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ひきこもりの日常

現在、きまぐれ不定期です。

夏目漱石 『行人(こうじん)』

2006-07-27 04:15:43 | 本・新聞・雑誌
夫婦関係や人間関係に悩む兄を、兄との関係が上手くいかない弟を通して書かれています。1年前にも読んだことがあるのですが、今回たまたま読み返してみました。内容はすっかり忘れていまして、今回はこう思いました。

このお兄さんは大学の先生で、多分哲学や美学の方面を専門にされていると思うのですが、対象に自分がこう!と思えるものしか納得ができません。この明治の時代のいわゆる亭主関白型ではない奥さんとは波長が合いません。それで貞操を確かめるために、自分の弟に奥さんと一泊するように命じます。

一見すると奇行に写るのですが、その兄なりの基準で実験してみたのでしょう。私には分からない。それより印象に残ったのは、『まず絶対を意識して、それから其絶対が相対に変る刹那を捕えて、そこに二つの統一を見出す』(漱石全集 325ページ下段)兄が意識する仕方でした。正に弁証法そのものですね。可哀想なのは日常生活にも自意識が強すぎて、それと人の波長が合わないと苦痛に満ちた暮らしになってしまうのは。

読んでみて私の今の問いは、そんなバランスを意識することなく、自意識で暮らしている(いける)人はこんな人やないかな、ということです。例えば『ひきこもり』といわれる人を目にすることが多いのですが、手を洗うのは小便でさえ石鹸でないと駄目だと言う人は所謂『強迫神経症』で片付けられます。その人にとっては絶対的方法なのでしょう。『ひきこもり』でなくても、『すいません』と挨拶のように言っている人や、精神論で物事をやたら片付ける人や、その人がやってきたやり方を金科玉条のように変えることを許さない人。。。。。と書くと私の自意識が強すぎるでしょうか。

でも最も気になるのは、お金との関係ですね。相場を手を出して1年足らずで損ばかりでしたから。お金に支配されすぎです。ゲンキンなものですね。さて1ヶ月ぶりに大阪に帰ってネットに触れましたが、また近畿の端へ明日は戻ろうと思います。その前に行けたら天王寺のプラド美術館展に行ってこよう。(←暑いし、10月半ばまでやっているので、また今度にしようと思います。今年はじめて美術館に行きます。時間はあっても心に余裕がないとなかなか行く気にもならないのかしら?)

日本改造計画(小沢一郎)

2006-04-17 11:26:07 | 本・新聞・雑誌
Espresso Diary@信州松本で取り上げられているので、読んでみました。

以前小沢氏のメモをしてみましたが(こちら)、本からはNEET、ひきこもり、フリーターを邪険にしないのでは無いと思いました。
小沢氏の問題提起は今でもそのまま当てはまるように思います。三部からなり、内政、外交、国民生活からなっています。国民生活では自由を提案しています。実際に今13年経ってあまり自由にはなっていないと思いますが、その問題提起は今でも当てはまると思います。予測が当たっているのは凄い。

光ファイバー(インターネット)で便利になる、これは多分アメリカからの流れでスーパーハイウェイが出来ました。当時から続く地域の希薄化、高齢者は家族が施設任せは多いと思います。その通りになってます。でも解決できる道は外圧以外で自発的に今も難しそうです。ありきたりなコメントですが。

『子供は勉強、大人は仕事のしすぎ。老人はすることのなさすぎ。』と書かれてました。これもそんなに変わっていない、多分。ひきこもりの出現まで予想はありませんでしたけれど、ひきこもりも個人の責で勝手にひきこもっている人は構わないと思いますがそうではないひきこもり、結局やることのなさすぎは私も含め多いと思うので、その点をひきこもり論から無視して欲しくないと思います。そして老人より若いし(技術的な経験は置いといて)、時間もある(お金はありませんが)ひきこもりが何か発信出来ればと思うのですが、ひきこもり自身なんとか社会的に適応させようと必死に思わざるを得ない人も環境も少なからず存在すると思うので、その点フランスやかつての学生運動とは違う点。運動だけが発信では無いとしても。
なんで? やはり孤立しているのが原因であり結果なのか。

つまりこの型しかないような環境。
あまり愚痴ばかり言っていてもそれを昇華することが無いので、ひとまずこれは置いておいておきますね。

10年経っても古さを感じない本を別にすれば、正論だけをイイコト言っている政党はあるし、実際には今までどおり諦め感が少しマシになった程度のように感じるくらい。お金の流れも格差は出るとしても、やることは無いというのは高齢者でなくても辛い。地域や人とのつながりが薄い、無いというのも辛い。高齢者はずっと家にいることが多いとしたら別に携帯電話は必要が無いとしても、パソコンを使いこなせないならボーとテレビを見るか、心のオアシス・ラジオ深夜便の人気がますます高まる。(私も2時台からは最近よく聞いています。)

高齢者皆が潤っているわけではないから、実際にお金が高齢者に段々と回らなくなると、そういう時に地域のつながりを10年前から説いている小沢氏が実際に実現が出来るとなると力強いと私は感じるのですが、ロマンチストでしょうかねえ?

学校と会社、切っても切れない関係 (大竹文雄の引用)

2006-03-26 15:04:03 | 本・新聞・雑誌
(追記)このブログ内容と、考えが変わりました。(こちら
大竹氏にはど素人が失礼なことを書いていたと思います。


日曜だけ気が向いたら買ってくる日経新聞。23ページから。

『若年層の格差巡り議論』という題で、大竹文雄氏が、本田由紀氏などの各々の経済文人から引用されています。フリーターが企業から敬遠される理由の一つとして、著者と同僚の池田新介氏を引用しています。

『遠い将来のことであれば辛抱強い選択が出来るのに、直近のことについてはせっかちになってしまう』
要するに夏休みの宿題をズルズルと先延ばしにするように怠けとる!っていう意味でしょうね。次に池田氏の引用から、大竹氏はこう解釈しています。

フリーターという自由な仕事のスタイルだとどうしても規律づけが難しい。正社員という束縛は訓練を後回しにすることを防いでいるのではないだろうか。
そこから池田氏は教育によって訓練の可能性の重要さを、指摘しています。文章からは企業への束縛という手段としてでしょうね。

そして大竹氏の纏めとしては教育の重要さに持っていきますが、それはかつての低所得者でもいい学校→いい会社に行ける、学校教育の意味合いに取れなくは無い。
私には別に教育への意見は持っていませんが、そもそもeducation という語源は『子供の資質を引き出す行為』という意味の様だから、いい会社への束縛への訓練だけを目指すのだとすれば、どうも相容れない。日本人を縛るのは学校と教育だという信州松本の齋藤さんの視点から見ると、その束縛とは違った打開策も上手から出ないかと思うのですが。