たかさん 公務員 27歳 右80dB 左70dB 補聴器装用
3歳で難聴を診断されて、療育施設の3歳児クラスから参加した。右が80dB以上、左が70dB程度の聴力だった。筆者は、就学までの3年間個別とグループの両方を担当した。おとなしくて、ニコニコしていて、やさしい感じの男の子だった。どちらかというと争いごとは好きではなかった。聴力検査中に検査音に耳を傾けているうちに寝そうになってしまい、あわててしまったことを覚えている。そんな小さくて可愛かったたかさんも社会人となって私にその経験談を語ってくれた。
【 たかさんのストーリー 】
<幼児期〜小学校時代>
療育施設での思い出は、ひな祭りでお雛様の衣装を着たこと、節分の豆まきのこと、秋には栗のむき方を教えてもらったことなどどちらかというと、行事の思い出が多い。グループでは、「エルマーのぼうけん」の劇ごっこ、太鼓の発表会も印象に残っている。
自分の難聴を意識したのは、幼児期5歳ころだった。療育施設に母と通っていたが、その帰り道、JRの駅で行き交う人たちが補聴器をしていないことにふと気づいた。その時、自分はきこえないから補聴器をかけているんだなと思った。それが初めて難聴を自覚した時だった。
幼い頃はアナログ補聴器だったが、のちにデジタル補聴器にして、かなりきこえがよくなったと感じている。
小学校1年生では、母がクラスメートや保護者に配布するための資料を作ってくれて、クラスの子ども、保護者に難聴についての理解をお願いしてくれた。学校は椅子の足にテニスボールをつけてくれた。また、担任の先生が工夫して、「静かにしてください」と「もう一回言ってください」という旗を作ってくれた。それを掲げることで、クラスがうるさい時やきこえなかった時に意思表示をした。結構役に立った。高学年になると使わなくなった。多分恥かしくなったのだろう。いじめられたことはない。
小学校1年生の初めの頃は、先生の話を聞かなければならないということを理解していなくて、算数も足し算が理解できなかったことを覚えている。また、小学校5年生の時に「明日は水筒を持ってきなさい」という指示をききもらして、一人だけ水筒がないという嫌な思いをしたこともあった。
友達の雑談には全くついていけなかった。特定の2、3人の友達を中心に会話をしていた。その友達は慣れている友達だったので、聞き取りやすかったし、慣れている人との2、3人での会話なら大丈夫だった。あの人と話したいなーというのはあったけど、ハナから諦めていた。今はそんなことはないが。
<中学校時代>
部活は卓球部に入った。小学校時代からの長い付き合いの友達と一緒にいた。話が聞き取れない時、何度も聞き返しやすい気心知れた友達だった。全体的に目立つこともなく、無難に過ごしていた。
中1の時から英語のリスニングがあったが、聞き取れなかった。母が先生にかけ合って、別室でラジカセで受けさせてもらったが、それでも聞き取れなかった。高校受験の時は、私立だったこともあり、リスニング以外のものに換えてもらった。授業では、板書を書き写していると先生の話を聞くことがおろそかになった。「聞くだけ」、「書くだけ」ならいいが、何かしながら聞くと言うことができなかった。聞いたことをメモするというのも難しかった。ふつうの子達に負けたくないという思いはあったが、自分に苦手なことがあることに気づくうちに、中学生くらいから「自分はこんなもんだな」という諦めの気持ちがあった。
しかし、兄がいつも自分のよいモデルになっていたように思う。兄には難聴はないが、自分の経験から、勉強のことや色々なことについてアドバイスしてくれた。兄のあとに続けば間違いないと思っていた。受験勉強も兄をモデルにがんばった。
<高校時代>
高校は私立の進学校(男子校)に入学。地元の高校ではなかったので、誰も自分のことを知らず、一から友達を作らなければならず苦労した。その頃から、自分には難聴があることは、言わないとわかってもらえないと思って言うようになった。初めは恥ずかしい思いもあったが、補聴器を見せることでなんとなくわかってもらうのではなく、はっきり言う方を選んだ。
教室で「ぼっちの子」(ひとりぼっちの子)に片っ端から話しかけた。部活(バドミントン)でもぼっちだったので、やめたかったけど、3ヶ月我慢しようと思って続けていたら、友達ができた。
情報保障は特になかったし、学校には特に求めなかった。特別な対応をされることに拒否感もあった。それで、大事な情報を取り逃すこともあったが、洞察力のようなものがついたかもしれない。後で、高校を選ぶ時に情報保障があるところを選ぶ人がいるということを知って、目から鱗な思いだった。
<大学時代>
私立の大学の政治経済学部に入学、男子校であった高校と違って共学で、そう言う意味では楽しかった。兄や母の勧めもあって、文化祭の実行委員になった。その活動で友人もできたし、大学生活も充実したものになった。
大学生活では、LINEという手段があったので、LINEがつながれば、文字でのやり取りを通して関係を築くこともできた。
ただ、難聴については、必ずしも友人の理解があったわけではない。もちろん初めて会った時には、「私には難聴があります。何回も聞き直すこともありますし、後ろからの話しかけに気づかないこともありますがよろしくお願いします。」とは言うようにしていた。とは言っても、そういう自己紹介をしたところで、その後ずっとわかってくれるわけではない。いちいち説明するのは自分としてはやりたくなかった。
むしろ自分がうまく立ち回ることを学んだかもしれない。場の空気を読んで、周りに合わせることでその場をやり過ごすようなこともあった。一気飲みとかやりたくないことでも要求されたことに合わせるためにやったこともある。そういうことはあまり思い出したくないし言いたくない思い出だが、ひとつの処世術だったと思う。
大学の途中で高卒資格の公務員試験を受けた。障害枠で受けた。難しいときいていたが、受かってしまった。これから4年生になるというところだった。3年生までの単位は全て習得済みで、あと卒論を残すのみという状況だった。大学に相談したら、就職しつつ、卒論を書けば大学も卒業させてくれるという話だった。卒業旅行は、先輩がシンガポールに連れて行ってくれた。それで踏ん切りがついて、就職を決めた。卒論は仕事をしながら書いて提出し、無事大学も卒業した。
<学生時代のアルバイトの話>
アルバイト先を見つけるのには苦労した。難聴のことを言うとなかなか雇ってくれなかった。4〜5社受けて1社受かるくらいだった。ファミレスのキッチンは耳を使わなくていいかと思ってやってみたが、「卵抜き」の指示などが、口頭指示で、やはり聞くことを求められた。個人経営のカフェのウエイターをしたが、そこは、なじみのお客さんがいて、時間にゆとりのあるお客さんが多かったので、働きやすかった。アルバイト先は働きやすいところを選んだ方がいいなと思った。アルバイトの経験で「確認する」ことの大切さを学べたと思う。
スターバックスの試みでスタッフが全員ろう者という職場があるが、魅力的ですごく憧れる。まわりに理解者しかいないというのは、いいなと思う。
<社会人>
公務員となり、公立高等学校の事務職員となった。神津島に異動になり2年間過ごしたこともある。始めは、早く島から戻りたいと思っていたが、人があまり多くなく、皆知っている人ばかりでとても居心地がよかった。まさに住めば都だった。休日にスキューバーダイビングの資格も取って、休みの日の遊びも充実していた。今後また、そこに異動を希望して行ってもいいなとも思っているほどである。
公務員の研修の時に、初めてノートテイクが必要かどうかきかれた。その経験がなかったので、お願いしてみた。すると研修中に自分の近くに3人の人がスタンバイしていて、交代でノートテイクをしてくれた。自分の力だけでは、大体7割くらいしか聴取できないので、100%の情報がわかるのはありがたかった。しかし、それまでずっと自分の力でどうにかしてきたので、非常に居心地が悪かった。まわりの目ということもあるし、わざわざ自分のために3人も待機してくれるというのが、どうにも申し訳なさすぎて、罪悪感みたいなものを感じてしまったのだ。
これからは、公務員ということで恵まれている部分もあるのだから、支援を受け慣れていないところを変えていけるチャンスと捉えてよいのかもしれない。
職場でのエピソードでこんなことがあった。加齢性難聴で補聴器をしている女性が一緒に働いている。その女性は補聴器をしていることを恥ずかしく感じていて、補聴器を髪の毛で隠していた。ある時、その女性にこんなことを言われた。「あなたは、初めから自分に難聴があること、それで補聴器をしていることを堂々と周りに伝えている。それで周りの人の対応も変わってきている。私は、あなたのおかげで勇気が出ました。」と。隠さないで伝えることの大事さを自分の姿を見て学んだと言ってもらった。自分には、開示しないという選択肢はないし、わかってもられるかどうかは別として、開示しなければダメだと思っているが、そんな風に言ってもらって、ちょっと驚いたし、うれしくもあった。
<インタビューを終えて>
たかさんは、1対1で面と向かって話をしていると、難聴があるということはわからない。聞き返しもほとんどないし、こちらの話もはっきり喋るとか、口の動きをわかりやすくなどの配慮もほぼなくても会話が成立する。そういうたかさんが子ども時代から大人への道筋の中で、どのようにまわりの人たちとのコミュニケーションを積み重ねてきたかという話は、とても興味深かった。
特に小学生時代から、大勢のにぎやかな子たちとの雑談に入るのは、諦めていて、特定の少人数の友達との付き合いに終始していたという話は、印象的だった。本人の性格もあると思われるが、雑談は入れなかったときっぱり言い切っていたのは、改めて驚いた。側から見ると、少人数グループを好むのは、本人の性格からくるように見えるが、きこえのことが関係していたのだなあと改めて思った。
たかさんが小学校の時にお母さんから聞いた話がある。それは、たかさんが友達2人と一緒に3人で下校している時のエピソードだ。たかさんは、3人で横並びに並んで下校している時、横に並んで話をすると友達の顔が見えず、話の流れについていけないのだろう。時々少し小走りで前に走っては、後ろを向いて友達の顔を見ながら会話をしていたそうだ。追いつかれるとまた小走りで前に走り後ろを向くということを繰り返して会話していたのだ。多分二人なら歩きながら顔を見るのは難しくないが、3人となるとそうはいかなくなるのだろう。
その姿を見ていたおじいちゃんが、孫のたかさんを不憫に思って、高い補聴器を買ってくれたというオチがあるのだが、私は、その話をきいて、子どもたちの日常での1コマ1コマについて私が知らないことがたくさんあるなと思った記憶がある。コミュニケーション場面は、1対1の落ち着いた会話以外の様々な形があり、特に子ども時代には、動きながらのやりとりが多いだろう。わーわーという騒音の中でことばが行き交う状況で、難聴のある子どもたちは、何かしらの疎外感を積み重ねてゆくことは想像できる。
まだ会話の内容がそれほど複雑ではないから、それほど問題ではないという人もいるが、たかさんに関しては、小学生時代にすでに「あの人と話したいなーというのはあったけど、諦めていた」というし、中学校でも付き合いの長い特定の安心できる友達との付き合いの中で過ごしていた。そして徐々に自分に苦手なことー英語のリスニングや先生の話をききながら書き留めるということーなどによって、どうも自分は普通より劣っているらしいと思い始めたということは、彼の性格というよりも難聴からくることだろうし、他にもそういう思いをしている子どもはたくさんいるだろうと想像する。大きく悩まなかったとしても、静かにあきらめていて、その状況を見抜いている人はなかなかいないのではないかと思う。
彼の時代はまだまだ情報保障の行き届かない時代であったことも一つであろう。せめてロジャーのような補聴援助システムでもあったら、また違っていたかもしれない。ノートテイクも「自分のために3人も労力を使ってくれる」ことに居心地の悪さを感じ、全体の話の7割くらいをききとり、わからないところは、誰かにきくことで何とか切り抜けてきたという経験の中で培った「処世術」が彼の大切な手段であることは、今も変わらないらしいし、実際それでちゃんと仕事もこなしている。そういうスタイルが出来上がっている。
インタビュー後にロジャーも勧めてみたが、あまり必要性を感じないようだった。補聴器の性能も向上し昔と比べるとかなりきこえが改善されていると感じているし、ブルートウースの機能の恩恵にも預かっているようで、その現状で特別困ることはないということである。
難聴でインクルージョンしている子どもたちは、どうしてもきこえる人たちの中でコミュニケーションを積み重ねるので、他の人よりできないことがある、他の人より劣っているという自己認識に到達しやすい。大人は、学習面ばかりに目を向けがちだが、本来の性格とは別のところで、集団生活の中で遠慮して過ごしている子どもが少なくないだろうし、そこは、70dB以下くらいの難聴のとてもわかりにくい面だと思う。人工内耳の人にも言えるかもしれない。
そんな中で、たかさんが同じ職場の補聴器の女性に「あなたのおかげで、勇気をもらった」と言われたことは、貴重なポジティブな経験になったのではないだろうか。しかし、きっと今後、後輩たちの中にも彼の経験談を励みにする人たちが出てくると思っている。
今後仕事を続けて行く中で、経験を積み重ね、自信をつけてゆくこともあるだろうし、彼のように肩肘を張らない生き方に共感する後輩も出てくるだろうと思った。