Bー52爆発炎上事故をきっかけに「基地撤去」の声はゼネスト要求にまで高まった
▶分水嶺となった「ゼネスト回避」
あの日、予定通り「ゼネスト」が行われていれば、歴史は変わっただろうか?
その答えは、私は「わからない」。
ただ、ひとつだけ、その後現実に起きたことをもとに推論するとすれば、
誕生したばかりの「即時無条件全面復帰」を求める屋良朝苗主席を「かばう」あまり、
施政権者でもない日本政府と妥協してしまったことが、
のちのち復帰に求める住民たちのコンセンサスに大きな影響を与えたのではないか、
と思ったことだった。
▶「クビ」を賭けた基地労働者
ともあれ、2.4ゼネストは、
B52の墜落・爆発炎上という大事故をきっかけに作られた
「命を守る県民共闘会議」主導でスタートした。
参加団体は復帰運動の中心的担い手だった教職員会を筆頭に、
雇用では最大の場でもあった米軍基地労働者の組合「全軍労」など140団体。
ことに、5万以上を数えた基地労働者にとっては、
「B52撤去」や「基地撤去」を叫ぶことは自らの職場を否定しかねなかったし、
何よりも、スト権・団体交渉権など
全ての権利が大幅に制約されていた中でのゼネスト参加は、
まさに生活を賭けての決断だった。
ほとんど全ての社会的な活動をストップさせてしまうゼネスト。
言葉を換えていうならば、沖縄では自らのクビと引き換える覚悟がなければできない話だった。
そこまで決意したはずの2.4ゼネスト。だが、結局は不発に終わった。
▶戸惑ったのは「日本政府」そして・・・
その背後には日本政府からの圧力があった。
『ゼネストは、復帰を遅らせることになる!』
『B52撤去の見通しはある・・・』
恫喝と、甘言。
屋良主席は、結局これらの言葉を呑んだ。
そして、共闘会議に対して中止を要請。ゼネストは直前で回避された。
不発となった1969年2月4日、それでも散発的にストは行われた。
私は、ストに参加した人々の表情を撮影しながら、思った。
「スト回避は、これまで一枚岩のように見えた復帰へのうねりに、
復帰のあり方を新たに問う一石となるのではないか・・・」と。
上記の写真は、B52撤去を掲げたゼネストが不発に終わった日、
高校生たちは全校討論会を開いたり街頭に出た。単一労組はストで意思表示した。
※この「私の復帰前史」は、カメラマンとして復帰までの足かけ5年、
沖縄に暮らした私の実感的沖縄体験報告です。
※シリーズタイトル「やまと世から50年」の「やまと世(ゆー)」とは、沖縄では日常語で、
絶えず外国に従属させられてきた「世代わり」の歴史に根ざしている。
復帰前の沖縄は「アメリカ世」だった。