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てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

旧北国街道をゆく②津幡編

2018年08月26日 17時16分20秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
今日はここからですね。


旧北国街道はあのガード下をくぐります。


ごくり


むっちゃ天井低いぞ!


はいー!!


へい味方の本 щ(゚ー゚щ)カモーン!


ココです。


今日は津幡だ。

旧街道は向こうに見えるあの道につながるのであるが、

今は田んぼで道は消えています。

ただ・・・

この上に伸びる道は明らかに新しいルートなので、
ひょっとすると旧道はこの左脇に逸れて走っていたのかもしれません。

運動公園の中を通り、


運動公園を抜けてから工場横を通過。


ココです。


丘の上を走ってましたがこれより下がって集落に出ます。


さらに進んで、


次の集落で右手に見えてきたのは、


小さなお堂? 中を見ることはできなかったけど気になる~


左には津幡川の支流


味方の本によると、


このあたりに、かって一里塚があったとあります。


一里塚・・・
いちりづかは、旅行者の目印として街道の側に1里(約4キロ)毎に設置した塚(土盛り)である。
塚の側に榎などの木を植えたり標識を立てたりしていた。
残念だが旧北陸道で石川県内の一里塚はほとんど現存していない。

このあたり杉瀬と呼ばれ、かっては津幡川の水運で栄えたらしい。


しばらくいくと踏切があって。


すぐ近くに駅。


中津幡駅、無人駅です。


ややこしいが、こちらはJRの七尾線。
北陸新幹線金沢開業に伴いIRいしかわ鉄道が開設され、県内でのJR線は金沢駅以西と津幡からの七尾線となるのだ。


旧北国街道は、津幡の街中に入りました。


パピイって・・・


津幡は交通の要所でありました。

味方の本には、能州往還道とともいわれた能登街道との分岐点でもあったと書いてあります。

そして、この交差点で直角に左折!
カクン!


ココですな。


旧街道はこれを左折して進むのだが、この近くには重要な城があったので寄ってみます。

あそこですね、


少し高台をのぼります。


のぼりきって、先ほどの交差点を見る。
あそこだ。


津幡城です。


ここには、


津幡ふるさと歴史館「れきしる」があります。


その裏手に、


為広塚。


ふむふむ


そして館内にも入ります。
入館料は100円(安っ

津幡といえば、発掘された加賀群牓示札です。
現存する日本最古のお触書です。

こんなイメージ


(ネット情報より)
「加賀郡牓示札」(かがぐんぼうじふだ)・・・律令政府が人々に向けて出した命令に、加賀国と加賀郡がそれぞれ文書を付け、加賀郡が郡内の村の有力者に宛てて出した命令書です。平安時代の前半にあたる嘉祥年間(848〜851年)に書かれました。その用途は、禁令などを交通の要衝に掲示し、律令政府の命令を広く伝達するもので、いわば古代のお触れ書であることがわかりました。

こんな感じで発掘されたとのことです。


何が書かれているかというと、

「朝早く起きて夕方遅くまで田んぼで働け」
「好き勝手に魚を食ったり酒を飲むな」などと書いてあります。
きびし~

あと倶利伽羅合戦ですね。


さて「れきしる」を出て、先ほどの交差点に戻る。


クワガタショップ・・・


旧街道を進みます。


おやど通り。


金沢から出発すると、この津幡が最初の一泊目になる。

よって宿が多くあったのです。

津幡川です。


対岸に大きなお寺があります。


たしか、吉本興業の月亭方正(山崎邦正)さんの親戚のお寺とか、





加賀神社?

周辺を探したんだけどみあたらなかった。

このあたりは集落の中を進みます。


太田地区


しばらく行くと視界が開け、田んぼが広がります。

旧街道は金沢に入ります。


今回はこれだけ進んだことになります。


グーグルマップではこう


次回は金澤森本編につづく。

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旧北国街道をゆく①倶利伽羅編

2018年08月18日 22時23分38秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
さあて行くぞ~!石川県内の旧北国街道を踏破するのだ。


オイラの強い味方を紹介しよう。
へいщ(゚ー゚щ)カモーン!

まつお出版「北陸街道紀行」松尾一 著 である。

参考になる文章もいいのだが、手書きで描いてある地図がルートを特定するのにわかりやすく大変ありがたかった。
オイラはこいつを味方の本と呼ぶのさ


スタートは、越中富山との県境の倶利伽羅峠から。

赤矢印からである。

ここでの旧街道は、まさに昔の姿そのままである。

ここは県内の旧北国街道でも最高の場所ともいえる
100m程度のこの場所は、ほぼ昔のままの姿といえよう。

オイラ何度も来ているお気に入りの場所です。


横にある石標は小矢部市となっています。

ここはまだ越中国ということですね。

帰って家で詳しく県堺を調べてみると、


どうやらここが県境のようです。


こんな感じで。



それでは旧北国街道加賀国スタート!



加賀に入るとすぐに左手に公園がありました。
そこに立っていたMAP看板。

(国境を描き込み(^^)/)

この倶利伽羅峠一帯は石川・富山両県が共同で旧街道の整備を行っています。


このあたりのこと味方の本によりますと、

倶利伽羅不動長楽寺という大伽藍があり塔頭も多くあったが。しかし江戸時代の火災や明治初期の廃仏によって廃寺となり、
今日では不動寺や手向神社、石仏など石造品で偲ぶばかりである。
江戸時代にはいわゆる宿場はないが、参勤交代の際の加賀藩主の休憩所となっていた。


右側に長い階段。


登ると、4社の石殿があります。

これは加賀藩5代藩主前田綱紀が寄進したものです。

旧街道に戻って進みます。

右手に見えてきました。


手向神社と倶利伽羅不動寺(伽の字を迦と表してますね)


かっこいい。


手向神社です。

建物内には石堂神殿が入ってるとのこと。
さっきの四社とあわせて五社になります。五社権現。

そしてその奥に、日本三大不動尊の倶利伽羅不動寺です。



旧街道に戻り、しばらく下りていくと、

加賀国最初の集落があり4~5軒のお宅がありました。

さらに少し行くと左に逸れる道がありそちらへ進みます。


歴史国道と。


その細い道を進むとなにやら看板が


馬洗い場跡とある。

かってここには湧き水を利用して馬を洗う場所があったという。

しばらくいくと、高台に開けた場所が


龍ケ峰城跡とあります。


登っててみよう。

えっほえっほ

へぇ~


おぉ~!ここは眺めがいいね。

遠くに津幡の平野が見えます。

ふむふむ


この城跡をあとにしてさらに進むと分かれ道に出る。


ここには道番人屋敷があったとあります。

簡易な関所みたいなものかね。

右の道が旧街道だ。


このあたりも昔の姿に近いんだろう。


おや、左手に看板があるぞ


一騎討跡とは、


これは興味ある場所です。


先を進もう。


雰囲気あるねぇ


あそこが旧街道のようです。


むむ!


車は進めません。


やっぱりいるのか・・・


いざ!

階段で下っていく。

一応持つか


今日は快晴なのだが、この道は薄暗い・・・


えっほえっほ


滑って転ばないように


このあたりを前坂と呼ばれ、大勢の兵士が身を隠せる地形、急こう配は戦略攻防の要所となったところです。

何かある!


石が入ってるのか?

前抜権現と書いてあります。

先が明るくなってきたぞ


そろそろこの林道も抜けるね。


いぇ~い


このお地蔵さんは旧街道時代のものでしょうね。

旅人の安全を祈ってくれたんですかね

しばらく行くと集落に入ります。


このあたりの集落は竹橋宿です。


ここには竹橋口の道の駅があります。

源平合戦、倶利伽羅の戦いの案内板もあって、


わかりやすい!

源氏軍の樋口隊がぐる~と周って背後から攻撃したんだ

倶利伽羅の戦いといえば・・・
火牛


さて今日はここまでです。

次回はあのガード下をくぐります。

はい、味方の本では赤矢印まで来ました。


今回これだけ進みました。


グーグルマップではこう


次回は津幡編です

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「街道をゆく」をきちんとしちゃおう

2018年08月17日 10時59分38秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
早朝に出掛け、先ほど倶利伽羅峠から帰ってきた。

いろいろ撮影してきたのさ。


なぜか・・・?




ブラオイラで「街道をゆく」として22回(+1回)にわたって県内の旧北国街道を紹介した企画シリーズがあります。

オイラはこのシリーズが好きで、毎回ワクワクしながら富山県(越中国)境から福井県(越前国)境まで歩きました。


各編急いで作ったこのブログ記事をリメイクとまでは言わないが、きちんと作って残そうと思いまして、
早速今朝、倶利伽羅編の部分の写真を撮ってきたところなのです。


今ある記事をベースに、必要な部分を加え、不要な部分を削除しながら
新たな写真も加えて、より良い作品記事にしたいと思っています。


そもそもこの街道の名前はなんと呼ぶのか?


オイラも最初は北陸街道や旧北陸道としたり後半は旧北国街道と全体的に不統一となっています。


実際各地の看板も津幡では旧北陸道だったし、松任では旧北国街道でした。
はっきりいって正解がわかりません。
参考になる本も多種にわたっており、加賀街道なんて呼ぶ場合もあります。

これを「旧北国街道」と統一したい。
これが一番オイラ的にはしっくりくる。


リメイクすることで、違和感が出る部分もあるでしょう。

正月より始まったこのシリーズは最初の写真には雪が写っているので、補充される写真では夏草生い茂るのが混ざります。
天気も晴れの日に撮影していきたい。

それに倶利伽羅編では重要な倶利伽羅不動寺を完全に無視したりしてました。

ただ街道を突き進めばいいというわけではなくて、当時から今も残る周辺の物々を紹介していくのも重要だと思うのであります。


半年たっただけで変更部分もあるかもしれません、

前の記事ではこう書いた部分も、
-------------------------------------

看板が倒れている。

津幡町さ~ん、倒れてますよ~!

-------------------------------------

今日行ったらこのようにきちんと直っていた。



こういう個所は、その部分を削除して修正したい。



メインページから各編にリンクで飛ぶスタイルとして22ある各編を20弱に集約したい。

スタンプや顔文字(^^)/を多く加えて読んでて楽しくしたい。

おそらく、
完成するのに1年くらいかかるから、工事中としながらも各編完成した都度都度でアップしていきたい。


とにかく石川県内という限定的ではあるけれど、
旧北国街道を一番わかりやすく、細かく、ていねいに紹介する
そんなブログ記事を作り残したいのだ。

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