Re-Set by yoshioka ko

やまと世から50年~私の沖縄復帰前史⑤~

▶会場は恐怖と怒りで満ちていた
 
嘉手納村内で開かれた「B-52撤去」の集会(『アサヒグラフ』掲載写真から)
 
こんなにも恐怖と怒りに満ちた集会やデモを見たのは初めてだった。
 
B52戦略爆撃機が墜落・爆発炎上した日の夜、
嘉手納中学校の校庭に集まった多くの村民たちは、
「逃げ場がない」ことにあらためて衝撃を受けたかのように表情は沈痛で、
そしてまた基地との共存を余儀なくされることの意味を、
あらためて実感しているかのように私には思えた。
 
その沈痛は、時間と共に次第に
「B52即時撤去」「基地撤去」という怒りのエネルギーとなって、
ふつふつと煮えたぎっていくのも感じられた。
 
機動隊に阻まれながらも口々に抗議の叫びを上げる村民
 
▶事故後もヴェトナム空爆に飛び立つ「B-52」戦略爆撃機
 
事故から4日目には南ヴェトナム爆撃行に離陸したB52
 
事故が起きる1週間前、米軍事支配にノーを突きつけ、
「即時無条件全面復帰」を掲げる公選主席が誕生したばかりの沖縄。
 
「基地がある限り、この種の災害は必ず起こる。
基地を容認する限り、事故防止の要求は迫力を持たない!」
 
急速に、このような声が高まる中で、
「交通事故のようなものだ」と抗議に向かった住民代表団にうそぶいた
基地司令官の言葉を追認するかのように、
嘉手納基地では事故から4日目、南ヴェトナム爆撃に向かうB52が飛び立つなど、
軍事支配の威力を見せつけた。
 
前述(前回④)した『沖縄タイムス』嘉手納支局の玉城真幸支局長は、
『アサヒグラフ』に寄せた記事の最後をこう結んでいる。
 
「この現実が、いつまでも十字架を背負わされた沖縄の現実だ、という言葉だけで、
また人々の耳を通り抜けはしないだろうか」
 
敢えて断る必要もないのだが、
この場合「人々」とは、施政権が及ばないことをいいことに、
見て見ぬ振りをしていた当時の日本政府であり、
そこに暮らしている(私を含めた)日本人を指していた。
 
だが、あらためてこの記事を読み直してみるとき、
事故から半世紀以上が経つというのに、玉城真幸記者が書いた「この現実」が、
沖縄の十字架のごとくいまに至るまで放置されてきていることには、
私としても怒りを禁じ得ない。
 
集会後、参加者は抗議のデモを村内で行った(いずれも1968年11月19日夜撮影)
 
※この「私の復帰前史」は、カメラマンとして復帰までの足かけ5年、
沖縄に暮らした私の実感的沖縄体験報告です。
 
※シリーズタイトル「やまと世から50年」の「やまと世(ゆー)」とは、
沖縄では日常語で、絶えず外国に従属させられてきた「世代わり」の歴史に
根ざしている。復帰前の沖縄は「アメリカ世」だった。

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