先日、ノーベル物理学賞を受賞した中に、日系アメリカ人のマナベという人がいますね。彼は、日本では「日本人」として取り上げられています。
しかし、彼は米国籍を取得したアメリカ人です。日本という国は二重国籍を認めてませんから、米国籍を得た段階で日本国籍を失っているはずです。
一方で、モンゴルなど外国出身で日本国籍を取得した力士の場合、法律上は日本人ということになります。
ところが彼らは、幸か不幸か外国人扱いされることが多いですね。
まあ、都合の良い時は外国人を日本人扱いし、不都合な場合は日本人でも外国人とみなすわけですよ。国籍と出身や民族性を利用した二重基準ですね。
もしマナベさんが、日本の研究環境が酷かったとか日本の研究者は海外へ研究拠点を移せ、みたいな日本に否定的なことを言い出したら?手のひらを返したように、外国人扱いされるでしょう。
それはさておき、平生、我々は漠然と「日本人」と言いますがね。それは何者なんですかね。
かの有名な歴史学者、エリック・ホブズボームは、数百年前には人々の中にナショナルアイデンティティなど存在しなかったと語っています。
つまり、「日本人」「アメリカ人」「モンゴル人」みたいなアイデンティティは、もともとは存在しなかったということです。
いつ、それが生じたか?
近代になってからです。
近代的な国民国家が誕生してからですね。
国家による教育が拡がり共通の言葉や歴史認識、慣習などが徐々に人々の間で共有されるようになったことが大きな要因でしょう。
それは、裏を返せば、各地の言葉や文化の消失ということでもありました。
つまるところ、国家による同化政策・エスノサイドですね。
詳しい話は歴史学者に任せるとして、私が以前から感じていたこととしては、やはり日本という国は多民族多文化国家だということです。
今でも方言とか各地域の慣習って少し残ってますね。最近は知りませんが、一昔前なら地方から上京した者が方言を話すとバカにされましたね。そして標準語を上手に話せるように練習するわけです。
これって、草の根の同化だと思いませんか。
沖縄や北海道は言わずもがなですが、本州だけでも各地域異なる言葉や文化があったはずです。それが近代以降は国家によって強引に同化・統合されたわけですね。
いわゆる右翼・保守の人に聞いてみたいですね。貴方が愛するのは近現代の日本という国家なのか、それとも前近代の日本列島各地に存在した言葉や文化、風習なのか。
大抵は前者だと答えるんじゃないですかね。近現代の日本を正当化したい人が多いでしょうから。けれども一方で彼らは、日本では天皇家が2600年くらい続いてきて云々、みたいなことも仰る。そこは前近代の話を持ってくるわけですよ。二重基準ですね。
かくいう私も昔は自他共に認める保守派だったんですけどね。私の場合、愛したのは後者でしてねえ。前者の、近現代の日本など、郷土の文化を破壊した憎むべき対象でしかなかった。
保守派こそ「日本人」という単語には反感を持つべきです。
あえて自称するなら、地元の地名で良いんじゃないですか。柏のジェフリーとか大須のアキラとかね。
そして堂々と方言を使い、標準語に抵抗しましょう。
そういや鉄拳のプレイヤーに「鉄拳人」を自称するソヨンドリという人がいたなあ。彼が話す言葉は「鉄拳語」といったところでしょうかね。
そんな私は「バーチャ人」。