▶初の公選主席選挙に燃える沖縄
沖縄到着早々、危機一髪のところで逃れたとはいえ、
フイルム没収という米軍支配の実態をいきなり味わった私だったが、
この日からほぼ1ヶ月、『アサヒグラフ』の取材を兼ねながら、
離島を含めて沖縄中を駆け回った。
実はこのとき、米統治下となって23年間、
ずっと任命制だった行政主席を初めて住民が選ぶ選挙(公選主席選挙)が
行われることになっていたからだ。
この選挙戦に密着すれば、沖縄の「民意」を実感できるに違いない・・・。
私は、密かにそう期待していた。
候補者はふたり。
一人は日米政府が支援し「復帰をすればイモを喰い、
ハダシで歩く生活に戻る」と警告する西銘順治候補。
一人は、復帰運動を主導してきた教職員会会長で
「即時無条件全面復帰」を掲げた屋良朝苗候補。
保革一騎打ちの構図だった。
石垣島での選挙風景(1968年10月28日撮影)
▶「沖縄を返せ」に込めた民意
♪ 堅き土を破りて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が血と汗をもて 守り育てし 沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄は 我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ
石垣島で、3000人という島始まって以来という大参加者となった集会で、
全員が合唱する「沖縄を返せ」という歌を初めて耳にし、
その歌詞を理解したときには、鳥肌が立ったことを今も覚えている。
屋良朝苗候補を中心に右に瀬長亀治郎人民党委員長、左に安里積千代社大党委員長
選挙戦は、教職員会が全面に出た戦いになったところから
「アカ攻撃」に始まり「買収」「怪文書」に加えて
暴行・傷害事件も起きるなど大混乱。
だが、結果は屋良朝苗候補が237,643票を獲得、
西銘順治候補には3万票あまりの大差をつけて勝利した。
▶「革新」に冷たい本土政府
当選翌日の屋良朝苗さん夫妻(いずれも『アサヒグラフ』に掲載したもの)
初代公選主席となった屋良朝苗さんは、
私のインタビューにこう答えている。
「革新主席だからといって、本土政府が何もしないというのでは、
人間性の尊厳に反し、ヒューマニズムにも反する」
このひと言は、ついでながらいえば、それから53年も経つというのに、
いまの辺野古埋め立て強硬策や、コロナ感染急拡大を前に
緊急事態宣言を求める沖縄県知事に対する差別的言動に見られるように、
日本政府の対沖縄対決姿勢にもつながる。
ところで、カメラマンとして選挙取材を全て終えた私は、
『アサヒグラフ』に記事を添えてくれた朝日新聞那覇支局の井川一久支局長や、
支局員だった故・筑紫哲也さんと泡盛を酌み交わした。
沖縄新参者だった私にとっては、
取材で出会う人々や直面した出来事の全てが衝撃、驚き、疑問の連続だった。
が、お二人は真摯に対応してくれた。
例えば、「即時無条件全面復帰」の背後には米兵犯罪の増加だけではなく、
戦闘機や爆撃機の墜落や騒音公害、人種差別、売春、
米兵との間に生まれた子どもや異民族対立の問題などが横たわっていること。
例えば、「即時無条件全面復帰」が実現すれば、
沖縄は即座に「イモ・ハダシの生活に戻ってしまう」という保守側の言い分が
世論の拡がりを見せなかったのは、
「戦前から沖縄はイモで生命を支えられてきた。
イモを喰うのは恥だといういい方は恩知らずな言い分だ。
そもそもそんな生活に追いやったのは、
本土の政府だったという意識が働いていたからだ」といった具合だった。
▶まさかの大事件発生
私には、米軍支配の実態や、
自らの意思によらずに歩まされてきた歴史を知らずには
沖縄の複雑さを理解できないことを痛感するしかない酒場談義となった。
ともあれ、
フイルム没収という傍若無人な行為に奔る
米軍権力を実感したばかりの私にとって、
「米国統治にノー」という強い民意を前に、
「米軍統治ももはやここまでか」と密かに思ったりもしたが、
現実はそんなに甘くはないことを思い知らされたのは、
それから1週間後に起きた「すわっ、戦争か!」と
住民たちを恐怖のどん底に陥れた大事件だった。(以下次回)
※この「私の復帰前史」は、カメラマンとして復帰までの足かけ5年、
沖縄に暮らした私の実感的沖縄体験報告です。
※シリーズタイトル「やまと世から50年」の「やまと世(ゆー)」とは、
沖縄では日常語で、絶えず外国に従属させられてきた
「世代わり」の歴史に根ざしている。復帰前の沖縄は「アメリカ世」だった。