難聴のある人生を応援します @ライカブリッジ 

難聴のあるお子さん、保護者、支援者の方々に先輩社会人のロールモデル等をご紹介します。様々な選択肢、生き方があります。

社会人難聴者に学ぶ 〜みんなのヒストリー〜

 このブログの主な内容は、難聴児療育に長年携わっていた筆者が、成長して社会で社会人として活躍している難聴者についてご紹介するものです。乳幼児期に出会ったお子さんが大人になり、社会で経験してきたことについて知ることは、筆者にとって大きな学びのあるものです。難聴のわかりにくさを改めて感じることもしばしばあります。話を聞かせていただくうち、これは是非多くの方に知っていただいて、彼らの貴重な経験を活かしたいと思うようになりました。
 そして、これから成長して、学校に通い、自分の将来を考えようとする若い難聴の方々だけでなく、すでに社会で働いている方にも読んでいただき、難聴ならではの苦労だけでなく、生き方の色んな可能性についても知っていただければうれしいです。
 できるだけたくさんの生き方、働き方、考え方をご紹介することで、同じ悩みを発見するかもしれませんし、勇気を得ることも、共感できて励みになることもあるかもしれません。
   筆者は、ライカブリッジという任意団体で活動しています。ライカブリッジは、「like a bridge」(橋のように)難聴のある方々同士又は関係者同士を橋渡ししたいという気持ちで活動する任意団体です。筆者と難聴のあるお子さんを育てる保護者有志で活動しています。
2021年春から活動を始め、これまで12人の難聴のある社会人のインタビューを行い、それを録画し、zoomで共有したり、YouTubeの期間限定の配信をしたりしました。共有や配信の対象は、難聴のある小中高大生、保護者、支援者です。宣伝ややり方のアイディア、情報保障についてはライカブリッジの仲間と力を合わせてやってきました。
 <これまでのインタビュー> 
 これまで10人の社会人を紹介してきました。筆者がが幼児期に療育施設で出会った方々です。皆さん快くインタビューに応じてくださり、忙しい中、後輩たちの力になれればと協力してくださいました。
 1  37歳 看護師(中等度難聴)
 2  28歳 作業療法士(高度難聴)
 3  30歳 ウェブ制作 フリーランス(重度難聴)
 4  31歳 ろう学校教員(重度難聴)
 5  27歳 公務員(中等度〜高度難聴)
 6  28歳 劇団員(高度難聴)
 7  29歳 鉄道会社社員(高度難聴)
 8  39歳 会社員(重度難聴)
 9  31歳 歯科技工士(高度難聴)
 10 31歳 証券会社社員(中等度難聴→高度難聴) 
 11 29歳 保育園勤務経験8年 (重度難聴)
 12 46歳 手話講座講師 (高音急墜型難聴→重度難聴)

 今後もこのインタビューは続けますし、このブログにも紹介していくつもりです。社会人の紹介の他にも、たまに日々の思いなども綴りたいと思っています。
 今後、もっともっと社会に「難聴」についての理解が広がり、きこえにくさにちゃんと配慮できる仕組みが整っていくように願っています。
※ PC版では、左側に「メッセージを送る」があります。そこから筆者に個人的にメッセージが送れます。インタビュー動画がご覧になりたい場合は、メッセージから申し込んでいただければ、本人の了解を得て、申込者のアドレスに動画のURLをお送りします。どの動画か、また視聴希望の理由とアドレスを送ってください。ただし、視聴は、期間限定です。拡散せず、ご本人のみでご視聴ください。

NO.10 わたしの難聴ヒストリー⑥ (劇団員ひでさんの場合)

2024年04月09日 | 記事

ひでさん 劇団員 29歳 良聴耳80dB台 補聴器装用

 ひでさんは、ご両親がろう者のご家庭に生まれた。高度難聴だった。ひでさんが1歳代の時、他県から転居してきて埼玉県の療育施設に通い始めた。そして、母方の祖父母も他県から転居されてきた。祖父母は、きこえる方で、子どもたちの「聞く、話す」を育てるために同居を決めたのだ。妹さんが生まれたが、その後ご両親は離婚され、お母さんは、祖父母の協力を得ながら、二人のお子さんを育て上げた。ひでさんは、素直なやさしい男の子だった。妹思いでもあり、友達思いでもあった。

 ひでさんは、大人になってから、2回ほど私たちの療育施設にきて、保護者や療育者に経験談を話してくれた。ユーモアもあって話上手だった。実は、この記録は、その2回目の講演の記録である。

 1回目の講演の時は、まだ就職前で、内容的には、自分は、苦労もあったけど友達に恵まれて結構楽しくやってきました、というような内容だったが、2回目は社会に出て色々な経験をし、デフファミリーに生まれた自分のことを見つめ直したより濃い内容の話だった。2回目の講演は、1回目ほどきれいにまとまった内容ではなく、途中で「まとめきれません!」とおどけてみせる場面もあった。しかし、1回目よりももっと自分の本当の思いを伝えようとしてくれたことがわかる内容だった。私たちは、笑ったり、涙ぐんだりして話に引き込まれたのだった。

 彼は、この講演の4年後33歳の若さで癌のため亡くなった。まだ幼い息子さんを残して天国に行ってしまった。あまりにもあっけなく彼はいなくなってしまった。私は、特にこの2回目の講演に字幕をつけて期間限定でYouTubeで配信した。そして、今回、一連の他のインタビューの記録と一緒に、ここに彼の講演もご紹介することにした。今後も彼の濃い33年の人生を大切に語り継ぎたいと思う。

 

【 ひでさんのストーリー  〜講演より〜 】

<学校>

   就職前に一度、昔お世話になったこの療育施設で講演をしたが、その講演ではぼくは、自分を出していなかったかもしれない。見栄や強がる気持ちもあったかもしれない。ぼくは、長い間きこえる人の中で勝手に負い目を感じていた。ずっと相手の顔色をうかがってきた。

 療育施設を卒園した後、小、中、高とずっと地域の学校に通った。その12年間で身につけたことは、何かというと、何かおもしろい話でみんながどっと笑った時に、何がおもしろいのか分からなくても、タイミングよく一緒に笑うことだった。そして、それを深刻に考えることもなく、まーいっかいっかと流すのが自分のやり方だった。

<就職>

 高校を卒業して、障害者の職業訓練校に2年間通った後、IT企業に就職した。そこに5年勤めた。初め、「電話はできますか?」と言われ、「ぼくが難聴だとわかっている人となら電話で会話できますが、ぼくがきこえる人だと思って、わーっと喋られると難しいです。」と答えた。会社はそれを了解してくれた。そして、初めのうちは、顔を見て話をしてくれたり、わかりやすく話してくれたりしていた。しかし、ぼくが普通にしゃべるので、段々みんなそういう配慮をするのを忘れるようになった。

  会議も、自分は聞き取ることが難しいと上の人に伝えていたのに、特に配慮はなく、周知もしてくれなかった。会議の内容がわからず、その時間は眠くなるだけなので、別の仕事をしたいと申し出たが、却下された。それどころか、会議の書記を頼まれたりもした。書記を頼まれた時はさすがにびっくりしたが、あんまり「できないできない」というばかりではいけないと思って、引き受けたことがある。しかし、一人ずつ順番に発言しているうちはよいが、段々みんなが熱くなってきて、複数の人の発言が被るようになると、全くわからなくなり、分からないので寝てしまったのだった。記録はやはりできなかった。

  あとで、書記をしないで、寝ていたことを注意されて、寝てしまったことについては謝った。しかし、「ぼくは、話せるけれども、全部は聞き取れません。まさか書記を頼まれるとは思いませんでした」と抗議した。その時は、会社の人も謝ってくれたが、何度言っても、きこえないことを理解してくれず、周知もしてくれず、段々と嫌になってきたのだった。結局会社の中での自分の存在は軽く捉えられているのだと思うようになった。

<大橋さんとの出会い、そして転職>

  会社に勤めていた頃、大橋弘枝さんという聴覚障害の女優さんの舞台を見る機会があった。ダンスがとても上手で素晴らしい舞台だった。それを見てとても感銘を受けた。ろう者でも舞台に立っていいんだ!!と思った。それまで会社の中で悶々としてきた思いが一気に弾けた。そして、少しでもその舞台に関わりたいと思って、なんでもやらせて欲しいとお願いしに行った。すると、ちょうど男性のダンサーが足りないとかで、大橋さんにダンスやってみない?と言われたのだった。会社に行きながらだったが、まずダンスから練習を始めた。

  ダンスの次には役者にも挑戦した。役者は楽しかった。舞台の上で医者にも弁護士にも何にでもなれるというのがとても楽しく感じた。段々と役者をやりたいという気持ちが膨らんでくる中で、会社での自分の存在意義が感じられなくなってきていたこともあり、会社を辞めることになった。

  会社を辞める前に、人形劇団デフパペットシアターひとみという劇団を教えてもらった。その劇団は、地方回りが多く、全国を回っていた。そこの劇団員になることになった。

  ぼくは、この劇団に入る前は、手話を使うことはあまりなかった。祖父母や母は、ぼくの「聞く話す」という力を育てたいと思っていたので、あえて手話を覚えなさいとは言わなかった。自分も覚えようとは全く思っていなかった。ろう者である母も、がんばって口話を使ってくれていた。子どもの頃から、きこえない人ときこえる人がいることはわかっていたが、母とのコミュニケーションで困ったら、文字を書くことで通じていたので、特に困ってはいなかった。

 社会に出る前に、ろうの友だちに「デフファミリーなのになんであんたは喋れるの?あんたはろうなの?難聴なの?」ときかれた。ぼくが「難聴」と答えると、チェッという顔をして離れていく友だちが何人もいた。それを母に相談すると、「あなたが自分を難聴と思うなら、それでいいじゃない。離れていかない友だちを大事にすればいい」と言われた。確かに、ろうの友だちの中には、「おまえ、しゃべれるの?じゃ通訳してよ。」と頼んでくれる友だちもいた。それで、広く浅くではなく、狭く深い友だちづきあいをすることにした。

 劇団には、口も動かさず、早い手話(日本手話)でコミュニケーションする50代のろうの人がいた。一方で、声と共に手話(日本語対応手話)を使う人もいて、それぞれが会話をする時には、同じ聴覚障害者なのに、通訳が必要だった。そういう色々な人と毎日付き合っているうちに、段々とぼくも手話を覚えてきて、声なしの早い手話(日本手話)もできるようになった。(ひでさんが劇団でろう者と難聴者、聴者の橋渡しとして働く姿は、NHKのハートネットTV、または、その前身の番組でも紹介されたことがある。)

( ※ 注  日本手話 →  ろう者の伝統的手話、日本語対応手話 →   日本語に対応した手話  両者は、別々の文法を持つ異なる言語。)

<母とぼく>

  ぼくが、家でその声なしの手話(日本手話)を使った時は、母は驚いていた。しかし、同時にとてもうれしそうな顔をしていた。その時初めて、ぼくは「あ、母は、今まではぼくのために、使いたかった手話を、あえて使わないで接してくれていたんだな」と気づいたのだった。ぼくは、母に尋ねた。「ぼくが(日本)手話を使うことで、お母さんの今までの何年もの間の苦労が無駄になると思わない?」すると母は、「それはあなたが決めることだから、何とも思わないよ。」と言ってくれた。元々仲はよかったが、手話でやりとりすることで、さらに関係が深まった。母とは手話で、祖父母とは口話で話すようになった。

今、仕事でろう学校に行くこともある。最近のろう学校は、人工内耳の子どもが増えてきて、ろう学校でも口話の子どもが増えていてびっくりしている。同時に少し「さみしいな」とも思う。母の時代は、ろう学校で手話は禁止されていたので、母たちは学校ではがんばって口話を使い、家に帰ったり、友だち同士では手話を使っていた。それが段々ろう学校でも手話を使っていいんだよというふうに変わったのに、今度は人工内耳で口話が主流になっていて、なんだか不思議な気がする。手話か口話かは、大人が決める。どっちじゃなきゃダメということはない・・・。ぼくはどっちでもいい・・・。ただ、母にはすごく感謝している。(ここで時計を見て、時間が押していることに気づき、あわててどうしても触れておきたいという祖父の話に移った。)

<祖父のこと>

 母がろう者だったので、他県から祖父母が孫と一緒に暮らすために来てくれた。ぼくは初めは祖父母と一緒に暮らせることを喜んでいたが、ぼくが小学校に上がったとたん、祖父は厳しくなった。ぼくは、ぼくが何か悪いことをしたから祖父に嫌われたんだと思った。

 祖父はことばの教室にも来てくれて、そこで教え方をメモして、家で訓練した。学校から帰宅すると、遊びに行かせてもらえず、家で勉強させられた。50音を一つずつ発音させられたり、いろんなことを教えられた。間違えるとげんこつが飛んできて、それがとても痛かった。小学校1年から3年までは訓練され、間違えるとたたかれるという体育の先生と生徒みたいな関係だった。

 ぼくは、小、中とぼくのことをよくわかってくれる友だちのいる地域の学校に通った。そして高校は公立の高校に進んだ。高校では、知らない友だちばかりの環境になった。高校に入った時、友だちに、「おまえ、補聴器はずしたらきこえないんだろ?だけどそんなにしゃべれるなんてすごいなおまえ。」と言われた。その時初めて祖父があんなに厳しく訓練してくれたことの意味―きこえる人と対等にいられるようにーに気づいた。それで、学校から帰って、「今日学校で友だちにすごく褒められた。それはおかあさんやおじいちゃんのおかげだと思う」と話をした。すると祖父は、「本当はよくある孫とおじいちゃんの関係でいたかった。だけど、おまえは父親がいないからその代わりをするのはおれしかいないだろ?だからしつけも厳しくしたし、ことばの訓練も本当は遊ばせてやりたかったけど、社会に出た時に困らせたくなかったからやったんだ。お母さんが社会に出たときにすごく苦労したから、それもあってやったんだ」と語って、初めて涙した。その時は、ぼくも一緒に泣いた。それからは、普通のおじいちゃんと孫の関係で暮らした。祖父は、3年前に亡くなった。

 ぼくは総じて環境に恵まれていたと思う。学校で特にいじめに遭ったこともないし、幼、小、中、高と色々な方々にお世話になり、ありがたいなと思っている。

 

< あとがき >

 講演は少し時間が足りず、最後は、少々無理やりまとめて終了となった。本当は、ひでさんは、もっともっと言いたいことがあったのではないかなと思っている。もう少し突っ込んで話をきいておけばよかったと今になって思う。

 

ここで少し歴史的な背景を説明する。

 

<ひでさんのお母さんが学校生活を送った時代> 

 ひでさんのお母さんが育った時代は、日本の多くのろう学校で手話が禁止されていた時代だった。その理由は、ろうであれ、「日本語」を学ぶべきだという当時の「文部省」の方針だった。お母さんは、高度難聴にも関わらず、ご両親がきこえる方だったので、学校でも家でも口話を求められた。しかし、充分な補聴もされないままの口話教育には限界があり、コミュニケーションの手段にはなり得なかった。本当は、「言語習得」だけでなく、周りの人たちと「コミュニケーション」がとれる手段が絶対的に必要だったのに、そこが見落とされていた。ところがどっこい子どもたちは逞しい。ひでさんのお母さんたちは、先生の見ていないところでは、子ども同士で手話を身につけていった。上の子ども達が下の子どもたちに伝えたところもあっただろうし、デフファミリーの子どもたちは、家庭で手話を自然に学んでいたのだろう。結局お母さんたちは、口話よりも、ろう者の言語である「日本手話」を身につけた。

 

<ひでさんたちが育った時代> 

 補聴技術が進歩して、聴覚を活用することでの聴覚口話教育がそれまでにない成果を上げるようになっていた。ろう学校では、手話は禁止はされることはなかったが、使用されていたのは、口話(音声)と同時に使えるキュードスピーチ(母音や子音を表す手指サイン)とか日本語対応手話などだった。

 ひでさんの時代には、補聴効果が一定以上あり、幼児期の対応をしっかり行えば、1対1の会話は実現可能になっていた。しかし、「聴覚活用」を目指して、耳を鍛錬するという観点から、手話を遠ざける傾向があった。ひでさんの家庭でも、音声での交信が日常的にできるようにきこえる祖父母との同居を選んだのだった。

 一方で、まだ世の中には、情報保障という概念が浸透しておらず、聴覚口話で育った子どもたちは、きこえる子どもたちの「集団」の中で、苦労することが多かった。集団では、雑音の中で様々な音が飛び交い、後ろから横からの複数の音声など、聞き取れないことが山ほどあった。その中で、まわりの空気を読んできこえるフリを身につける子どもが多かったし、どんどん自己不全感を募らせることが多かったのである。ひでさんたちは、お母さんとは別のところで、お母さんとは異なる苦労を体験したと言ってよい。

 

<現在> 

 

 現在は、補聴に関しても、デジタル補聴器、人工内耳の技術も進んできており、補聴援助システムの性能も向上している。難聴の発見も早まり、人工内耳の手術年齢も早まり、両耳人工内耳の効果も成果を挙げている。もちろん課題も少なくないが、高度重度難聴の聴覚活用は以前とは革命的に変化してきているのは事実である。

 また、情報保障という概念が充分と言えないまでも、以前よりは浸透してきているし、合理的配慮は、法的にも正当に要求できるものとなっている。ノートテイク、手話、音声文字変換ツールなどのサポート手段も選択肢が広がってきている。当事者自身がしっかりと自分に合った支援を求める必要があるが、今後もこの領域が進展してほしいところである。

 一方で、「ろう」として生きることを主体的に選択する場合もあり、その生き方も尊重されるようになってきている。日本手話で育てる学校の数が決定的に少なく、まだ教育環境が整備されているとは言い難いが、少なくともそういう選択肢もあるべきだということは、認識されるようになってきている。多様性を尊重する時代では、当然ろうとして生きる道も保障されなければならないが日本ではまだ未整備と言わなければならない。

 

 

 このように時代の推移をみると、お母さんは、きこえないのに口話を強いられるという理不尽な目に遭っている。ひでさんは、話せるようになったが、やはり聞き取りには限界があることを充分には理解されないまま集団生活を送った。私たちもひでさんの時代に療育施設でその時代の色に染って仕事をしていたなと思う。おそらくお母さんは、子ども達に「社会で困らないように」より多くの選択肢を持って欲しかったのだと思うし、私たちもそう思っていた。あの頃、私たちは、聴覚活用し、日本語を習得した子どもたちは、きこえる子どもたちの集団の中でのコミュニケーションではどのような経験をするかについての充分な想像力を持っていなかったなとつくづく思う。

「社会で困らないように」の「社会」そのものが変わっていかなければならないこと、そしてことばの発達が保障されるだけでなく、親子の、家族のコミュニケーションが豊かなものであること、集団の中で充分に情報保障されて、個々の子どもたちの尊厳が守られること等々、今後も課題はたくさんある。

 

 ひでさんが「まーいっかいっか」の生き方をやめて、自分の尊厳に目覚めた大きなきっかけは、大橋弘枝さんというロールモデルに出会ったことだろう。きこえにくさを理解しようとしない会社に見切りをつけ、自分でも舞台に上がっていいんだ!と一歩踏み出した。空気を読んで遠慮して生きるのをやめたのだ。

 しかし、劇団の活動の中で、手話か口話か、ろうか難聴かの二者択一ではなく、「どっちでもいい」または「どっちも受け入れる」ところに彼のアイデンティティは行き着いたのではないかと思う。その辺りはもう少し話をしてほしいところだった。

 そして、自分に深い愛情を注いでくれた母や祖父への感謝で講演は終わったのだった。

 

<大橋弘枝さんのこと>

 大橋弘枝さん(1971〜)は、「もう声なんかいらないと思った」(出窓社)の著者で、聴覚障害のダンサー、女優である。ひでさんより10歳以上年上だが、子ども時代は、口話を学び、やはりきこえる人たちの中で、理不尽な目に遭ってきた方である。この本を読むと、ひでさんとは異なる個性だとしても、口話という選択肢しかない苦しみや葛藤、そしてそれを理解しなかった社会を知ることができる。彼女も紆余曲折を経て、この本の最後で、ろうか難聴かの問いに「私は私!」と言い切った。きっと大切なことは、どちらかを選択することではないのだ。


NO.9 わたしの難聴ヒストリー⑤(公務員たかさんの場合)

2024年03月21日 | 記事

たかさん 公務員 27歳 右80dB 左70dB   補聴器装用

 

3歳で難聴を診断されて、療育施設の3歳児クラスから参加した。右が80dB以上、左が70dB程度の聴力だった。筆者は、就学までの3年間個別とグループの両方を担当した。おとなしくて、ニコニコしていて、やさしい感じの男の子だった。どちらかというと争いごとは好きではなかった。聴力検査中に検査音に耳を傾けているうちに寝そうになってしまい、あわててしまったことを覚えている。そんな小さくて可愛かったたかさんも社会人となって私にその経験談を語ってくれた。

 

【 たかさんのストーリー 】

<幼児期〜小学校時代>

 療育施設での思い出は、ひな祭りでお雛様の衣装を着たこと、節分の豆まきのこと、秋には栗のむき方を教えてもらったことなどどちらかというと、行事の思い出が多い。グループでは、「エルマーのぼうけん」の劇ごっこ、太鼓の発表会も印象に残っている。

 自分の難聴を意識したのは、幼児期5歳ころだった。療育施設に母と通っていたが、その帰り道、JRの駅で行き交う人たちが補聴器をしていないことにふと気づいた。その時、自分はきこえないから補聴器をかけているんだなと思った。それが初めて難聴を自覚した時だった。

 幼い頃はアナログ補聴器だったが、のちにデジタル補聴器にして、かなりきこえがよくなったと感じている。

 

 小学校1年生では、母がクラスメートや保護者に配布するための資料を作ってくれて、クラスの子ども、保護者に難聴についての理解をお願いしてくれた。学校は椅子の足にテニスボールをつけてくれた。また、担任の先生が工夫して、「静かにしてください」と「もう一回言ってください」という旗を作ってくれた。それを掲げることで、クラスがうるさい時やきこえなかった時に意思表示をした。結構役に立った。高学年になると使わなくなった。多分恥かしくなったのだろう。いじめられたことはない。

 小学校1年生の初めの頃は、先生の話を聞かなければならないということを理解していなくて、算数も足し算が理解できなかったことを覚えている。また、小学校5年生の時に「明日は水筒を持ってきなさい」という指示をききもらして、一人だけ水筒がないという嫌な思いをしたこともあった。

 友達の雑談には全くついていけなかった。特定の2、3人の友達を中心に会話をしていた。その友達は慣れている友達だったので、聞き取りやすかったし、慣れている人との2、3人での会話なら大丈夫だった。あの人と話したいなーというのはあったけど、ハナから諦めていた。今はそんなことはないが。

<中学校時代>

 部活は卓球部に入った。小学校時代からの長い付き合いの友達と一緒にいた。話が聞き取れない時、何度も聞き返しやすい気心知れた友達だった。全体的に目立つこともなく、無難に過ごしていた。

 中1の時から英語のリスニングがあったが、聞き取れなかった。母が先生にかけ合って、別室でラジカセで受けさせてもらったが、それでも聞き取れなかった。高校受験の時は、私立だったこともあり、リスニング以外のものに換えてもらった。授業では、板書を書き写していると先生の話を聞くことがおろそかになった。「聞くだけ」、「書くだけ」ならいいが、何かしながら聞くと言うことができなかった。聞いたことをメモするというのも難しかった。ふつうの子達に負けたくないという思いはあったが、自分に苦手なことがあることに気づくうちに、中学生くらいから「自分はこんなもんだな」という諦めの気持ちがあった。

 しかし、兄がいつも自分のよいモデルになっていたように思う。兄には難聴はないが、自分の経験から、勉強のことや色々なことについてアドバイスしてくれた。兄のあとに続けば間違いないと思っていた。受験勉強も兄をモデルにがんばった。

<高校時代>

 高校は私立の進学校(男子校)に入学。地元の高校ではなかったので、誰も自分のことを知らず、一から友達を作らなければならず苦労した。その頃から、自分には難聴があることは、言わないとわかってもらえないと思って言うようになった。初めは恥ずかしい思いもあったが、補聴器を見せることでなんとなくわかってもらうのではなく、はっきり言う方を選んだ。

 教室で「ぼっちの子」(ひとりぼっちの子)に片っ端から話しかけた。部活(バドミントン)でもぼっちだったので、やめたかったけど、3ヶ月我慢しようと思って続けていたら、友達ができた。

 情報保障は特になかったし、学校には特に求めなかった。特別な対応をされることに拒否感もあった。それで、大事な情報を取り逃すこともあったが、洞察力のようなものがついたかもしれない。後で、高校を選ぶ時に情報保障があるところを選ぶ人がいるということを知って、目から鱗な思いだった。

 

<大学時代>

 私立の大学の政治経済学部に入学、男子校であった高校と違って共学で、そう言う意味では楽しかった。兄や母の勧めもあって、文化祭の実行委員になった。その活動で友人もできたし、大学生活も充実したものになった。

  大学生活では、LINEという手段があったので、LINEがつながれば、文字でのやり取りを通して関係を築くこともできた。

ただ、難聴については、必ずしも友人の理解があったわけではない。もちろん初めて会った時には、「私には難聴があります。何回も聞き直すこともありますし、後ろからの話しかけに気づかないこともありますがよろしくお願いします。」とは言うようにしていた。とは言っても、そういう自己紹介をしたところで、その後ずっとわかってくれるわけではない。いちいち説明するのは自分としてはやりたくなかった。

むしろ自分がうまく立ち回ることを学んだかもしれない。場の空気を読んで、周りに合わせることでその場をやり過ごすようなこともあった。一気飲みとかやりたくないことでも要求されたことに合わせるためにやったこともある。そういうことはあまり思い出したくないし言いたくない思い出だが、ひとつの処世術だったと思う。

大学の途中で高卒資格の公務員試験を受けた。障害枠で受けた。難しいときいていたが、受かってしまった。これから4年生になるというところだった。3年生までの単位は全て習得済みで、あと卒論を残すのみという状況だった。大学に相談したら、就職しつつ、卒論を書けば大学も卒業させてくれるという話だった。卒業旅行は、先輩がシンガポールに連れて行ってくれた。それで踏ん切りがついて、就職を決めた。卒論は仕事をしながら書いて提出し、無事大学も卒業した。

<学生時代のアルバイトの話>

 アルバイト先を見つけるのには苦労した。難聴のことを言うとなかなか雇ってくれなかった。4〜5社受けて1社受かるくらいだった。ファミレスのキッチンは耳を使わなくていいかと思ってやってみたが、「卵抜き」の指示などが、口頭指示で、やはり聞くことを求められた。個人経営のカフェのウエイターをしたが、そこは、なじみのお客さんがいて、時間にゆとりのあるお客さんが多かったので、働きやすかった。アルバイト先は働きやすいところを選んだ方がいいなと思った。アルバイトの経験で「確認する」ことの大切さを学べたと思う。

 スターバックスの試みでスタッフが全員ろう者という職場があるが、魅力的ですごく憧れる。まわりに理解者しかいないというのは、いいなと思う。

 

<社会人>

 公務員となり、公立高等学校の事務職員となった。神津島に異動になり2年間過ごしたこともある。始めは、早く島から戻りたいと思っていたが、人があまり多くなく、皆知っている人ばかりでとても居心地がよかった。まさに住めば都だった。休日にスキューバーダイビングの資格も取って、休みの日の遊びも充実していた。今後また、そこに異動を希望して行ってもいいなとも思っているほどである。

 公務員の研修の時に、初めてノートテイクが必要かどうかきかれた。その経験がなかったので、お願いしてみた。すると研修中に自分の近くに3人の人がスタンバイしていて、交代でノートテイクをしてくれた。自分の力だけでは、大体7割くらいしか聴取できないので、100%の情報がわかるのはありがたかった。しかし、それまでずっと自分の力でどうにかしてきたので、非常に居心地が悪かった。まわりの目ということもあるし、わざわざ自分のために3人も待機してくれるというのが、どうにも申し訳なさすぎて、罪悪感みたいなものを感じてしまったのだ。

 これからは、公務員ということで恵まれている部分もあるのだから、支援を受け慣れていないところを変えていけるチャンスと捉えてよいのかもしれない。

職場でのエピソードでこんなことがあった。加齢性難聴で補聴器をしている女性が一緒に働いている。その女性は補聴器をしていることを恥ずかしく感じていて、補聴器を髪の毛で隠していた。ある時、その女性にこんなことを言われた。「あなたは、初めから自分に難聴があること、それで補聴器をしていることを堂々と周りに伝えている。それで周りの人の対応も変わってきている。私は、あなたのおかげで勇気が出ました。」と。隠さないで伝えることの大事さを自分の姿を見て学んだと言ってもらった。自分には、開示しないという選択肢はないし、わかってもられるかどうかは別として、開示しなければダメだと思っているが、そんな風に言ってもらって、ちょっと驚いたし、うれしくもあった。

 

<インタビューを終えて>

 たかさんは、1対1で面と向かって話をしていると、難聴があるということはわからない。聞き返しもほとんどないし、こちらの話もはっきり喋るとか、口の動きをわかりやすくなどの配慮もほぼなくても会話が成立する。そういうたかさんが子ども時代から大人への道筋の中で、どのようにまわりの人たちとのコミュニケーションを積み重ねてきたかという話は、とても興味深かった。

 特に小学生時代から、大勢のにぎやかな子たちとの雑談に入るのは、諦めていて、特定の少人数の友達との付き合いに終始していたという話は、印象的だった。本人の性格もあると思われるが、雑談は入れなかったときっぱり言い切っていたのは、改めて驚いた。側から見ると、少人数グループを好むのは、本人の性格からくるように見えるが、きこえのことが関係していたのだなあと改めて思った。

 たかさんが小学校の時にお母さんから聞いた話がある。それは、たかさんが友達2人と一緒に3人で下校している時のエピソードだ。たかさんは、3人で横並びに並んで下校している時、横に並んで話をすると友達の顔が見えず、話の流れについていけないのだろう。時々少し小走りで前に走っては、後ろを向いて友達の顔を見ながら会話をしていたそうだ。追いつかれるとまた小走りで前に走り後ろを向くということを繰り返して会話していたのだ。多分二人なら歩きながら顔を見るのは難しくないが、3人となるとそうはいかなくなるのだろう。

 その姿を見ていたおじいちゃんが、孫のたかさんを不憫に思って、高い補聴器を買ってくれたというオチがあるのだが、私は、その話をきいて、子どもたちの日常での1コマ1コマについて私が知らないことがたくさんあるなと思った記憶がある。コミュニケーション場面は、1対1の落ち着いた会話以外の様々な形があり、特に子ども時代には、動きながらのやりとりが多いだろう。わーわーという騒音の中でことばが行き交う状況で、難聴のある子どもたちは、何かしらの疎外感を積み重ねてゆくことは想像できる。

 まだ会話の内容がそれほど複雑ではないから、それほど問題ではないという人もいるが、たかさんに関しては、小学生時代にすでに「あの人と話したいなーというのはあったけど、諦めていた」というし、中学校でも付き合いの長い特定の安心できる友達との付き合いの中で過ごしていた。そして徐々に自分に苦手なことー英語のリスニングや先生の話をききながら書き留めるということーなどによって、どうも自分は普通より劣っているらしいと思い始めたということは、彼の性格というよりも難聴からくることだろうし、他にもそういう思いをしている子どもはたくさんいるだろうと想像する。大きく悩まなかったとしても、静かにあきらめていて、その状況を見抜いている人はなかなかいないのではないかと思う。

 彼の時代はまだまだ情報保障の行き届かない時代であったことも一つであろう。せめてロジャーのような補聴援助システムでもあったら、また違っていたかもしれない。ノートテイクも「自分のために3人も労力を使ってくれる」ことに居心地の悪さを感じ、全体の話の7割くらいをききとり、わからないところは、誰かにきくことで何とか切り抜けてきたという経験の中で培った「処世術」が彼の大切な手段であることは、今も変わらないらしいし、実際それでちゃんと仕事もこなしている。そういうスタイルが出来上がっている。

 インタビュー後にロジャーも勧めてみたが、あまり必要性を感じないようだった。補聴器の性能も向上し昔と比べるとかなりきこえが改善されていると感じているし、ブルートウースの機能の恩恵にも預かっているようで、その現状で特別困ることはないということである。

 難聴でインクルージョンしている子どもたちは、どうしてもきこえる人たちの中でコミュニケーションを積み重ねるので、他の人よりできないことがある、他の人より劣っているという自己認識に到達しやすい。大人は、学習面ばかりに目を向けがちだが、本来の性格とは別のところで、集団生活の中で遠慮して過ごしている子どもが少なくないだろうし、そこは、70dB以下くらいの難聴のとてもわかりにくい面だと思う。人工内耳の人にも言えるかもしれない。

そんな中で、たかさんが同じ職場の補聴器の女性に「あなたのおかげで、勇気をもらった」と言われたことは、貴重なポジティブな経験になったのではないだろうか。しかし、きっと今後、後輩たちの中にも彼の経験談を励みにする人たちが出てくると思っている。

今後仕事を続けて行く中で、経験を積み重ね、自信をつけてゆくこともあるだろうし、彼のように肩肘を張らない生き方に共感する後輩も出てくるだろうと思った。

 


NO.8 わたしの難聴ヒストリー ④ ( 特別支援学校教員かおさんの場合 )

2024年03月12日 | 記事

かおさん 特別支援学校教員 31歳 両耳100dB 補聴器装用 

かおさんは、1歳頃に家族がきこえが悪いのではと気づき、病院で相談し、1歳2ヶ月で高度難聴と診断された。療育施設で彼女に出会ったのは、1歳5ヶ月とのことである。小さい時から割と自己主張がはっきりしていた女の子だったと記憶している。よく廊下にひっくり返って、お母さんを困らせていた。かおさんのお母さんが、お舅さんに「神様があなたを選んでかおちゃんを授けてくださったのだから、一生懸命育てなさい」と言われたとお話された。そういうことを言えるお舅さんてすごいなと思ったことを覚えている。

 

【 かおさんのストーリー 】

<幼児期〜小学校>

 初めは難聴児通園施設に通っていた(幼稚園と併用)が、そこでろう学校(今の特別支援学校)の方がよいのではないかと言われて、年長組(5歳)の時からろう学校幼稚部へ、小学校2年生まではろう学校に通った。しかし、2年生の時の担任の先生のアドバイスで3年生から地域の小学校に変わった。  

 母からは、幼稚園の時に一緒だったお友達と一緒にお勉強したり遊んだりできるよと言われた。自分としては、それほど深く考えずに地域の小学校に移った。6年生までの4年間は長く感じた。その当時は、ろう学校は、キュードスピーチを使用しており、口話という意味では、それほど大きなギャップはなかった。が、移ってみると、ろう学校とは大きな違いがあり、とまどいは大きかった。

 3年生の時は、先生が何を言っているのか、どこを見ればいいのかがわからなかった。先生にうまく伝えることもできなかった。家で幼児教育教材を利用したり、そろばんに通ったり、お母さんが、家で音読を見てくれたりして補ったのだと思う。そのうち学校では、段々「大体こんなことを言っているんだな」と見当をつけられるようにはなったが、間違えることもあった。

 初めは一人でいることも多く、どうしようと思っていたが、段々と、きこえないことを友達に伝えられるようにもなり、仲よくなった友達と手紙を交換したり、2、3人の友達はわかってくれる子も出てきた。

 小学校で何が流行っているのかなどの情報を段々と得て、モーニング娘などのことを知ったりした。コミュニケーションは、1対1なら何とかなったが、複数人数の会話はわからなかった。わかってもらえなくて、いじめられたりもした。男の子に「無視しただろう」といじめられたりした。

 小学校5、6年生の時は男の先生で、いじめられたと訴えても、細かく対応してもらえなかった。わかってほしくても、うまく伝えられなかった。ことばの教室の先生やお母さんに吐き出したりした。この頃の記憶は、嫌だったなというのが強い。今ならもっと自分の思っていることや経験を伝えられるかなと思う。その頃の経験は、今となっては、自分が強くなれるきっかけになったかなと思っている。

<中学校時代>

 中学校はろう学校を選んだ。もうつらい思いをしたくなかった。そこで手話を教えてもらって、楽しくコミュニケーションが取れた。その頃には、ろう学校はキュードスピーチに代わって手話を取り入れていた。授業もよくわかった。一つ欠点は、授業が遅れるということだった。そこで友だちを「そんなことも知らないの?」と上から目線で見て、先生に厳しく叱られたりした。それを叱られたことは、自分が後に先生になるきっかけにもなった。

 しかし、ろう学校は、学習面や友達との会話の内容に少し物足りない思いがあった。ろう学校でいっしょだったライバルが地域の高校を受験するというのをきいて、対抗心もあり、高校は地域の高校を受験した。お母さんには反対されたが、「がんばりたい」と説得してわかってもらった。受験して地域の高校に入学した。

 高校では、いろいろな人と出会い、刺激的だった。色々な学科があって、文化祭も面白かった。よい友達にも恵まれた。やさしく気を配ってくれる友達もいた。授業は、一年生の時はわからないことが多かった。それでも高校生活を楽しめればいいかなと思っていたが、学力が落ちて下の方になってしまった。これはいけないと思って、勉強の仕方を工夫して、下位にならないように努力した。

 先生にも、顔を見て話してほしいとか、お願いしたりした。困ったのは英語で、英語には悩まされた。英語のリスニングのテストが全然できなかった。初めは、一人別室で外国人の先生が英語でしゃべってくれた。しかし、それでもわからなくて、泣きながらリスニングを受けた。その後、「別室はやめて普通でいいです。勘で書きます。リスニングのテスト捨てます」と先生に言った。ライティングとリーディングをがんばることにした。できるところは頑張って、できないことは捨てるというやり方をした。塾は、高3の受験勉強の時だけ通った。

 ろう学校に帰りたいとは、あまり思わなかった。やはり刺激がたくさんあることが、自分には大事だった。おしゃれな子がいたり、かっこいい子がいたり、高校は色んな人がいて刺激的で、それが魅力だった。

 友達が自分の難聴を心からわかってくれたかというと、それは難しかった。きこえのことは、うまく説明できなかった。1番の理解者はお母さんだった。

<進路を選ぶに当たって>

 お母さんが薬剤師、お父さんが歯医者というのもあって、医療系の仕事につきたかったが、医療系には、成績が足りなかった。理学療法士もなりたかったが、コミュニケーションが難しいかなと思った。母に作業療法士を勧められたが、その養成過程の学科は落ちてしまった。第2希望として書いた児童学科だけ受かった。

 その頃すでに高校3年生の3月で、浪人はやめてくれと言われていたので、児童学科に決めた。中学校(ろう学校)できびしく叱ってくれた先生のことも思い出して、先生もいいなと思ってそう決めた。

<大学生活>

 大学は、一人一人受ける授業が異なるので、仲の良い友だちがいる時はよかったが、いない時は、頼る友だちがいなくて、ノートを見せてもらえず、苦労した。大学に情報保障をお願いしてみたが、きこえない人はあなただけだから、配慮はできないと言われてしまった。友達がいる時は、助けてもらった。

 小学校と特別支援学校の免許を取った。教員試験では、障害者枠があって、一次試験が免除された。実技と論文、面接があった。自分の経験を一生懸命アピールした。それで合格することができた。小学校の教員に加え、幼稚部だと、重複学級なら担当できるかと思う。

 仕事は、楽しい。高学年を担当しているので、高学年の子どもたちに伝えられることは何かなと考えることは楽しい。今後もがんばりたい。

 

<家族とのコミュニケーション>

 母とのコミュニケーションでは、手話は使わない。音声言語だけ。母に手話を教えてほしいと言われているが、つい口でしゃべってしまう。母もだんだん、私が音声だけでは、わからないということがわかってきたと思う。きこえない人と結婚したこともあると思う。手話に興味を持ってくれている。

 旦那さんはきこえない。旦那さんと話す時は手話を使う。旦那さんは、会社に行く時は、人工内耳(5、6歳で手術)を装用しているが家では外す。旦那さんとの会話では、全部手話で伝えないといけないのは大変なこともあり、たまに「声(の調子)でわかってよ」と思うことはある。

 しかし、町を歩いている時は、夫婦で手話で会話していると、まわりの人が自然にきこえないことをわかってくれるから、楽だな、よかったなと思うこともある。

 自分は十分に聴覚活用ができているので、人工内耳をしたいと思ったことはない。

<中高生へのアドバイス>

中高生にアドバイスはありますか?

大きく2つ。

一つ きこえない自分を認める。隠すのではなく、きこえないことをアピールしたり、きこえなくてもいいんだと思えることが大事。まず自分を認めて、まわりに何を伝えればいいかと自分で伝わる方法を見つけてほしい。私も時間がかかった。大学のころも、模索していた。22歳になって、先生になってようやくという感じ。今は自分が好き。

二つ目 自分の好きなことを見つけてほしい。私は、負けず嫌い。新しいものに挑戦したい。昔お母さんに本を読めと言われたが、初めは嫌いだったが、好きな本を見つけて、好きになった。

 仕事してすぐに自信がついたわけではない。仕事で、自分のやり方を非難されたこともあり、悩んだ時期もある。が、別の人に、あなたはあなたのやり方でいいんだよと言われたことで、これでいいんだと思えて自信になった。周りに肯定されることも大事だと思う。

 

<インタビューを終えて>

 地域の学校に通い、そこで学習面や友達関係に悩み、少人数で手厚いろう学校に移ることはよくあるが、ろう学校から地域の学校に移ることはあまり多くないように思う。コミュニケーションという意味では、高度難聴、重度難聴では、きこえる友達の中では、必ずしっかりとした支援が必要で、それが不十分だと嫌な経験を積み重ねることも多いからだ。

 実は幼児期に彼女にろう学校を勧めたのは私だ。聴覚活用だけでは学校生活は困難だろうと判断した。まだ人工内耳も普及していなかったし、情報保障も十分にはされない時代だった。しかし、彼女の話を聞いて、3年生から6年生まで地域の小学校に通った経験は、彼女にとって必ずしもマイナスにばかり考えなくてもよいと思った。

 よく思うのだが、ストレスがすべて悪いわけではなく、乗り越えられる程度のものであれば、自信になることもある。かおさんは理不尽な対応をされれば、跳ね返そうとするし、遠慮しないで自分の好きなことを追求できる力があった。結果論だが、中学校でろう学校を選び、高校で地域の高校を選べたのは、両方を知っているからこその選択だったのかもしれない。両方を知る中でバランスのよいアイデンティティを形成していったのだと思う。

 大学でも情報保障はなく、友達の協力を得て教員への道を進んだ。わかってくれる友達を得ること、必要な時にうまく助けてもらうこと、でもその中でちゃんと青春を楽しむことができた彼女はすごいなと思う。きこえのことも含めて自分を認めることができたのは、22歳を超えてからだと彼女は言うが、嫌な経験も自分の糧にしていったのは彼女自身の力だろう。そして、そしてそのバックグラウンドでは、ご家庭が彼女をしっかりと受け止め、しっかりと支えてきたことも彼女の力の源になっているのだろう。

 難聴も含めて自分を認め、好きになること。自分の好きなものを見つけること。というアドバイスはこれから大人になる方々にぜひ伝えていきたいと思う。

  

 


NO.7 わたしの難聴ヒストリー③ (web制作の仕事 フリーランス ゆうさんの場合)

2024年02月22日 | 記事

ゆうさん web制作(フリーランス) 30歳 幼児期55dB   その後95dB 補聴器装用

 ゆうさんが幼児期に療育施設に通うようになったのは、3歳児クラスからだった。その頃、中等度難聴だと発見がこのくらいの時期になることは少なくなかった。同齢にわんぱくな男の子がたくさんいて、ゆうさんもやんちゃな男の子だった。賑やかなグループだったと記憶している。

 大分時が経ってから、ひょんなことから、私の職場の看護師さんが、「私の甥が幼児期にお世話になりました。」と話しかけてくれたのがきっかけで、本人とオンライン上(zoom)ではあるが再会することになった。30歳でのインタビューが実現した。

 聴力が幼児期の時より随分と低下しているとのことだったので、初めにコミュニケーション方法についてたずねると、「今は、ろうの友達と話す時は、ばりばり手話で会話している。しかし口話もできる。相手によって使い分けている。」ということだった。

 Zoomで1対1の手話まじりの口話での会話はほぼ問題なかったが、随所で手話が役に立った。ただし、私の手話がつたないこともあり、特に読み取りがついていけず、細かいところでの私の聞き間違いがあった。そこで、動画に字幕をつけたあとで、本人に修正してもらった。例えば、「情報システム解析学科」を私が「総合システム解析学科」と聞き間違ったりした。「ジョウホウ」と「ソウゴウ」のように母音や口形が同じで、文脈によっても判別がつかない場合は、お互いに、その場ではそのディスコミュニケーションに気づかない。彼は「情報」と言いながらちゃんと手話でも「情報」と表現してくれていたのに、私はその手話が読み取れていなかった。後で動画に字幕をつけた時に彼の方で気づいてくれたのだった。そういう意味で、彼との正確なやりとりには、指文字や手話や文字は必要だった。

 

【 ゆうさんのストーリー 】

<幼児期>

 幼児期は両耳共に55〜60dBの中等度難聴だった。療育施設には3歳児クラスから通った。卒園の頃、つまり就学直前に聴力が落ちた。それからあまり変化はない。大学生までは両耳に補聴器を装用していたが、社会人になってからは、右は外している。今、左は95dBくらい。右は100dBは越えてると思う。右はあまり聞こえなくなって、はずした方が楽だった。

 療育施設では、やんちゃな男の子だったと自分でも思う。同年齢の男子が多かったので、一緒に楽しく遊んでいたと記憶している。負けず嫌いで、負けると泣いたという記憶がある。今も負けず嫌いだと思う。

 個別指導の担当はS先生で、聴力検査をやってもらったりした。

 保育園の記憶はあんまりない。療育施設は週に2回。月曜日と金曜日に通った。ことばというよりは、行動で示すことが多かったイメージがある。

<小学校時代>

 小学校に通うため、両親は、実家近くでことばの訓練ができるところを探した。ことばの教室のあるO小学校に入学した。それに合わせて引っ越しもした。ことばの教室でサポートをしてもらった。授業はみんなと一緒で、終わったあとで2時間くらいきこえの練習や宿題をみてもらったりした。コミュニケーションは行動で示すことが多かった。やんちゃだったと思う。席は前の方にしてもらった。隣の友達に色々と教えてもらったが、算数は得意で、友達に教えてあげたりしていた。つまり助けてもらうばかりでなく、ギブアンドテイクの関係だった。

 幼児期から公文に行っていて、算数が得意だった。いじめは一時的にはあったが、大きないじめはなかった。ことばの使い方や発音には苦労した。国語は嫌いだった。あと、空手を習っていた。空手を習うことで、落ち着いて相手の話をきいたりする力や集中力が身についたと思う。聞く力を育てることは大事だなと思っている。

<中学校時代>

 中学校に入るにあたり、はじめろう学校か地域の学校か迷った。両親は、普通の学校でもまれてほしいと願っていたが、自分はどっちでも構わなかった。負けずぎらいなこともあって、地域の学校で色々学ぶこともあるんじゃないかと思った。それで、地域の中学校に進んだ。授業はわからないところは、授業が終わってから、先生にききに行った。わからないところは納得いくまできいた。塾も行っていた。

 小学校の時の友だちがたくさん中学校にもいて、きこえのことはわかってくれた。わかりやすく話かけてくれた。中学校でいろんな友達とも付き合ったことで、健聴者との付き合い方も学べたと思っている。

<高校時代>

 高校は、他県にあるN大学附属高校(共学)に進んだ。片道2時間半、3年間通った。今から考えるとよく通ったなと思う。塾の先生からの情報があり、その高校に魅力を感じていた。教育方針がしっかりしていた。

 難聴のことは、高校の先生はわかってくれた。学習面でわからないことをきくと教えてくれた。授業はみんなと同じように受けた。黒板に書くことを見て、理解するという力を小中学校時代に身につけていたので、先生の話がよく聞こえなくても黒板の板書で理解した。

 高校は新しい環境だったが、友達とのコミュニケーションへの不安より、ワクワク感が大きかった。きこえないことを隠さないで、説明した。きこえないから、ゆっくり話してほしいと伝えて、わかってもらうようにした。そのようにして人間関係を築いていった。また、自分が言っていることが相手に伝わっているかどうかをちゃんと見るようにしていた。これは伝わったけど、これは伝わらなかった。その伝わらなかったことは言い方を変えてみてまた伝わるかをみた。複数人数の会話は難しかったけど、1対1の会話を大事にした。特にテニス部の部活の友達とは、仲良くなり、今でも時々会っている。

  高校の時は数学の成績がクラスで1番か2番だったので、そのまま推薦でN大学に入学した。「数学のできるやつ」として一目おかれる存在でもあった。

<大学時代>

 N大学文理学部 情報システム解析学科に入学。

 大学生活が学校生活の中で一番楽しかった。サークルは、テニスと手話に入った。手話サークルで初めて手話の世界やろうの世界を知って、ろうの友達と手話でコミュニケーションを取る楽しさを知った。

 1年生の時、幼児期に出会った療育施設の友達に飲み会に誘われた。ろう学校に行った友達がそこで手話で楽しそうにコミュニケーションを取っているのを見て、楽しそうでいいなと思った。自分も学ぼうと思った。それで大学の手話サークルに入り、学んだのだった。小さい時から手話というものがあることは知っていたが、あまり関心がなかった。だからと言って、子供の時から手話を学べばよかったとも特に思わない。しかし、今は手話での方が楽しいと感じる。口話は発音のせいで伝わったり伝わらなかったりするから。

<就職>

 R社の特例子会社に障害枠で入った。5年と少し勤めて、ウェブ制作の会社に変わった。そこに1年半勤めて、スキルを身につけて、ウェブ制作のフリーランスになった。

 初めの会社は、色んな業務を請け負っていた。自分は広告の仕事をしていて、ホームページを作ったりした。ホームページの仕事が楽しかったので、会社に行きながら、ホームページを作る学校にも通った。会社の仕事は、浅く広くだったが、やりたい仕事を思う存分やりたかった。自分の可能性を試したい、とことんやってみたいという気持ちがあった。そこで、初めの会社をやめて、ウェブデザインの会社に転職した。そこに1年半勤めてスキルを磨いた後、今はフリーランスになって仕事をしている。おかげさまで忙しくしている。一番うれしかったのは、レプロ東京というろう者と健聴者の混合のサッカーチームのホームページ制作の仕事を依頼されてやったことだ。聴覚障害の自分が聴覚障害者の役に立てたのは格別うれしかった。

<両親、友達>

 両親は、自分がやりたいことを好きにやらせてくれた。感謝している。フリーランスになる時も、どう思う?ときいたら、やってみればと背中を押してくれた。特に他に影響を受けた人というのはない。

 今はろうの友人も難聴の友人もいる。アイデンティティは、特にこだわりはなく、どっちでもよいと思っている。口話でも手話でも相手に合わせてコミュニケーションを取っている。

 

<あとがき 〜ゆうさんのストーリーについて〜>

 後に障害者の就職に詳しい人と話した時に、特例子会社で働いた後に、そこを退職し、フリーランスで仕事をしている人がいると話したら、大変驚かれたことがある。滅多にないことだということだった。私の勉強不足で特例子会社についてよく知らなかったのだが、そこから自立して自分の力で仕事を始めるというのは、大したことに違いない。

 彼に幼いころから数学的才能があったことは確かだろうし、それが彼の身を助けることになった面もあるだろう。高度難聴がありながら、高校時代に数学でクラスで1、2番の成績というのは、やはり彼の自信や誇りそして拠り所となったに違いない。しかし、それを武器としてポジティブに真っ直ぐに努力した力は、心の強さも感じさせる。

 コミュニケーションでは、大学で初めて手話サークルに入り、手話で会話する楽しさを知った。今では、手話の方が楽しいという。しかし、だからと言って、それまでの会話の苦労に対する恨み言は一切聞かれなかった。生来の負けず嫌いからくるものもあるかもしれないが、なんともポジティブな姿勢に心打たれる思いもする。

 後で少しだけお母さんに話をきく機会があったが、中学校の時にはイライラを示す時期もあったとか。本人からは、一切そこでの嫌な経験とかつらい気持ちだったとかはきかれなかったが、実際にはそうはいいことばかりではなかったと想像する。しかし、振り返ってみて、本人は「中学校で健聴者との付き合い方を学べた」と中学校生活もあくまでもポジティブに語った。嫌な思いをしたこともあっただろうと思うが、負けず嫌いだけでなく、何でも自分の力に変えてゆく力を感じた。そして彼を信じ、支えたご両親の力も大きかったのだろうと思う。彼のお母さんもまた、はっきりとした、クヨクヨしない性格の方だったと記憶している。そして、もちろん、いい友達、いい先生にも恵まれたのだろう。

 自分のことを誰も知らない高校生活も「ワクワクした」と語ったのについては、真っ直ぐに自分を開示し、周りの理解を得ようとする姿勢の素晴らしさを感じた。自分の言ったことがちゃんと相手に伝わっているか見届けるようにし、伝わっていないと感じたら、伝え方を変えたりしたのは、自己流のコミュニケーション上の工夫だったといえる。大学生活についても、まだ支援室もない時代だったが、自分の力で友達関係を構築して、大学生活が「一番楽しかった」というのも素晴らしいと思う。

 やりたい仕事で自分を試したかったとフリーランスの心意気を語ったが、自分の可能性を信じる力に感動さえした。今後、彼の仕事が末長く発展的に続くことを心から願っているし、活躍を楽しみにしている。

 


NO.6 わたしの難聴ヒストリー② (作業療法士ゆりさんの場合)

2024年02月08日 | 記事

ゆりさん   作業療法士    28歳 低音域40dB程度、2kHz以上は90dBの高音急墜型難聴 補聴器装用

 ゆりさんは、3歳9ヶ月で難聴診断を受け、実際に難聴児の療育施設に通い始めたのは、4歳直前だった。聴力型は高音急墜型といって、低音に残聴があるが、高音域で急にきこえなくなるような難聴であった。左耳は低音が40dB程度あるが2kHzからは一気に90dBに下がった。右耳は左より全体に悪く、高音域は、ほとんど聞こえなかった。音(特に低音域)にはよく反応するが、言葉が遅れるというわかりにくい難聴である。難聴が発見されるまでことばが遅いのは発達の遅れのためと診断されていた。まだ新生児聴覚スクリーニングが普及していなかった1990年代にはありがちなことだった。

 4歳のころは、比較的発音もきれいで日常会話も成立するので、問題の所在がわかりにくかったが、極端に語彙が不足していて、同年齢の友達との会話も長続きしない状態だった。しかし、外交的な明るい性格で、何よりもコミュニケーションに積極的だった。ご両親も非常に熱心で、ゆりさんのために引っ越しもして熱心に療育に通ったと記憶している。

 

【 ゆりさんのストーリー 】

<幼児期、小学校時代 〜少しずつきこえのことを自覚するように〜 >

 療育施設に通い始めるころ、療育施設やことばの教室があるO市に引っ越しをした。その頃妹が生まれた。生まれたばかりの妹を抱え、父母も一生懸命だった。

 ゆりさん本人には、それほど悲壮感はなく、小学校に上がっても、割といい加減で、補聴器をつけ忘れて学校に行ってしまったり、電池を忘れたり、補聴器をつけたままお風呂に入ってしまったりしていたとのこと。実際小学校の低学年のうちは、そこまでコミュニケーションに困ることはなかった。が、母から言われて「自分はきこえが悪いのだからがんばらなくちゃ」という思いはあった。人前に出るのもあまり厭わない方で、クラスがうるさい時には、教壇に立って、「うるさいよ〜静かにして〜」などど訴えたりもするような子だった。

 3年生の時のエピソードでこんなことがあった。学校の校内放送は何を言っているかわからなかった。自分だけがそれをきこえないでいることさえ、よくわかっていなかった。しかし、一度放送で指示されたことをやってなかったことで先生に叱られた。頭ごなしに叱られて、ショックだった。多分先生も自分が放送の話は聞き取れないことは、全く理解していなかったのだと思う。(卒業する時、その先生には、「あの時は悪かったね、ごめんねー」謝られた。)

 そんな経験をしながら、自分は聞き取れていないことがあるということを徐々に自覚するようになっていった。5、6年生になると、友達の会話の内容が難しくなり、ついていけなくなった。友達はテレビのドラマやお笑い番組の話をするようになったが、その頃はまだテレビに字幕もなく、自分がテレビから得られる情報は乏しかった。「友達は何の話をしているんだろう」と思いながら、その場にただいるだけというのは少ししんどかった。そういう意味で友達関係に悩んだ。

 しかし、それを母に訴えると、母は、「気にしなくて大丈夫。自分が思っているほど、周りはいじめようとは思ってないんだよ。」と言ってくれた。母やことばの教室の先生はわかってくれていたことは救いだった。

 自分のきこえのことは、友達にわかってもらうことは、難しかった。一人だけ、同じマンションの女の子は、一緒にいて居心地のよい友達だった。押し付けがましいお世話もなく、「一緒にいたいからいる」という感じでうれしかった。

<中学生 〜きこえたフリがいじめの原因?〜 >

 中高一貫校を受験した。都内の学校で片道1時間半かけて通った。6年間という長い付き合いの方が関係が深まるのではないかと両親が考えたのだった。

 しかし、中学校1年生、入学してすぐにいじめにあった。席の近くの子たちがしゃべってくれないという状態が続いた。席の遠い子たちとは仲良くなった。今考えると「きこえるフリ」をしていたことが、いじめられた原因だったかもしれない。その子たちは、先生に「知らないのに知っているふりをする」と自分のことを言いつけたという。先生から母にその話があった。

 しかしゆりさんは、「自分をいじめるような友達はいらない」と考え、無理にそういう友達と仲良くなろうとは思わなかった。そういう「強さ」があったのかもしれない。

<高校時代>

 高校時代に、友人に「きこえないなら、聞き返して。通じてないのは、私が嫌だ」と言われたことがあった。ゆりさんは、「空気を乱したくない」「聞き返すと嫌がられる」と、適当に理解して適当に返す習慣がついていたのかもしれない。それまでは、自分のきこえについてまわりに理解してもらおうという努力はあまりしなかったが、少しずつそういうことを友達に伝えていいんだと思うようになった。こういうことの積み重ねがあって、後に大学での卒論は「難聴者の集団コミュニティ」をテーマにし、自分の体験をまとめ、社会人になってからの行動の指針の提案を行ったのだった。

 進路については、割合のんびり考えていた。母が看護師だったので、漠然と自分も医療系の仕事に就きたいと思っていた。看護師も考えたが、命にかかわる仕事だし、夜勤もあるので、迷った。高校3年生の時に作業療法士という仕事を知った。とりあえず作業療法士を目指すことにした。B大学作業療法学科に入学した。

 大学1年の時に医師だった父が脳血管障害で倒れ、片麻痺になった。作業療法士を目指すことは、父の役にも立つと思った。大学の作業療法の養成課程では、自分が難聴であっても大らかに受け入れてくれたが、何か特別なサポートがあったわけではなかった。が、担当してくれた先生方は、自分に合った実習先などを一生懸命考えてくれた。

 実習では、精神科での実習で苦労した。ある意味深い話までしなければならなかったので、実習場面でどのようなことが話されているかを聞き取って学ぶのが大変だった。どうしてもうまくできなかった感がある。

<就職 〜一般雇用から障害枠雇用へ〜 >

 実習も通り、無事に国家試験もパスし、いよいよ都内の病院に作業療法士として就職した。新人の時は指導してくれる先輩が厳しかった。その先輩や上司に自分を理解してもらうために、大学生の時の卒論「難聴者の集団コミュニティ」を読んでもらったりした。そうすることで、難聴のある自分の環境整備を考えてもらったりした。作業療法士だからこその理解があったということも言えるかもしれない。

 初めは、一般雇用で入ったが、2年目からは障害枠になった。「配慮が必要」ということを自分もまわりも認識したのだと思う。特に作業療法士のトップがよく理解を示してくれて、なんとか今もがんばっている。

 初め回復期病棟にいて、その時は1対1のコミュニケーションが多くやりやすかった。しかし、今はデイサービスに関わっていて、40人の利用者をOT、PT二人でみる体制なので、コミュニケーションでは、辛い場面が増えた。家族の情報を得るために、電話も使用するが、大きめの声で言ってもらえば、わかる。どうしても聞き取れない時だけ、周りの人に代わってもらっている。

 上司が理解してくれるだけでなく、自分が周りにも味方を作る努力をすることも必要だと思うわかってもらう努力をし、分かってもらった時は、それに対して感謝するということが大切だと思っている。

<補足的あとがき>

 ゆりさんのインタビューの話はここまでだが、少し補足したい。ゆりさんが社会人2年目の時に「難聴児を持つ親の会」の定期刊行物「親の会通信」に投稿した「わたしの体験談」では、次のように書かれている。

「・・・高校になると『聞き返すと嫌がられる』と段々諦めを増やしながら過ごしていました。『なんだか寂しい』漠然とした感情は、常につきまとっていたように思います。難聴だからこそ感じるストレスを家族にぶつけることも度々でしたし、反抗期も長く激しかったです。・・・・そんな中で徐々に『まあいいや』と強くなることを植え付けられ、人と関わることをやめられなかったのは、『世の中コンナモン』だからこそ『ポジティブ』に過ごせと発言の陰から伝えてくる母親、しんみり話を聞いておきながら『ふふふーん』と笑い飛ばす父親、普段冷たいのに辛い時を見計らって優しくしてくる妹の存在が大きかったです。」

 ゆりさんは、このような家族が味方になってくれたことに大きく背中を押され、ポジティブに前進してきたようである。

 また、次のようにも言っている。「・・自分自身の特徴(例えば難聴であること)を把握して言葉巧みに伝える能力を身につけておくと、非常に過ごしやすくなることも追加しておきます。但し、これが難解で一番答えが欲しいところでもありました。」

 補聴器をしていることは、開示したとしても、それが具体的にコミュニケーションにどういう影響があるかについて、周りに説明する難しさを常に感じていたようである。ゆりさん自身も子どものころは、よく分かっておらず、なんとなく周りに合わせてしまいがちであったが、周りの友人もそれに違和感を示すことも出てきて、それにどう対処するかを考えたのが、卒業論文に結実したのだろう。

 作業療法士は何らかの困り感を持っている人に対して、どのように環境整備するか、どのように支援するかを考える職業でもある。Aさんの上司が理解を示してくれたことは、さすがだと言う気がするが、ゆりさんの自分で自分の道を切り開く努力もさすがと言える。

 しかし、個人の努力だけでなく、「難聴」についての理解が社会に行き届いていないのも事実で、そこがもう少し変化してほしいところだとも思われる。確かに「自分の特徴を伝える」説明力はかなり難易度は高いだろう。通常の会話のテンポだと、ふと聞き漏らした途端、テンポが噛み合わなくなる。その違和感はAさんの友人たちが感じたものなのだと思う。それで「変な子」「知ったかぶりの子」と退けるのは、あまりにも残念な無理解だ。分かってくれないような友達はいらない、分かってくれる友達を大事にしていくと強気で進むのもひとつの力だが、どうすれば分かってもらえるかも追求していきたいところである。

 このインタビューが終わったところで、ゆりさんが使っていなかったデジタル補聴援助システムの使用を勧めた。これは、マイクに入った声が補聴器にストレートに入るものだが、ゆりさんは、すぐにこれを試し、購入し、そして日常のコミュニケーション場面に活用した。

 特に職場でのケース会議では、以前より内容がよく聞き取れるようになり、大変効果的だったようだ。プライベートでも電車内の騒音下の会話で相手にマイクに話しかけてもらうなど、活用しているという。

 デジタル補聴援助システムは、学校に通う子どもたちの間では、当たり前になってきつつあるが、このように社会人難聴者は却って、最近のテクノロジーを知らずにいることもある。音声文字化の技術もかなりのスピードで進歩している。使えるテクノロジーを使いこなしてゆくのも大切である。だから、難聴者同士のつながりを大事にし、大切な情報を広めてゆくことの重要性も改めて感じたところである。