《以下引用》
「北朝鮮北東部の咸鏡北道花台郡のミサイル実験場周辺で長距離弾道ミサイル「テポドン」発射準備とみられる動きが活発化していることが19日、分かった。麻生太郎外相は同日の衆院外務委員会で「一連の動きをかなり前から知っている」と述べた一方で「液体燃料の注入は開始されていない」として、現時点で発射準備には入っていないとの認識を示した。(中略)今回の動きは、射程が3500-6000キロとされるテポドン2号の可能性が高いとみられる」(5月19日『日刊スポーツ』)《引用ここまで》
軍事的な示威行動には違いないが、しかしこのテポドンがもし改良型だとすれば、射程は1万5000キロと飛躍的に延びる。これはアメリカ本国にまで到達する距離だけに、核問題をめぐる6カ国協議再開のめどが立たない中で、アメリカをけん制する動きである可能性もある。
なぜ「先軍政治」を掲げるのか。そこには北朝鮮なりの南北統一像が描かれているからである。それは具体的にはどういう内容のものなのだろうか?いうまでもなく、大物亡命者といわれた黄長氏が知っているはずである。だが私はまだ黄長氏には会えないでいた。
ということで、今日は『黄長はかく語りき』の第2回目。金泳三元大統領を訪ねたところから始まる。
□金泳三元大統領
黄長氏の亡命をめぐって、中国の江沢民(当時)主席やフィリピンのラモス大統領(当時)らと電話会談を行ったときの「秘話」を、金泳三氏は語り始めた。
「黄長さんを北に送り返したら、あなたは大きな非難を浴びるだろう、(そればかりか)黄さんは必ず殺される。そういうこともわかりながら、あなたはあの人を北に返したとなれば、私との関係ももうお終いだとと。前に会ったとき(あなたは)私とは仲良く兄弟のようにやっていきましょうといったじゃないですか、と。そこまでいいました」
ソウル市内にある私邸で精一杯の日本語を使いながら金泳三元大統領(注⑤)は、自分が大統領時代に起きた黄長氏亡命事件で中国首脳と電話でどのような駆け引きをしたのか、について語り始めた。
「あなた」とは江沢民主席(当時)を指す。
亡命事件は黄長氏が日本での日程を終え、次の経由地であった北京で起きた。彼は公私ともに信頼を寄せてきた金徳弘氏と共に韓国大使館に駆け込んだのだ(1997年2月12日午前11時30分)。
「江沢民はね、しかし韓国に直接送ることは難しいと、(そういうから)だったらフィリピンに送って下さいと。私は(すぐさま)ラモス大統領(当時)と話し、オーケーをもらいましたよ。しかしラモスはいいました。フィリピンは北と国交がある、共産党がうるさいからあまり長くいられると困る事態になる、だから早く解決をしてくれ、というんだ」
北朝鮮を刺激したくない中国とすれば、できるだけ政治色を排しながら穏便に事を運びたい。そのためには黄長氏をフィリピン経由で韓国に送るにしても、ある程度の時間稼ぎをしておきたかった。
一方、亡命先に選ばれた韓国からみれば、北朝鮮の大物幹部の亡命には内心沸き立つものがあった。なんといってもこの時期、朝鮮半島の安定を目指して米韓が提唱した南北朝鮮と米中による4カ国会談も、食糧援助をめぐる思惑の違いから足踏み状態にあったし、南北関係そのものも冷え込んだままだったからだ。
どうしたら中国の面子を立てることができるか。韓中双方で合意に達した答えが、1ヶ月間フィリピンに留め置いたのちに韓国に送るという案だった。
「電話でのラモスは困ったような感じでした。中国とは1ヶ月程度はと約束してましたから、私はなんとしても1ヶ月は待ってくれとお願いしたんですよ」
3月18日、黄長氏らは北京を離れマニラに向かった。そしてほぼ1ヶ月後の4月20日、ようやく念願の韓国・金浦国際空港(当時)に降り立ったのだった。
□黄長氏の手記
〈私がすべてを捨て、南へ向かうことを決意するようになったことを知って、家族を始め、皆は、私が気がおかしくなったと評価するだろう。(中略)しかし私だけがおかしくなったというのだろうか。
民族が分裂して半世紀を超え、祖国統一を叫びながら、互いを敵と見なし、はなはだしくは、相手側を火の海(注⑥)にすると叫んでいるのを、どうして正常な精神を持った人たちの行動と見られるのだろうか。(中略)悩みに悩んで、結局、わが民族を不幸から救い出す問題をより広く話し合いたい気持ちから、北を離れ、南の人たちと協議してみようと決心した。
私は、自分の運命については時代の流れに任せ、私の行動に対する評価は、歴史にゆだねたい〉(在中国韓国大使館へ亡命を求めた直後に書かれたという黄長氏の手記。『朝日新聞』1997年2月14日付朝刊)
黄長氏が韓国に亡命を果たしたこの時期、金泳三元大統領に残されていた実質的な任期は10ヶ月ほどだった。しかも入国後の国家安全企画部(韓国情報機関)の取り調べなどの期間を考えれば、元大統領が直接黄長氏に会うことなどは不可能だった。
政治的な行為と思われるのもいやだったし、なんといっても大統領選挙が間近に迫ってきていたからだった、という。
だが、新しい大統領が執権したあとも面会は叶わなかった。
「(大統領)任期が終わったあとにと思ったが、金大中は会わせまいとした。(ようやく4年後に)廬武鉉大統領が当選したときに会えることになった。それが2003年の1月だった」(以下第3回に続く)
(注⑤)金泳三元大統領・・・1993年2月から98年2月まで第14代韓国大統領。初めての文民大統領として韓国の民主化に貢献したが、政権末期には息子の汚職事件などに翻弄された。
(注⑥)火の海・・・1993~94年の核危機の際、板門店で行われた南北首脳会談で、北朝鮮代表は「ここからソウルは遠くない。戦争になればソウルは火の海になる」と発言、南北対話を決裂させた。結局カーター元米大統領の訪朝によって対話が動き出した結果、米朝枠組み合意で危機は回避された。
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