの戦争》には武力での解決しかない、という強力なメッセージを世界に送った。ひとりの犠牲者を出したものの、残り全員の人質が無事解放されたのを受け、フジモリ大統領(当時)は世界から絶賛を浴びた。

 ビクトル・ポライ服役囚が出したメッセージは、象徴的である。公邸を占拠したとき、MRTAは「ペルー人民の大多数に、よりいっそうの貧困と飢えしかもたらさない経済政策を支えてきた」とフジモリ大統領と彼の政権に経済的援助を続ける日本を非難した。すでにフジモリ大統領が失脚したとはいえ、ペルーは貧困から脱出したわけではない。

 その中での武力闘争の放棄は、センデロ・ルミノソという武器こそが人民を解放するという、もうひとつの武闘派ゲリラ組織との違いを鮮明にしたかったのかも知れない。

 とはいえ、公邸占拠事件当時、ビクトル・ポライ服役囚は刑務所内から占拠の正当性を世界に向かって送り続けていた。彼らはいかに武力制圧されたのか、その三回目です。

【前回まで】
 大使公邸に囚われの身となっていた在ペルー日本大使館の一等書記官の小倉英敬氏が、突入した兵士たちの前にMRTAメンバー3人が命乞いをしたにもかかわらず、処刑された、と証言したことで、リマの検察当局が動き始めた。

 一方、事件から2週間後、鉱山労働者二十四人に呼び出しがかかった。土砂が崩れ、人身事故が発生したというのだ。しかし彼らが連れて行かれた場所は、リマにある陸軍特殊部隊の基地だった。彼らは大使公邸につながるトンエル堀りを命じられた。

■『ペルー大使公邸占拠事件~ゲリラは処刑されたのか~』③
○公邸居間につながるトンネル
  特殊部隊員がトンネルに入ったのは、
  作戦決行日の三日前だった。
  そして居間と食堂の床下に爆薬を仕掛け、
  その瞬間を待ったという。

○ホセ・サパタ部隊長
  「突入当時、MRTA側は
  ミニサッカーをやっていたといいますが            
  どこでやってたのか?」
  「ここは居間で、こちらが食堂でした。
  彼らはここでサッカーをしていたんです。
  爆発は二回起きました。
  ひとつはここ、もうひとつは向こうでした」

○トンネル主観
  平和的解決に向かうかに見えたが、
  事件は特殊部隊の突入によって決着した。

○ルイス・ジャンピエトロ氏宅
  人質の中には、
  武力解決は不可避だと考えていた人物がいた。
  ルイス・ジャンピエトリ元海軍提督。
  彼は、これは戦争なのだから、
  軍や情報部は必ずや公邸内に、
  盗聴器などを持ち込むはずだと、考えたという
 
○ルイス・ジャンピエトリ元海軍提督
  「だから私は、魔法瓶からほうき、
  簡易トイレや本にいたるまで、
  公邸内に入ってくるすべてのものに対して、
  私はジャンピエトリ提督です、
  もし聞いているなら、このポケットベルに連絡下さい、
  と話しかけたんです」

○ギター
  ポケットベルは同じ人質となった陸軍少佐が
所持していたものだった。
  そのポケットベルにようやくメッセージが
  送られてきたのは二週間後だった。
  ギターを四本(ほん)差し入れる・・・。
  この日以降、ギターケースに仕込まれた盗聴器を通じて、   
  公邸内の情報は筒抜けとなった。

○ルイス・ジャンピエトリ元海軍提督
  「突入を知ったのはいつだったか」
  「前日です、前日にある連絡が入りました」
  私が伝えなければならない最後の情報は、
  メンバーの何人が二階に残り、
  何人がサッカーに興じているかということでした」 

○デッキにテープを入れるジャンピエトリ氏
  ジャンピエトリ氏は
  一本のカセットテープをセットした。
  この中に、最後に発信した言葉が残っているという。

○カセットデッキからの音声
  「マルカ・ルナ 上に一人 下に十三人」
  「マリーは病気だ、マリーは病気だ」

 (爆発音そして慌ただしい音など)

○デッキ
  マリーは病気だ、 
  公邸内から発せられたこの言葉こそ、
  突入しても大丈夫だ、という合い言葉だった。

○高村正彦外相(当時)
  「突入して日本政府は知りました。
  「事前にペルー政府から連絡というものはなかったのか」
  「ありませんでした」

  首相特使としてペルーに足を運んだこともある
  高村正彦氏が知ったのも、テレビのニュースだった。
  
  「フジモリ大統領も
  一応平和的解決ということにつきあいながらも、
  一方では第二の手段をやってると。
  私たちもそれを知っていたけれども、
  それをやっちゃいかんといえるほど僭越ではないと」

○フジモリ大統領凱旋
  占拠から百二十七日目、
  ペルー軍特殊部隊の突入によって
  メンバーは全員が死亡、
  武力制圧は、彼らの死ばかりか、
  主張をも封じ込めたのである。(以下第四回に続く)

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