Re-Set by yoshioka ko

やまと世から50年~私の沖縄復帰前史 ④~

▶また落ちたのか!
 
昨晩(6月2日)遅く、沖縄うるま市・津堅島の民家近くに
米軍ヘリが不時着したというニュースに、
「またか!」といまも変わらぬ危険との同居を余儀なくされている状況に
怒りを感じながら、書く。
 
▶53年前の「その瞬間」
 
「その瞬間、私はもはや報道人であることを忘れてしまった。
気がついたときには、弾薬庫が燃えた、弾薬庫が燃えた、と
大声をはりあげて走りまわっていた」
 
こう書いたのは『沖縄タイムス』嘉手納支局の玉城真幸支局長。
 
「その瞬間」とは、53年前の1968年11月9日午前4時15分。
南ヴェトナム爆撃に発進しようとしていた弾薬満載の米戦略爆撃機B52が、
嘉手納基地滑走路に墜落・爆発炎上したときのことを指す。
 
「その瞬間」の住民の姿を捉えた玉城記者撮影の写真(『アサヒグラフ』より)
 
私は、玉城真幸記者からの電話で事故を知った。
 
「大変だよ、B52が爆発したんだ!」
「どこでですか?」
「軍用道路16号線沿いの嘉手納基地滑走路上だ!」
 
玉城記者のうわずった声が頭の中で覚めやらないまま、
私はタクシーを捕まえて現場に向かった。
 
事故からすでに4時間あまりが経っていた。
 
軍用道路16号線というのは、
私が沖縄到着早々にその道路脇に立って飛び立つB52を撮り、
ついでに知花弾薬庫に向けてもう一枚写真を撮った直後に
突然現れたMPにフィルムを没収されかかった道路だった。
 
「基地にカメラを向けるときはわが身を隠すべし。
2度と同じ過ちは繰り返すまい」
 
車の中で、私はそう心に誓った。
 
タクシーが止まったのは那覇から続く軍用1号線という幹線道路から分かれて
16号線に入る嘉手納ロータリー付近だった。
フロントガラス越しには、道を遮るようにMPカーと軍用トラックが横付けされ、
その前に立つ武装した数人の憲兵が見えた。
 
タクシーを降りた私は住宅街を小走りに駆け抜け、
身を隠せるところで事故現場が見渡せる場所を確保した。
そのとき撮った一枚が、一人の軍人が現場を見つめる写真だった。
 
 
遠景ではあるが、それでも滑走路が抉られ、墜落・爆発炎上したことが分かる。
 
▶飛び散るガラスの破片
 
爆風のすさまじさは道路を挟んだ屋良小学校校長室の机に散乱する
ガラスの破片を見て即座に理解した。
 
 
「戦争だ!」と住民たちは思わず口走ったというが、
その気持ちをまさに代弁しているのが、
恐怖に佇む老婦人の「その瞬間」を撮った玉城真幸記者の写真だった。
 
▶「交通事故のようなもの」と基地司令官は言い放った
 
だが、事故から4日目、住民たちの恐怖を逆なでするかのように
嘉手納基地司令官はこんな言葉を言い放った。
 
「これは交通事故のようなものだ」
 
軍事支配はもうごめんだ、と初の公選主席選挙で、
「即時無条件全面復帰」を訴えた屋良朝苗さんが選ばれてから
まだ1週間しか経っていない。
 
そんな住民たちの熱い復帰への思いを断ち切るかのように、
B52墜落・爆発炎上事故が起きるやいなや、間髪を入れずに生活道路を封鎖、
そして、基地司令官のこの発言。
 
ここには、
強大な軍事権力の前になす術もなく佇むしかない沖縄の現実があった。
(この稿続く)
 
 
※この「私の復帰前史」は、カメラマンとして復帰までの足かけ5年、
沖縄に暮らした私の実感的沖縄体験報告です。
 
※シリーズタイトル「やまと世から50年」の「やまと世(ゆー)」とは、
沖縄では日常語で、絶えず外国に従属させられてきた
「世代わり」の歴史に根ざしている。復帰前の沖縄は「アメリカ世」だった。

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