なおさん 会社員 39歳 両耳105dB 補聴器装用
なおさんは、1歳過ぎに発語がないために病院に行き、そこで専門病院を紹介され、重度難聴と診断された。すぐに療育施設を紹介されて、私たちの施設に通い始めた。また布おむつを使う人が多かった時代だった。布おむつを抱えての通園は大変だっただろうと思う。
療育施設は、なおさんと同じ年齢の子どもが多かったので、賑やかだった。なおさんは、なかなかわんぱくで、やんちゃで、けんかもたくさんした。お母さんはなおさんをとっても可愛がっていて、なおさんが泣いてお母さんのところにいくと、いつもしっかり抱きしめて慰めてくれた。なおさんは、その頃の幼馴染数人とは、ずっと長く付き合っているいるようだ。
現在なおさんが勤めている会社は、社会インフラ関係の会社で、仕事の内容は、製品の性能機能を試験する自動試験ソフトの開発や現場業務支援ツール開発、部内ホームページ管理、情報セキュリティ関連業務などだそうだ。
今回のインタビューでは、詳しくきけなかったが、デフテニスでは、10年ほど前に日本代表を務めたそうだ。
コミュニケーションは、口話も手話も両方できる。インタビューでは、手話と口話を使用した。
【 なおさんのヒストリー 】
<療育施設のこと>
覚えていることは、太鼓の発表会のこと、ダンボールで何か製作したこと、避難訓練をしたこと、プールで遊んだことなどである。友達から離れて、個別指導を受けるために、別室に入るのは嫌だったことも覚えている。
<地域の小学校のこと>
地元の小学校に通った。小学校の時は、自分のきこえについてあまり気にしていなかった。まわりの子全員が自分の耳がきこえないことを知っていたので、安心感があった。
<中高生の頃>
中学校になると、他の小学校からの友達も入ってきて、きこえないことを理解してくれない人も増え、またコミュニケーションの壁も見えてきた。それで、母や先生に相談したりしていた。
高校になるともっともっと大変になった。勉強の内容も難しくなり、専門用語だったり、聞き慣れないことばが増えてきた。高校に行く時にろう学校を選択しなかったのは、ろう学校の存在をよく知らなかったからだ。高2の時に筑波技術短期大学(現在の筑波技術大学)を見学に行ったのが、ろう学校を見学した初めての経験だった。今から思うとろう学校に行っていた方が、勉強面では楽なところもあったと思うが、中学、高校と友達もいたので、その友達に支えられていた面もあった。
高校の時、コミュニケーションの壁があったので、自分で指文字を覚えて、4人くらいの友達に教えてあげた。友達と少しでもコミュニケーションを取りたいという気持ちだった。すると、友達は、近くにいる時は、通訳してくれるようになった。しかし、だんだんと友達が指文字を使うのがうまくなってきて、早くなったので、今度は自分が読み取るのが難しくなったなんていうこともあった。
学校生活でいじめられたこともある。しかし、自分は負けず嫌いでいじめられたら、やり返した。でも揉めているうちに、結局はその子と仲の良い友達になったりした。
自分は中高と地域の学校でがんばれたのは、一つはもっと勉強したいという気持ちがあったから。それからもう一つは、理解してくれる友達がいて、助けてくれたこと。その両方があって、乗り切れたのだと思う。やはり友達を大事にすることが一番だと思う。地域の学校に行って友達ができたことは、よかったと思っている。
まわりの環境が嫌だと感じるならば、ろう学校を選択した方が良いと思う。
<埼玉県難聴児を持つ親の会との関わり>
中高生の時は、悩みがあった時は、埼玉県の難聴児を持つ親の会の行事に参加することも心の支えになった。耳が聞こえないのはぼく一人じゃないんだということがわかって、ちょっとがんばれる気持ちになった。親の会には、幼児の時から親に連れられて、参加していた。成長してからも、毎年参加して手伝ったりした。高2からは、勉強が忙しくて参加しなくなったが、社会人になってから、また参加して、子供のころにお世話になった恩返しをした。子供達や、親御さんたちに自分の体験談を話したりした。親御さんたちは、悩みをたくさん抱えている。でも心配しすぎることはよくないと思う。自分の親もすごく心配しすぎるところがあったが、それで、心配させないようにがんばったということもある。
<大学の選択と大学生活>
高校の時、大学のオープンキャンパスに母と一緒に色々回った。やはり耳がきこえないので、不安はたくさんあった。そこで、大学のろう学校みたいなところはあるかどうか調べたら、筑波技術短期大学(今の筑波技術大学)があった。そこは、大手の会社とのパイプも持っていていいなと思った。結局そこに入学することになった。
大学に入ってから手話を覚えた。授業も全部手話で情報保障が充実していた。寮生活だったので、ずっと友達と一緒でとても楽しかった。手話は、入学後半年でマスターした。
友達は、明るく、ハイテンションで、会話もとても楽しく、それまで色々悩んだことも馬鹿馬鹿しく感じた。
<社会人になって>
大学生活、寮生活は本当に楽しかったけど、社会に出て、またきこえる人の世界に入ることになった。今いる会社は、自分の部署には、聞こえない人がいないので、また悩みのある生活になった。
まわりが皆聴こえる人なので、どうやって、きこえのことをわかってもらったら良いかがわからなくなることがある。新しい出会いの度に、説明しなければならないので嫌になることもある。また、説明しても、どう対応してもらえるかが問題だ。
自分の職場は、部署は異なるが、まだきこえない先輩がいるので、先輩が開拓してくれた分、だんだんとわかってくれる人が増えていることもあり、マスクを取って話してくれたりすることも多くなってはいる。先輩には、悩みを相談したりする機会もあるので助かっている。だから大変だけど、僕はまだ恵まれている方かなと思う。
また、まわりに分かってもらうには、課長とか上司には、よく相談することが大事だと思う。上司からみんなに伝えてもらうとうまくいくこともある。上司は、ゆっくり話したり、分からない時は書いてくれたりしている。僕の知り合いに、上司がよくわかってくれず、仕事をやめてしまった人もいる。
幼馴染の難聴の友達の場合は、一緒に仕事をする人たちに聞こえない人が多いので、コミュニケーション手段は手話が中心であまり問題はないようだ。彼と同じ悩みを話し合ったことはない。つまりどういう環境で仕事をしているかによって、違ってくる。
2年前に結婚した。友人に紹介されて出会った。彼女は、きこえの程度が重く、補聴器も使っていない。だからコミュニケーション手段は手話である。結婚当初は、生活スタイルの違いでなかなか大変なこともあった。今は、落ち着いて幸せだと感じている。
<インタビューを終えて>
なおさんは、今なら人工内耳も選択肢に入る重度難聴である。なおさんの時代は、補聴器を最大限活用して、聴覚を最大限活用することが奨励されたが、それでも、彼の聴力だと、ずっと地域の学校でがんばることは、並大抵ではなかっただろう。親御さんの「地域で育てたい」という強い希望もあったろうし、学校への働きかけもされたのだと思うが、今よりもっともっと情報保障への理解がなかっただろうし、ほとんど自力で友達関係を構築したことは、改めてすごいなと思う。
負けず嫌いで、いじめられても、そのまま引き下がることなく、やり返し、結局は、友達になったというエピソードは、彼の対人関係の底力や自尊感情の強さを感じさせるエピソードである。ではなぜ、彼にはそのような力があったのかということについてだが、元々の性格もあるが、幼児期の姿を知っている我々には、同時にお母さんや家族の深い愛情が彼を一番底の方で支えているのを感じるのである。
友達とのコミュニケーションは決してスムーズにはいかなかったのだと思うが、自分で指文字を勉強し、友達に教え、その友達がどんどん指文字が上手になって、通訳をしてくれたというエピソードも、単純に良い友達に恵まれただけではなく、彼の友達に働きかける力もあっただろうと思う。
地域の学校でがんばれた理由は、「もっと勉強がしたい」と「友達が助けてくれた」という二つが理由だったということだが、助けてくれる友達を作ったのは彼だったのかもしれない。今でいうセルフアドボカシー(自分に必要な支援を求める力)の力もあったのだろうという気がする。
それから埼玉県の難聴児を持つ親の会のキャンプなどへの参加が彼には大きな支えとなったことも特筆すべきことだろう。大きくなってからも恩返しとしてお手伝いで参加続けたことも素晴らしい。
筑波技術短大での楽しい生活で手話でのコミュニケーションの楽しさを知った彼だが、就職して社会人となり、再びきこえる人たちに囲まれて仕事をするという、なかなか大変な環境に身を置くこととなった。今の時代も聴覚障害者をめぐる情報保障はまだまだなのだなと思う。最近また彼と連絡を取ったが、社内で、聴覚障害者の社内交流会(情報交換会)があり、それをきっかけに環境がよりよい方向にいけるといいなと思うとのことだった。
まだ30代はじめ、是非がんばってほしいと思う。