ファイプロとプロレスと私

日本は五輪に敗戦、それでも私たちの夢は潰えない

76年前、日本国は、ポツダム宣言を受諾した。今われわれは、その戦犯の孫による五輪開催宣言の前に立っている。この開催宣言は、容赦ない感染症の流行に晒されていた何千万もの人民たちに、大きな絶望の追い打ちとして訪れた。

敗戦から76年を経た今日、我々は依然として自由ではない。今日、人民の生活は、悲しいことに依然として藩閥政府の手かせと大企業の鎖によって縛られている。76年を経た今日、人民は物質的繁栄という広大な海の真っ只中に浮かぶ、貧困という孤島に住んでいる。76年を経た今日、 人民は依然として日本社会の片隅で惨めな暮らしを送り、自国にいながら、まるで亡命者のような生活を送っている。

ある意味で、われわれは、小切手を換金するためにわが国の首都に来ている。われわれの国の建築家たちが日本国憲法と独立宣言に崇高な言葉を書き記した時、彼らは、あらゆる日本国市民が継承することになる約束手形に署名したのである。この手形は、すべての人々は、上級国民と同じく下級一般市民も、生命、自由、そして幸福 の追求という不可侵の権利を保証される、という約束だった。

今日、日本国が、下級市民に関する限り、この約束手形を不渡りにしていることは明らかである。日本国はこの神聖な義務を果たす代わりに、市民に対して不良小切手を渡した。その小切手は「残高不足」の印をつけられて戻ってきた。

だがわれわれは、正義の銀行が破産しているなどと思いたくない。この国の可能性を納めた大きな金庫が資金不足であるなどと信じたくない。だからわれわれは、この小切手を換金するために来ているのである。自由という財産と正義という保障を、請求に応じて受け取ることができるこの小切手を換金するために、ここにやって来たのだ。

われわれはまた、現在の極めて緊迫している事態を日本国に思い出させるために、この場所に来ている。今は、冷却期間を置くという贅沢にふけったり、漸進主義という鎮静薬を飲んだりしている時ではない。今こそ、民主主義の約束を現実にする時である。

この緊急事態を見過ごせば、この国にとって致命的となるであろう。人民たちの正当な不満に満ちたこの酷暑の夏は、自由と平等の爽快な秋が到来しない限り、終わることがない。2021年は、終わりではなく始まりである。

私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「べての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」という近代社会の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、大阪の赤土の丘で、かつてのの子たちとかつての世襲議員の子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりの琉球でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる日本でさえ、外国籍の少年少女が日本国籍の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。

自由の鐘を鳴り響かせよう。これが実現する時、そして自由の鐘を鳴り響かせる時、すべての村やすべての集落、あらゆる市とあらゆる町から自由の鐘を鳴り響かせる時、われわれは神の子すべてが、日本人も外国人も、仏教徒も仏教徒以外も、ムスリムもLGBTQも、共に手をとり合って、なつかしいパンクロックを歌うことのできる日の到来を早めることができるだろう。

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