かおさん 特別支援学校教員 31歳 両耳100dB 補聴器装用
かおさんは、1歳頃に家族がきこえが悪いのではと気づき、病院で相談し、1歳2ヶ月で高度難聴と診断された。療育施設で彼女に出会ったのは、1歳5ヶ月とのことである。小さい時から割と自己主張がはっきりしていた女の子だったと記憶している。よく廊下にひっくり返って、お母さんを困らせていた。かおさんのお母さんが、お舅さんに「神様があなたを選んでかおちゃんを授けてくださったのだから、一生懸命育てなさい」と言われたとお話された。そういうことを言えるお舅さんてすごいなと思ったことを覚えている。
【 かおさんのストーリー 】
<幼児期〜小学校>
初めは難聴児通園施設に通っていた(幼稚園と併用)が、そこでろう学校(今の特別支援学校)の方がよいのではないかと言われて、年長組(5歳)の時からろう学校幼稚部へ、小学校2年生まではろう学校に通った。しかし、2年生の時の担任の先生のアドバイスで3年生から地域の小学校に変わった。
母からは、幼稚園の時に一緒だったお友達と一緒にお勉強したり遊んだりできるよと言われた。自分としては、それほど深く考えずに地域の小学校に移った。6年生までの4年間は長く感じた。その当時は、ろう学校は、キュードスピーチを使用しており、口話という意味では、それほど大きなギャップはなかった。が、移ってみると、ろう学校とは大きな違いがあり、とまどいは大きかった。
3年生の時は、先生が何を言っているのか、どこを見ればいいのかがわからなかった。先生にうまく伝えることもできなかった。家で幼児教育教材を利用したり、そろばんに通ったり、お母さんが、家で音読を見てくれたりして補ったのだと思う。そのうち学校では、段々「大体こんなことを言っているんだな」と見当をつけられるようにはなったが、間違えることもあった。
初めは一人でいることも多く、どうしようと思っていたが、段々と、きこえないことを友達に伝えられるようにもなり、仲よくなった友達と手紙を交換したり、2、3人の友達はわかってくれる子も出てきた。
小学校で何が流行っているのかなどの情報を段々と得て、モーニング娘などのことを知ったりした。コミュニケーションは、1対1なら何とかなったが、複数人数の会話はわからなかった。わかってもらえなくて、いじめられたりもした。男の子に「無視しただろう」といじめられたりした。
小学校5、6年生の時は男の先生で、いじめられたと訴えても、細かく対応してもらえなかった。わかってほしくても、うまく伝えられなかった。ことばの教室の先生やお母さんに吐き出したりした。この頃の記憶は、嫌だったなというのが強い。今ならもっと自分の思っていることや経験を伝えられるかなと思う。その頃の経験は、今となっては、自分が強くなれるきっかけになったかなと思っている。
<中学校時代>
中学校はろう学校を選んだ。もうつらい思いをしたくなかった。そこで手話を教えてもらって、楽しくコミュニケーションが取れた。その頃には、ろう学校はキュードスピーチに代わって手話を取り入れていた。授業もよくわかった。一つ欠点は、授業が遅れるということだった。そこで友だちを「そんなことも知らないの?」と上から目線で見て、先生に厳しく叱られたりした。それを叱られたことは、自分が後に先生になるきっかけにもなった。
しかし、ろう学校は、学習面や友達との会話の内容に少し物足りない思いがあった。ろう学校でいっしょだったライバルが地域の高校を受験するというのをきいて、対抗心もあり、高校は地域の高校を受験した。お母さんには反対されたが、「がんばりたい」と説得してわかってもらった。受験して地域の高校に入学した。
高校では、いろいろな人と出会い、刺激的だった。色々な学科があって、文化祭も面白かった。よい友達にも恵まれた。やさしく気を配ってくれる友達もいた。授業は、一年生の時はわからないことが多かった。それでも高校生活を楽しめればいいかなと思っていたが、学力が落ちて下の方になってしまった。これはいけないと思って、勉強の仕方を工夫して、下位にならないように努力した。
先生にも、顔を見て話してほしいとか、お願いしたりした。困ったのは英語で、英語には悩まされた。英語のリスニングのテストが全然できなかった。初めは、一人別室で外国人の先生が英語でしゃべってくれた。しかし、それでもわからなくて、泣きながらリスニングを受けた。その後、「別室はやめて普通でいいです。勘で書きます。リスニングのテスト捨てます」と先生に言った。ライティングとリーディングをがんばることにした。できるところは頑張って、できないことは捨てるというやり方をした。塾は、高3の受験勉強の時だけ通った。
ろう学校に帰りたいとは、あまり思わなかった。やはり刺激がたくさんあることが、自分には大事だった。おしゃれな子がいたり、かっこいい子がいたり、高校は色んな人がいて刺激的で、それが魅力だった。
友達が自分の難聴を心からわかってくれたかというと、それは難しかった。きこえのことは、うまく説明できなかった。1番の理解者はお母さんだった。
<進路を選ぶに当たって>
お母さんが薬剤師、お父さんが歯医者というのもあって、医療系の仕事につきたかったが、医療系には、成績が足りなかった。理学療法士もなりたかったが、コミュニケーションが難しいかなと思った。母に作業療法士を勧められたが、その養成過程の学科は落ちてしまった。第2希望として書いた児童学科だけ受かった。
その頃すでに高校3年生の3月で、浪人はやめてくれと言われていたので、児童学科に決めた。中学校(ろう学校)できびしく叱ってくれた先生のことも思い出して、先生もいいなと思ってそう決めた。
<大学生活>
大学は、一人一人受ける授業が異なるので、仲の良い友だちがいる時はよかったが、いない時は、頼る友だちがいなくて、ノートを見せてもらえず、苦労した。大学に情報保障をお願いしてみたが、きこえない人はあなただけだから、配慮はできないと言われてしまった。友達がいる時は、助けてもらった。
小学校と特別支援学校の免許を取った。教員試験では、障害者枠があって、一次試験が免除された。実技と論文、面接があった。自分の経験を一生懸命アピールした。それで合格することができた。小学校の教員に加え、幼稚部だと、重複学級なら担当できるかと思う。
仕事は、楽しい。高学年を担当しているので、高学年の子どもたちに伝えられることは何かなと考えることは楽しい。今後もがんばりたい。
<家族とのコミュニケーション>
母とのコミュニケーションでは、手話は使わない。音声言語だけ。母に手話を教えてほしいと言われているが、つい口でしゃべってしまう。母もだんだん、私が音声だけでは、わからないということがわかってきたと思う。きこえない人と結婚したこともあると思う。手話に興味を持ってくれている。
旦那さんはきこえない。旦那さんと話す時は手話を使う。旦那さんは、会社に行く時は、人工内耳(5、6歳で手術)を装用しているが家では外す。旦那さんとの会話では、全部手話で伝えないといけないのは大変なこともあり、たまに「声(の調子)でわかってよ」と思うことはある。
しかし、町を歩いている時は、夫婦で手話で会話していると、まわりの人が自然にきこえないことをわかってくれるから、楽だな、よかったなと思うこともある。
自分は十分に聴覚活用ができているので、人工内耳をしたいと思ったことはない。
<中高生へのアドバイス>
中高生にアドバイスはありますか?
大きく2つ。
一つ きこえない自分を認める。隠すのではなく、きこえないことをアピールしたり、きこえなくてもいいんだと思えることが大事。まず自分を認めて、まわりに何を伝えればいいかと自分で伝わる方法を見つけてほしい。私も時間がかかった。大学のころも、模索していた。22歳になって、先生になってようやくという感じ。今は自分が好き。
二つ目 自分の好きなことを見つけてほしい。私は、負けず嫌い。新しいものに挑戦したい。昔お母さんに本を読めと言われたが、初めは嫌いだったが、好きな本を見つけて、好きになった。
仕事してすぐに自信がついたわけではない。仕事で、自分のやり方を非難されたこともあり、悩んだ時期もある。が、別の人に、あなたはあなたのやり方でいいんだよと言われたことで、これでいいんだと思えて自信になった。周りに肯定されることも大事だと思う。
<インタビューを終えて>
地域の学校に通い、そこで学習面や友達関係に悩み、少人数で手厚いろう学校に移ることはよくあるが、ろう学校から地域の学校に移ることはあまり多くないように思う。コミュニケーションという意味では、高度難聴、重度難聴では、きこえる友達の中では、必ずしっかりとした支援が必要で、それが不十分だと嫌な経験を積み重ねることも多いからだ。
実は幼児期に彼女にろう学校を勧めたのは私だ。聴覚活用だけでは学校生活は困難だろうと判断した。まだ人工内耳も普及していなかったし、情報保障も十分にはされない時代だった。しかし、彼女の話を聞いて、3年生から6年生まで地域の小学校に通った経験は、彼女にとって必ずしもマイナスにばかり考えなくてもよいと思った。
よく思うのだが、ストレスがすべて悪いわけではなく、乗り越えられる程度のものであれば、自信になることもある。かおさんは理不尽な対応をされれば、跳ね返そうとするし、遠慮しないで自分の好きなことを追求できる力があった。結果論だが、中学校でろう学校を選び、高校で地域の高校を選べたのは、両方を知っているからこその選択だったのかもしれない。両方を知る中でバランスのよいアイデンティティを形成していったのだと思う。
大学でも情報保障はなく、友達の協力を得て教員への道を進んだ。わかってくれる友達を得ること、必要な時にうまく助けてもらうこと、でもその中でちゃんと青春を楽しむことができた彼女はすごいなと思う。きこえのことも含めて自分を認めることができたのは、22歳を超えてからだと彼女は言うが、嫌な経験も自分の糧にしていったのは彼女自身の力だろう。そして、そしてそのバックグラウンドでは、ご家庭が彼女をしっかりと受け止め、しっかりと支えてきたことも彼女の力の源になっているのだろう。
難聴も含めて自分を認め、好きになること。自分の好きなものを見つけること。というアドバイスはこれから大人になる方々にぜひ伝えていきたいと思う。