本棚から久しぶりに石津謙介氏の世界を書いた本を取り出して読んでみた。
(1993年、「VANヂャケット博物館」扶桑社刊)
石津謙介氏は、あの、アイビールックの産みの親、ファッション界のカリス
マと呼ばれた人である。
本の中には「私はファッションを作ったのではない、風俗を作ったのだ」と。
単に企業が売れる着物を作ろうとしたのではなく、着る事という考え方その
ものを創り出したのだ。私も学生時代にボタンダウンのシャツ、お店でくれ
る茶色の買い物袋、斬新なロゴなどにあこがれたものだった。
自分のやっていることがわからなくなると、時々この本を出して眺めている。
私は何のために仕事をしているのか、生きているのか、と。
ネット上で石津謙介という名前を検索してみたら面白い記事が載っていた。
2001年の東洋経済に掲載されたご本人のコメントに、「家は君の分身」
というのがあった。衣食住というが、そこそこの金ができれば着る物や食べ
物に気を使うようになる。しかし、究極は安息の場所である家にこだわるべ
きであると言っている。
あれがおいしい、この服が格好いい、位までは言ったことがあるかも知れな
いけれど、私の場合、家まではまだまだたどりついていない。
もっとも、この記事の中で言っていることは、豪華な家に住めといっている
わけではなく、安息の場所として「借家やアパートだっていい、自分の好き
なものに囲まれて暮らしなさい」と言っているのだ。
明治44年生まれの石津謙介氏、平成17年、享年93歳で他界されたが、
その考え方は今も生きているし、そして、まだまだ新しい。
時代を通して通用する考え方を残せたことは、まさに風俗を作ったといえる
わけだ。並みの人間ではなかったのだ。文化は一代にしてならず。さすがに
育ちのいい、しかも、波乱の時代を生き抜いた別格のセンスの持ち主だった
ことに違いはない。ライフスタイルにこだわり「病床にあってもパジャマを
着ることを拒み、三宅一生の服を着て息をひきとった」という。
日々の生活に追われて、何をやっているのだか分からない毎日だ。
今日の延長線を明日にしたくないと思っても、凡人にはなかなか実現でき
ない。残り時間が少なくなってきた私だ。その時間内でどのくらいのことが
できるか分からない。昔読んだ本に「歳をとると、何ができるかではなく、
何ができないか、と考えるようになる」と。
(1993年、「VANヂャケット博物館」扶桑社刊)
石津謙介氏は、あの、アイビールックの産みの親、ファッション界のカリス
マと呼ばれた人である。
本の中には「私はファッションを作ったのではない、風俗を作ったのだ」と。
単に企業が売れる着物を作ろうとしたのではなく、着る事という考え方その
ものを創り出したのだ。私も学生時代にボタンダウンのシャツ、お店でくれ
る茶色の買い物袋、斬新なロゴなどにあこがれたものだった。
自分のやっていることがわからなくなると、時々この本を出して眺めている。
私は何のために仕事をしているのか、生きているのか、と。
ネット上で石津謙介という名前を検索してみたら面白い記事が載っていた。
2001年の東洋経済に掲載されたご本人のコメントに、「家は君の分身」
というのがあった。衣食住というが、そこそこの金ができれば着る物や食べ
物に気を使うようになる。しかし、究極は安息の場所である家にこだわるべ
きであると言っている。
あれがおいしい、この服が格好いい、位までは言ったことがあるかも知れな
いけれど、私の場合、家まではまだまだたどりついていない。
もっとも、この記事の中で言っていることは、豪華な家に住めといっている
わけではなく、安息の場所として「借家やアパートだっていい、自分の好き
なものに囲まれて暮らしなさい」と言っているのだ。
明治44年生まれの石津謙介氏、平成17年、享年93歳で他界されたが、
その考え方は今も生きているし、そして、まだまだ新しい。
時代を通して通用する考え方を残せたことは、まさに風俗を作ったといえる
わけだ。並みの人間ではなかったのだ。文化は一代にしてならず。さすがに
育ちのいい、しかも、波乱の時代を生き抜いた別格のセンスの持ち主だった
ことに違いはない。ライフスタイルにこだわり「病床にあってもパジャマを
着ることを拒み、三宅一生の服を着て息をひきとった」という。
日々の生活に追われて、何をやっているのだか分からない毎日だ。
今日の延長線を明日にしたくないと思っても、凡人にはなかなか実現でき
ない。残り時間が少なくなってきた私だ。その時間内でどのくらいのことが
できるか分からない。昔読んだ本に「歳をとると、何ができるかではなく、
何ができないか、と考えるようになる」と。