てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

旧北国街道をゆく⑰加賀七曲り編

2019年09月07日 19時10分31秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
今日はここからですよ。


恒例の味方の本、
щ(゚ー゚щ)カラカラカモーン!

赤矢印から

では今日も元気に行こうかい!



さっそく右手に神社が見えてきた。


右手に見えてきた神社、串八幡神社です。

入ってみよう。

奉納


奉納


奉納


奉納のオンパレードだ。


これはなんだ?


へぇ、憲法発布記念とな


これは!


神龍!


かっこいい!


なかなかの神社です。


さてと、進みますか





左手の大きな敷地は小松製作所粟津工場ですね。


ほら、少し見えました。


右手にはバスの製造会社のジェイ・バスさん。


このあたりは大きな工場が集まった工業団地になります。

たしかこの付近に変わった公園があったはず・・・。

少し横道に逸れて行ってみる。

おや、

粟津牧場跡地、牧場があったんだね。

そしてここだ粟津公園。


ここには他の公園ではあり得ないものがある。


園内を本物の電車(旧尾小屋鉄道車両)が走るのだ。


駅もある。

車両は格納されてるね。

雰囲気のいい林の中を走る。


短いんだけどね。


さて旧街道に戻ろう。



月津に来ました。


火の見櫓が見えてきた、その下に石碑があり、


月津一里塚だ。


味方の本にも書いてある。


ふむふむ


しばらく行くと、


十村屋敷跡。

石川県内でちょいちょい目にする「十村〇〇家」という案内板。

(ウィキより)
十村制(とむらせい)は、江戸時代に加賀藩の第3代藩主前田利常が制定した農政制度で、地方の有力な農民を十村として懐柔、いわば現場監督として利用することで、農村全体を管理監督し徴税を円滑に進める制度である。改作法施行にあたって、十村はその業務範囲を広げ、加賀藩・富山藩・大聖寺藩における農政の実務機関としての役割を十全に果たした。

百万石システムの一つなんでしょうね。

正面に見えてきた茶色の大屋根。

興宗寺です。

ここでも明治天皇がご休憩されてます。


街道はここより少し下ります。


すると視界がパッと開けます。


味方の本によると、ここで見事な白山が望めるとあった。

見えますね。

雪があるとなお美しいですけどね。

いよいよ加賀市に入ります。


集落を進みます。



集落を抜けると、


出ました!

七曲り街道跡です。

味方の本にも書いてある。


案内板を読んでみよう。

戦国時代攻め寄せる軍勢の数や装備を読み取るために七曲りと呼ばれた曲折した道路があった。
近くにある勝光寺の鼓楼がその見張り場所だったと伝えられている。

なるほど、ぐねぐね道だ。


勝光寺はあの森(あとで戻って見て来よう)


よーしここは、ていねいに紹介しよう。

つまりこうである。

このように攻めてくる敵の軍勢は、
一本道の直線だとわかりにくいから、

(オイラ作 20秒

道をぐねらせた。この方が敵の数がわかりやすいからね。

(オイラ作 35秒

旧街道愛好家からするとこの場所は重要だぞ!
(なんでやねん!

では実際、七曲りを歩いてみよう。



ここは、


ここで、


ここは、


ここ、

あの説明板がなければ、これが旧街道とは思わないだろうね。

ここを曲がり、


ここを曲がり、


楽しいです。


道路に出ますが、


斜めに横切り直進するので、


そうしま~す

ここで注意なのは、
旧街道は左の砂利道ではなく、右のスクラップ置場を通るのです。

だから進みます!どすどす


けっこう大変っす。


そしてこの右折は、


こういうことです。


いやはや、我ながら、よくやるわと・・・


ここは、


ここで、

ここが、まさかの旧北国街道



また道路を斜めに横切るので、


横切りますが、


すぐさま曲がります。


こんな感じですね。


ぐねぐねと、





この七曲りはあったのです。


ここ最後のカーブを右折して、


もう少し


ここで、


ゴール

そして現代の道路と同じ場所につながります。

ははは、ちょっとしつこいくらいでしたね。


よし一旦、見張り台があった勝光寺に戻ってみよう。

あそこね。



着いた、ここ。


立派な門構えです。


へぇ~、


いいね。


あれか!


これが鼓楼といわれる見張り台だな。


ここから、先ほどの七曲りを進んでくる敵軍を見ていたんだ。


う~ん七曲りは見えないなぁ・・・。


もう少しだけ街道を進もう。


橋が見えてきた。


動橋大橋

ちなみに動橋は「いぶりばし」と呼びます。

動橋川。



今回はここまで、


ここですね。



今回はこれだけ進みました。
これだけ進みました。

ちゃんと最後の七曲りのところ、道がぐねってるね



グーグルマップではこう



次回は、加賀動橋編です。




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旧北国街道をゆく⑯小松串茶屋編

2019年08月25日 20時17分35秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
今日はここからですよ。


味方の本、いでよカモ~ン щ(゚ー゚щ)
はいよ~ 


赤矢印からスタートです



スタートしてすぐさま有名な神社が現れた。

多太神社です。


多太神社といえばこれ。

兜、甲、かぶとですよね。

斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)、斎藤実盛です。


そして松尾芭蕉ですね。


芭蕉がここで詠んだ句が

「むざんやな かぶとのしたの きりぎりす」です。

「きりぎりす」は、コオロギのこと。
この句は決定稿で、元の案は「あなむざんや 甲の下の きりぎりす 」だった。
斎藤実盛の遺品の兜、いまは秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。
このコオロギは実盛の霊かもしれない。
おいたわしい鎮魂の感情です。

オイラが松尾芭蕉の俳句で2番目に好きな句です。
ちなみに1番好きなのは、
「しずかさや いわにしみいる せみのこえ」です。
キリギリスにセミです


見たい・・・・

そのかぶとを見たい・・・。

旧国宝(国指定重要文化財)の斎藤実盛の兜。

なんとしても見たいのだ


だが!
無情にも宝物殿は閉まっていた。


社務所も人がいない・・・


「むざんやな しゃむしょまえの ひげおやじ」です。


しかたがないので、神社をじっくり見学します。


いいね、


松尾神社もありました。


芭蕉一行がここに訪れたのは1689年だから今から330年前。



先ほどから斎藤実盛だとか松尾芭蕉とか言ってますが、
ここで多太神社との関係を説明します。

<まるごと・こまつ・旅ナビから>
芭蕉も感激した「実盛の兜」
遥か昔、503年の時に創建されたと伝えられている歴史ある多太神社。ここには、とある伝説の兜が奉納されている。国指定重要文化財で、旧国宝でもあった、斎藤実盛の兜である。
時代は平安末期、源平合戦のまっ最中。兜の持ち主だった斎藤実盛は、平家の武将として戦っていた。倶利伽羅峠の合戦で敗れ、加賀の篠原で再び陣を取り戦ったが、木曾義仲軍の前に総崩れとなった。そんな中、実盛は老体であったが踏みとどまって奮闘し討ち死にした。その後、義仲がその首を池で洗わせると、墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、幼い頃に命を救ってくれた実盛の首だとわかった。義仲は人目もはばからず涙したという。実盛は出陣前からここを最期の地と覚悟を決めており、老いを侮られないようにと白髪を黒く染めて出陣したのだ。時に実盛73歳の老齢だったという。
後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納したのである。
この兜にまつわる実盛と義仲の話は『平家物語』巻第七に「実盛」として語られている。
それからずっと後の元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が「奥の細道」の途中にこの地を訪れた。兜を見た芭蕉は実盛を偲び「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んだ。境内には句碑が建っている。

1183年に奉納されたとすると、この兜、830年以上も前からここにあるのか・・・。



境内でウロウロ見学していると、
奇跡が起きた!

神社の責任者の方がふいに現れ、
「見学してきますか?」と声をかけてくれたのです。
<ヤッター!!!


この宝物殿には多くの宝物がありました。
写真OK!

なんとこの書は松尾芭蕉直筆なのである。

(左の箱に入っているぼろぼろの短冊ね、薄くてほとんど読めません

いろいろ解説していただけました。


おぉ、


そして実盛の兜です。

(近くで撮るのはご遠慮とのことから遠くから


良かった・・・・
これは貴重な見学でした。

あの兜は国宝級です、いえ実際に国宝でした。
ただあまりにも古くて相当傷んでたので、国の要請で明治の時代に修復しているんです。
その後の国宝基準としては修復した物を認められなかったので国指定重要文化財となったのです。



さて街道の続きだ。



多太神社前の道を左に進む。


燈明寺。

鮮やかな緑と赤の色合いです。



しばらく行くと不思議な神社がありました。


ほう~、


なんだこの像は!


こわっ!


悪魔祓いだって!?


鎮火記念?


裏に刻んである文字を読んでみると、

大正四年五月三十日正午時出火
同午後三時鎮火全焼七十二戸

このあたりで大火があったのです。

進もう


しばらく歩くと、


また神社があった。


いいね。


巨大絵馬(宮司作)

お上手

おっ!


これはなんだろう。


こういうの興味ある!


ふむふむ


青竜、朱雀、白虎、玄武と四神で結界を張っていた。


みなぎる力をオイラに!


ではまた進もう。


前川です。


今江。


今江といえばこのあたりに大きな湖がありました。

再度、味方の本カモーン   


今江潟という大きな湖があったのです。

木場潟、柴山潟とあわせて加賀三湖と呼ばれていました。

ではその名残りを見てみましょう。


ここに拡がっていたんだ。


碑文には、「いま、眼前に拡がる美田は誉て満々と水を湛える湖であった・・・・・・・、」




三叉路が出てきた。


いよいよ串茶屋だ。
大聖寺藩の公認茶屋街だった場所です。


ここには全国でも珍しい遊女の墓がある。


手作り感の強い案内標柱があります。


当然行ってみる。


ここだ。


どーん!


なぜこの墓地が名所となるというと、
遊女が一括供養されるわけでもなく個々に手厚く葬られている全国でも例がない場所だからです。


あの有名な江戸の吉原にもありません。

源氏名で「きぬ」「品川」「しの」「若藤」など、

どういう遊女達だったのか興味が出てきます。

街道に戻って歩きます。


一里塚跡だ。

江戸から128里(中山道回り)ですか。


おっ!


映画のワンシーンに出てくるようなバス停だね。


民俗資料館と御小休所があります。


やった!開館中だ


おじゃましま~す。


すっごーい!

実際に遊女たちが使っていた品が残っています。

係のおじさんが親切に教えてくれました。


遊女達が書いた手紙。

遊女とはいえ当時としては文字が書ける知識人だったのです。

そして遊女たちが作った物もありました。


たくさん貴重な物がありました。


そしてここは、
先ほど看板に御小休所とあったように、大変畏れ多い場所なのです。

なんとこの部屋、あの明治天皇がご休憩されたお部屋なのです。


今から140年前の明治11年10月6日のこと、
明治天皇の北陸巡幸の際にここにお立ち寄りになったのです。

そのまま、部屋が残っているなんてまったくもって驚きです

ここで明治天皇はお茶をお飲みになったのでしょう。
明治天皇と昭憲皇后の御真影が掲げられていました。

当日門前に立てられた「御小休」の立札。


パンフをもらいました。


おっこれはいいね。

当時の街道沿道地図です。

明治天皇がお休みになったこの場所は、能登屋という酒屋さんでした。


そして係の方が教えてくれたのですが、唯一残っている建屋があります。

それがこちら、


へぇ、


山屋さんですね。


空き家になってから長年たち、傷みも激しく近く取り壊されるとのことです。

もったいないなぁ、このような貴重な建物は少し整備して残すべきだと思いますが・・・。


そしてこの地図によると、さきほどの三叉路のこのあたりは、


ちょうど加賀藩と大聖寺藩の境で番所も置かれていたんですね。

ちなみに大聖寺藩は加賀藩の支藩になります。


この神社も遊女に関係してまして、


この本殿の


横にあるのが、これまた全国的にも珍しい


おいらん燈籠なるものがあります。


文久三年(1863年)に東木屋の遊女が寄進したと書いてあります。


このお店ですね。


串茶屋で働いていた遊女達は、普通の人同様に堂々と生きていたんですね。



さて、今日はここまでにします。



今回はこれだけ進みました。




グーグルマップではこう






次回は、加賀七曲編です。



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旧北国街道をゆく⑮小松京町編

2019年08月18日 12時35分07秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
今日はここから~


味方の本、カックラカモ~ン щ(゚ー゚щ)
ほいきた~ 

小松は、北から松任町、京町、竜助町とクランク状にあり、本陣、脇本陣、問屋場が置かれた宿場として賑わいを見せていた。
と書いてあります。


梯川沿いのドロ町改め大川町から


このあたりは新しい町並みですが、しばらく歩くと

旧街道沿いの家並みがあらわれます。


こういう古くからの町屋が


多く残っており、


そういうお宅には玄関にこれが貼ってあります。


ここは松任町。

慶長三年(1597年)小松城主として丹羽長重が松任から移ってきた際に松任の町人たちも移住したことに以来する。

この交差点を右折します。





京町です。

名前からしてわかる通り、ここは小松の中心で昔は相当賑わっていた地域だったとあります。

ここには小松城の三の丸跡地である芦城公園(ろじょうこうえん)があります。


入ってみよう。


説明板があった。

江戸幕府は一国一城令の例外として金沢城の他に、前田利常の隠居城として小松城を置くことを許可した、とある。

明治時代に公園として整備され、松や藤の名木があると書いてあります。


これは立派な藤の木だなぁ。


すごいね!

これは国内トップクラスの巨樹の藤なんだってさ。

兼六園とまではいかないけど、なかなかの庭園であります。


滝もありました。


いいお庭です。


なんだこれは!


珪化木(けいかぼく)

植物の化石で小松の山間部にある瀬領町で発掘、
およそ三千年前に火山灰に埋まり炭化したんだって

すごいなぁ~、三千年前とは・・・

マジマジ

芦城公園を突き抜け、もう少し進むと


小松城天守閣跡があります。


はいどん!

いいですね。

階段がありました。


その時、ゴォォォ・・・と音がしたので空を見上げると全日空の飛行機が、

小松空港が近くにあります。


さて先ほどの道に戻り、


旧街道を歩きます。


大通りも越えて、


これまでも何度か見てきた高札場跡です。


この小さな川と小さな橋は、

九龍橋川と、

九龍橋。

そして旧街道は、


またクランク、

鍵型道路ともいいますが、防衛上の役割をもっています。

味方の本にも、
松任町、京町、竜助町とクランク状にあり、とあるからね。

竜助町に入りました。


このあたりに、


味方の本によると、一里塚跡があるはずだ。


立派な町屋のお茶屋さんがあります。


あっあった。その前にあったよ。

一里塚跡の看板。(簡易タイプ

猫橋とな!?


ほぉ、


このあたりは、


特に、


お寺と神社が集中しています。
この神社はおもしろそうだ、入ってみよう


本折日吉神社。


なかなかの特徴的な神社のようでして、


ここの神社、日吉神の使いとして、

神猿の真猿(マサル)というお猿様

おぉ~これがマサル様である。


とにかくこの神社には、多くのものがあります。

大黒天様の前に、叶い石。

願いを込めて撫でるのだ

磐座(いわくら)?

すみません、意味不明です

弁財天の神使いの蛇に、


子授け石に

若い夫婦よ願いを込めて撫でるのだ

針塚に、


これは、


芭蕉留杖の地。

小松を一泊して去ろうとした松尾芭蕉を、小松の人々に引き留められてもう一泊したんだって、
その夜に開かれた句会にて一句よんでいる

『しほらしき名や小松吹く萩すゝき』だ。
訳:小松とはなんと可憐(かれん)な地名であることよ。その名の通り、この辺りの野には、かわいらしい小松が生えていて、その小松の上に吹き渡る風が萩やすすきをなびかせて、旅愁を感じさせる秋の景色である。


旧街道に戻り、


北国夢街道。





おっと出ました。

本折地蔵堂、浄水地蔵尊です。

ここにかってあった龍昌寺に松尾芭蕉が泊まったのですね。



さて、今日はここまでにします。




今回これだけ進みました。





グーグルマップではこう






次回は小松串茶屋編に続く。




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旧北国街道をゆく⑭小松梯川編

2019年08月14日 21時46分24秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
今日はここからー!


そ~し~て~味方の本、キャモ~ン щ(゚ー゚щ)
は~い


赤矢印からスタートです。

「旧北国街道をゆく」はいよいよ小松に入ります。
小松と言えば、名君だった三代藩主の前田利常の隠居地ですね。

さぁ今日も晴れ がんばるぞい!

国道8号線をくぐって、


小松高堂町に入ります。


すぐさま右手に見えてきたのは、


高堂遺跡公園です。

う~ん残念、看板が剥がれてしまっていますねぇ

高堂遺跡

国道8号線工事で発掘されたとありました。

進みます。

旧街道って融雪装置が付いている割合が高いと思うな。

鉄分を多く含んだ地下水により道路が赤く変色しています。





右手を見ると遠くに北陸新幹線延伸工事中の高架橋が建設されていた。


味方の本では、このあたりに長田の一里塚があったとあるが、


あった!

それにしても、もう少し・・・

交差点あって右に行くと旧根上町に行きます。

ここは直進します。

JR北陸本線をくぐり抜けて進みます。


しばらくすると、


左に神社が、

島田白山神社。

境内のこの杉、


昭和天皇陛下御手植之杉とある。

へぇ~、植樹祭の一本が移植されたのかな・・・。

高架下をくぐってと

今回は何かとくぐるねぇ。




しばらく行って斜め交差点の左を進みます。


おや


新幹線工事現場に出ました。


小松駅につながります。


旧街道沿いの旧家の特徴は、軒先が低いというのがあります。

家の前を通るお殿様への辞儀を表しているとか、

左に曲がり


川の土手に上がります。


小松の氾濫川、梯川(かけはしがわ)です。


梯大橋


脇に小さな緑地広場があって、


延命地蔵尊があって、


何かの説明看板も設置してあります。


梯大橋の歩み。

そこには興味深いものが書かれていました。
平安の時代はこのあたりでは海の近くを通る浜手街道と山の麓を通る山手街道があったが、平野部が開けるにつれて浜手と山手の中ほどに北国街道ができた。
梯川は最初は舟橋であり、水が多い時は橋板を増し、水が少ない時は橋板を減じ、洪水が予見できた時は橋板を外して舟の流出を防いだと。
そのように橋を架けたり外したりしたので、この橋が「かけ橋」と名付けられ、そこから梯(かけはし)川となった。
橋の名から川の名になったというまれな川だと書いてありました。


そんな歴史ある橋を渡ります。


左手を見ると、新幹線の橋梁工事現場があった。


この川は豪雨になるとすぐ「氾濫するかもー!」といつも大騒ぎになります。



あっこれ水位を測るやつだね。


橋を渡ると、


また公園があって、

かっての橋の一部がモニュメントとして保存されていた。

説明板によると、
昭和12年に架けられたローゼ桁橋は当時としては技術的に難しい造りだったと書いてありました。


公園前の電柱に、

旧北国街道 小松の玄関口 歴史の道と街  
旧町名 泥町

ドロ町とはこれまた・・・

先ほどの公園にその説明板があった。


やはり昔から氾濫ばかりしていた困った川だったんだ。

氾濫する度にドロの街と化したって・・・


大通りが見えてきた。


101号線にぶつかります。



ここで注目する場所があります。

川に浮いてるような島に建つ神社。


まるで軍艦島です。


説明板があります


神社と風水的な説明から、


分水路の説明。


写真による工事の過程。


氾濫する川から神社を守る知恵なんですね。


小松天満宮(小松神社)です。





松尾芭蕉句碑

あかあかと 日は難面も あきの風
(意味:もう秋だというのに太陽の光はそんなこと関係ないふうにあかあかと照らしている。しかし風はもう秋の涼しさを帯びている。)

これは赤門(朱塗りの門)だ!

これだけで格式が高いというのがわかります。

願かけ撫牛

なでなで

むむ


前田家とのつながりも深いようです。


おぉ~、


いいね。


へぇ~、


能舞台を移築したのか。


石標がある。


なんと!

朝起き会発祥之地とあるではないか。
「朝起きはお国を興す第一歩」だって、

朝起き会については何度か記事で書いたけど、小学生のころ母親に連れられて半場強制的に参加してたのだ・・・
いい活動なんですけどね、なかなか大変でした

ここが発祥の地だって!?正直驚いた。

なるほど、そうだったのか。



小松天満宮はなかなか面白い場所でした。
この場所をあとにして旧北国街道に戻る。


さてここで、街道について考える。
街道、昔の道・・・。
先ほどの看板説明でも少し触れていたが、旧北国街道よりはるか昔にも街道はあった。
古代律令制国家によって都と諸国の国府を結ぶ官道がそれであり、このあたりでは今よりもっと海に近い場所を通っていた。
官道には一定距離に馬が置かれている駅があったが、加賀国の場合下から朝倉駅、潮津駅、安宅駅、比楽駅、田上駅、深見駅といわれている。
名前が同一で場所が確定的なのは唯一安宅だけである。


梯川の下流に位置する安宅の町、街道つながりで足を延ばしてみよう。


梯川の河口。


日本海です。


このあたりに古道(官道)が通っていたことになる。


安宅関の跡。


武蔵坊弁慶の勧進帳で有名な場所です。


「旧北国街道をゆく」が終了したら、「旧北陸道(官道)をゆく」でもしようかな
いかんいかん
当面は旧北国街道に集中しなきゃ、
戻ろう



さてと、
今日はここまでにしときます。



ここまでね。




これだけ進みました。



グーグルマップではこう




次回は小松京町編に続く。




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旧北国街道をゆく⑬寺井編

2019年08月03日 19時30分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
はいはい今日はここからー!


味方の本、
カモン!カモン!キャモ~ン
щ(゚ー゚щ)
ぴゅう~


青矢印からのスタートです。

ほんでもって、相棒の「いっぱち号」もカモ~ン
ヘ('∇'*)オイデ

ほいさっさ~


ここは粟生(あおう)。


そうだあそこ寄ってみよう。



ここ、ここ


オイラが気にかけてる場所。

竹藪用水です。

トミヨの国内自然生息地南限の場所。


以前湧き水が出なくて枯れた際は、
まさに絶滅寸前(残り数匹まで減少)だったが、いまは復活しているようですね。

よし、ちゃんと湧いてるね。


本当に大事な場所だから・・・



安心して先ほどの交差点に戻って進みます。


旧街道はこの交差点を右折するのですが、


この近くに興味深いものがあるので寄ってみます。


能美古墳群です。


県内最大、北陸最大の前方後円墳。


登ってみます。


石室に入れるようですね。


すごいですね~。


ここからの眺め最高!


さて先ほどの場所に戻って、進みます。


寺井というくらいだからお寺も多いのかな。





神社だ。行ってみよう。


粟生八幡神社


うむ。


引っ張ればいいんだね。


えい!

あれ、固定されて動かなかった、残念

家と家の間を流れる豊富な水。





旧街道の風情


分かれ道ですが、これは左に行きます。


道沿いに神社があった。

あれ道に対して社殿が後ろ向きだ!


これはあり得ない!
そうこの道は旧街道ではないということ。

古くからある神社やお寺が道沿いにある際は必ず正面に向くもんです。
戻りま~す。

地域地図がありました。


旧街道はこうですね。


こういうことが、わかるようになりました・・・。

神社の正面に出ました。

吉光八幡神社。

入りま~す。


由緒を読んで疑問が生ずる

刀工吉光の事が書かれており、加賀一の宮に刀を献じたとあるが、これって国宝の剣「吉光」のことだろうか・・・?

進むと右手に見えてくるのが、旧北国街道で必ず紹介されるもの


そう吉光の一里塚です。味方の本にも書いてあります。

それにしてもおかしい一里塚なのに街道から離れすぎてる。

行ってみよう。


出ました吉光の一里塚です。


旧北国街道を紹介する書籍やネットの情報でも、
この吉光一里塚は大抵紹介され、ここの写真が掲載されている。

ここは重要だからじっくり読みます

①もともと粟生宿駅にあったもの。
②南北一対で存在したが手取川の洪水で北側一基が流れた。
③県内で一里塚が現存しているのはここだけ。
ということである。

そうか旧街道から離れているのは移動したからだったのだ。

先を進みます。


脇に流れる用水の水が涼しげです。


見っけ!

これまでも何度が見てきた道路元標。

丁字路を左折します。


進みまして


この道を右方向へ。


そしてここから注意です。

味方の本、再度カマ~ン!!!

赤枠をよく見て欲しい、
旧街道はさらに右に折れているのだ。

ここだね。


進んで、


ここを左折します。


道路にぶつかりここを越えていきます。


この空間は旧街道の名残りですね。


寺井の中心部に入って行きます。


右の電柱の下に何かあるぞ


またまた道路元標です。

寺井野村とあります。




立派なお宅、元庄屋さんかな


おっいいものみっけ!

三十一辻てら散歩ルートだって。

興味深いものもあります。


これは北国街道の松か。


そして、
火よけの刀の舞台、即得寺へ向かう。


たしかに山門横に狐塚がありました。



そして、寺井中学校にあるこれ。

ここに旧宮家の標柱が立っているのは謎だとか・・・。


小さな橋が現れました。


南天橋。


これは九谷焼ですね、さすが寺井です。

旧街道の風景を描いてるようです。

橋を渡ってすぐさま右に折れます。

この道の赤い色は、融雪装置からの水だろうね。

鉄分を多く含んだ地下水が酸化して赤く道路に付着したんでしょう。
たまに道路で見る光景です。

鉄分凄っ!!

なんだペンキか・・・

左の建物は武道館です。


寺井病院。


この前にあるこの小道は廃線となった能美線の跡です。


旧街道は町を抜け、


国道8号線にぶつかります。


今日はここまでです。



今回はこれだけ進みました。





グーグルマップではこう





次回は小松梯川編に続く。




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旧北国街道をゆく⑫手取川編

2019年05月25日 21時35分02秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
本日はここからです。



はい味方の本! щ(゚ー゚щ)来てよ来てよカモーン!
 

ここですね。



国道8号線を越えて進みます

ここは福留町。

しばらく歩くと、左手に神社が現れます。

味知郷神社と、変わった名前ですね。

入ります。


むむ

目標の松の木とあります。

この木です。

漁師の方々が遠く海からこの松を見て、漁場の位置などを目安にしてたなんて驚きだよ
その最後の一本か・・・、

面白い神社ですね。


進みますよ~


合流します。


ん?太鼓の里?


浅野太鼓さん。

創業慶長14年とあります。調べてみるとなんと400年の歴史を持つ和太鼓会社でした。




おや?なにかあるぞ。


説明があります。

ふむふむ

ここについては、味方の本にも写真つきで掲載されています。

かつては泉が湧き旅人の咽を潤していた夏の水観音から・・・と書いてあります。

泉が湧いた場所、これですね。

じ~


おや

源兵島とあります。

島と付く町があるということは、手取川が近いということですね。

手取川は相当の暴れ川だったから、
大雨により氾濫洪水も多く、周りの土地は水満たしになり、その風景はまるで島のようになることから、
手取川周辺には島が付く町が多くあります。

それにしても源兵という名が気になる。
源平合戦の源軍兵士の由来でもあるのかな?

武甕槌神社です。


燈籠多し!



さらに進みますと

左手に郵便局が見えてきました。


郵便ポストの横に一里山跡の碑があります。

一里塚のことですね。



水島。また島ですね。


集落から抜け左手を見ると、
収穫前の麦畑の向こうに白山が見えました



味方の本によると、

源兵島から水島へ進むが、この二つで一つの宿駅としており、手取川の洪水の時には繁盛していたと書いてあります。


ほどなく川北町に入りました。


木呂場「ころば」と呼びます。

カワイイ名前ですね。

さてこの辺りか、


味方の本、再びカマ~ン!щ(゚ー゚щ)


問題はここなんだ・・・

ここから旧北国街道は今の道路から外れて存在したことになってるんです


町内案内図があります。


あそこ、


こういう感じで旧街道は走っていました。

向うの神社前の道につながるわけで・・・

だから当時はこういう感じで道が続いており、


この緑地部分はその名残りと思われますが、


そして反対のこちら側につながっていたんです。


では進みましょう。


左に神社、少彦名神社。


右に・・・・


出ました!
明治天皇御小休所です。


記念碑に


説明の碑文

1878(明治11年)年10月5日、明治天皇北陸御巡幸の際、手取川を渡る前に、この地にあった木呂場(ころば)の茶屋で御休憩された。
当時手取川に橋は架かっておらず船で渡っていました。しかし天皇御巡幸のときは危険なので船を数珠繋ぎに並べ板を渡した上を駕籠で渡られたとある。

ここは松尾芭蕉も通過しています。


さてと、


また道がない・・・

直線上にあったはずです。

どんどん進みたいが、


さすがにここは無理です。


しかたがないので現代の道を行きます。

もう能美市に入りました。

川北町は東西に細長いので、入ったと思ったらすぐ抜けました。

旧街道は、この採石場をぶち抜いてあったっことになります。


そしてようやく、


手取川に到達します。


さてと、


左手眼下の河原を見ますと、連日の好天で川の水が少ないですね。なんか干上がってる感じです


旧北国街道はそのあたりにあったことになりますが、このような感じかな、


旧北国街道全行程での最難所といえば、越後(新潟県)にあった親不知でしょうが、
加賀国内でいえば、きっとこの手取川が一番だったでしょう。

こんな暴れ川に橋は架けられません。
橋が無い以上、舟で渡るか徒歩で渡るかですが、
雨になれば何日も足留めを食ったはずで、先ほどの源兵島・水島で待機ということになるんでしょうか。


この説明板によると船頭が両岸に張ってある縄を辿りながら小舟で渡っていますね。


でも今日のように水が少ないときは、きっとラッキーでほとんどの者が徒歩で渡ったはずです。

あのあたりから河原に下り、


石コロに足を取られないように、


多少は濡れますが当時の旅人にとっては全然楽勝だったと思います。



この水量なら行けるな・・・

オイラも手取川を渡河するぞ

がるるる・・・。、


河原に向い、


降りたつ


がおぉぉー!!!

石ころがなんだ


流木がなんだ!


オイラはこんなもん乗り越えていく


おっ
川が見えてきた。


むむ


ごくり


左を向くあそこなら・・・、


ここなら渡れそうだぞ。


うぉぉぉ・・・


ジャバ


ジャバジャバ


もう少しだ。


よし!


上陸


対岸に着いたぞ。


えっほえっほ


ふぅ~


あれ、


TFLか・・・

あっ「手取フィッシュランド」のことね


旧街道はこのフィッシュランドも突き抜けて、


このあたりに出たはずで、


こういう感じだったのかなぁ、

その木は街道沿いの名残りのようにも思えるし。


味方の本によると、この先の交差点付近で合流しています。



その交差点に到達です。

今日はここまで。



今回はここまで進みました。




グーグルマップではこう





次回は寺井編に続く。





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旧北国街道をゆく⑪松任荒屋柏野編

2019年05月06日 00時00分01秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
本日はここからです。


味方の本! щ(゚ー゚щ)おいでおいでカモーン!
 

ここですね。



和菓子のあんころで有名な圓八(えんぱち)さんの手前を左折して入って行きます。

元文2年(西暦1737年)創業、280年の歴史があります。
まさにこの場所にて創業されてますので旧街道を行き交う旅人相手に商売をし始めたのでしょう。




出城八幡神社


変わった名前の神社ですね。





通りを突き抜け


右手の用水路に並行して歩きます。


ふむふむ





ふむふむ





ふむふむ





北国街道の案内板がありました

こちらは北陸街道で案内してますね。

ふむふむ


これですか。


ここには、松任総合グランドがあって少年サッカーの試合をやってました。

・・・・・・息子もやっていたからね、あれからずいぶん経ちます。



そして国道8号線にぶつかりました。


国道8号線を越えると


左手に見えてきたのが


本村井神社。国道8号線から見えるこの神社看板、前々から気にはなってたんだよねぇ

本村神社?村井神社?いいえ本村井神社です

ほんで境内長っ!


途中で鳥居が出てきて、


さらに進んで二つめの鳥居と奥に社殿です。


いい感じの古井戸がありますね。


あっ逆さ狛犬だ。


さて神社を離れて進みます。


おやなんかある。

一木村発祥の地とあります。

そして国道8号線に出ます。


当然ですが、旧街道の後にこの8号線のような直線的な近代道路ができるわけで、
旧道と新道ではこういう交差がちょいちょいあります。

越えてさらに進みます。

右手に林木が出てきました。

神社ですね。


宮丸楢本神社(みやまるならもとじんじゃ)


これをAとします。



進みまして、すぐに左折します。


ふうん


こんな狭い道が北国街道だったのか


集落の中を歩きます。


集落を流れる用水には豊富な水量。


そしてまた国道8号に出ます。


向う側へ渡ります。


越えると、ダンス喫茶ポルカなるものが右手に出てきます。

う~んなんとも怪しい・・・

あっここは、


味方の本にも、このあたりは加賀藩の鷹場であり鷹小屋があったと写真付きで載ってます。


一里山跡(一里塚跡)


また集落に入ります。


なんか書いてあるぞ


大宮寶社跡

「ぼ」の字が難しすぎる・・初めて見たわい
ここを、Bとすると、さきほどの⇒A宮丸楢本神社に遷座されたわけですね。

おやここに出るのか、


最近できた道の駅「めぐみ白山」です。

入ってみる。

この付近の大きな空撮写真パネルがありますが、


よく見ると


今通ってきた旧北国街道がわかります。


さて続きを歩こう。








またまた国道8号線と交差します。


荒屋柏野町に入ります。


白山神社

黄色いしめ縄が眩しい。




芝生がきれいに管理されている柏野じょんがら公園


この地も学校跡で柏野小学校跡とあります。


これまでもよく見てきた学校跡の碑、
多くの学校が統廃合されたってことですね。

この公園には北陸街道(旧北国街道)の案内板がありました。


おっ結構見所あるね。

大池があったのか、
道番ってのも気になる。
鬼一法眼道場って剣道場かな?恐ろしく強そう。




あれ、また楢本神社だ。

ここをCとすると、
B大宮寶社⇒(分祀等で)A宮丸楢本神社とC楢本神社のような変遷のようです。

ふむふむ


この楢本神社には、


こういう貴重なものが収められています。


さらに進むと


右に出てきたのが、


明治天皇御小休所です。


明治天皇の行幸は5回行われ、3回目が北陸行幸でした。


詳細が書かれています。

御年27歳の明治帝が北陸行幸(北陸東海道巡幸)の際、明治11年10月5日の午後0時5分にこの地で休憩された。
今から140年前の出来事である。

進みましょう。





また見えてきましたね国道8号線。


今日はここまで



味方の本ではここ。



今回はここまで進みました。




グーグルマップではこう





次回は手取川編に続く。




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旧北国街道をゆく⑩松任中町編

2019年05月03日 22時12分39秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
旧北国街道をゆくは、
松任(現白山市)に入りました。

県内の街道ではちょうど半分くらいでしょうか。

さて、本日はここからです。

国道8号線にぶつかるこの場所から。


味方の本! щ(゚ー゚щ)カッカッカモーン!
 


目の前の国道8号線を越えて行け。

進むぞー!

ざっ


ざっ


ざっ


ざっ


ざっ



ちゃんと残ってるもんです旧街道の名残りは


オイラは、


こういうものに小さな感動をおぼえるんだよね。


県道横のこんなちっぽけな小道、
その昔多くの人が往きかった旧北国街道だったということを知ってる人はほとんどおるまいて。


県道に一旦出て、


斜めに横切ります


この辺りはぐねぐね道だったんだね


おや、左手に何かある。


なんだここはいろいろあるぞ、


立派な忠魂碑と


道路元標と(ほとんど見えない


郷小学校跡に


そして・・・・、

順徳天皇御神霊御駐車所跡!?
なんだそりゃ!
相当経過してるのかよく見えないが、たしかに駐車所跡と刻んである。

なんだ!
なんでこんなものがここにある?

まず順徳天皇であるが、

(ウィキより)
順徳天皇は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:1210年12月12日~1221年5月13日、父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した。

佐渡に配流!?
この旧北国街道を通って佐渡へなのか!

その際に休憩所、輿に乗っているだろうから駐車所と称するのか。

ネットでいろいろ調べてもわからなかった・・・。


進もう。



また県道に合流します。


しばらくは同線上を歩きます。


そして海側環状線道路に出ます。


左を見ると、

コストコがあり、

右を見ると、

北陸新幹線の白山車両基地へとつながる高架線が見えます。

海側環状線道路を越えます。


しばらくして国道から右に逸れる道へ


入ります。


おや!


用水があり、


一里塚橋がある。

この辺りに一里塚があったんです。

クランクの旧街道を進みます。


通りも越えます。


白山駅の近くまできました。


だけど駅には向かわずここで左折します。


ここには面白い石標があって、

停車場往来とあり、大正三年の松任駅開設の際に設けられたそうでして・・・。

進みますね。


またまた通りを越えます。


静かな住宅街を通過してますが、


急に開けた場所が、


ここは江戸時代に設けられた延焼を防ぐための火除け地です。

金沢では広見なんて言い方をしてましたね(例:六斗の広見)

この後ろにいい感じのお寺もあった。


小さなしゃちほこがある





おや、なんか古そうな町の医院が出てきたぞ。


え!・・・

これって最近少し話題になった悪法の名残りじゃなかったっけ・・・


行こ行こ


左手方向から大きな屋根が目に入ったので寄ってみる。


大きな屋根の本誓寺です。


次は、


本陣跡が出てきました。

加賀藩や大聖寺藩が主に利用したとあります。

味方の本にも、

北陸街道は松任に着く。古くは松任城があり、江戸時代当社には加賀藩の御旅屋(おたや)があり、のち加賀藩本陣が置かれるようになった。
と書いてあります。


もう少し行くと通称千代尼通りに出ます。


石標があります。
見にくいけど「左金沢道」、


「右京都道」とあります。


この通りが面白くて、
街灯に通りの店主の似顔絵が吊ってあったりします。


左手奥にモダンな建物。


これはいいね。


明治洋風館とあり中に入れます。


明治時代の産婦人科の建物。


当時の医療用具が陳列されてます。


さらに進みます。


この辺りは宿場町松任の中心部だったようです。

この交差点で、街道から外れて右折してみます。


正面に見えてきたのが、


願念寺です。


さらに進むと松任城跡公園。


街道に戻って進むと、


御旅屋跡

江戸時代の加賀藩で藩主の鷹狩、民情視察の際に宿泊や休憩のために使用された施設のこと。参勤交代の際にも宿泊施設として使用されていた。

高札場跡

藩主が決めた法度や掟書などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所。


そして松任といえば加賀千代女です。

そのゆかりのあるお寺がここになります。
聖興寺ですね。


この寺には千代尼塚があります。


※加賀千代女(かがのちよじょ、1703年(元禄16年)-1775年10月2日(安永4年9月8日))は、江戸時代で最も有名な女性俳人。千代、千代尼などとも呼ばれる。
朝顔を多く歌っていることから、出身地の旧松任市では市のシンボル、合併後の現・白山市では市の花に選ばれた。白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。
「朝顔やつるべ取られてもらひ水」が有名な句。

いい寺だなぁ。


今日は天気もいいので、緑が映えます。


ここか、

千代尼堂もあります。

千代尼塚です。


進みます。



中町交差点も通過します。


ふふ。





家と家の間を用水が走ります。


出ました。

これまでも何度か出てきた木戸跡です。

こんな感じだったのかな。


左手にお菓子のあんころで有名な圓八(えんぱち)さんが見える。


今日はここまで



味方の本ではここ。




今回はこれだけ進みました。




グーグルマップではこう




次回は松任荒屋柏野編に続く。




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旧北国街道をゆく⑨野々市編

2018年11月05日 21時00分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
本日はここからです。

高橋川を渡ったここからスタート


今日も味方の本! щ(゚ー゚щ)くるくるキャモーン!
 

野々市町(ののいちまち)と紹介されてますが、現在は野々市市(ののいちし)ですね。


おっいいね

ちゃんと表示されていることが大事です。

157号線の高架下をくぐります。


その壁面に何か描いてある。

野々市の市木で市花である椿(つばき)が描かれていますね。




少し進むと、

北陸鉄道石川線が現れました。

右見て


左見て


渡ります

もう少し進むと何か看板があります。


大乗寺跡だ!?


(ウィキより一部抜粋)
弘長3年(1263年)、冨樫家尚が野市(現在の野々市市)に真言宗の澄海を招聘して創建したという。←これね
暦応3年(1340年)足利尊氏の祈願所となるが室町時代後期、戦乱に巻き込まれて焼失した。その後、前田利長の家臣・加藤重廉が檀越となり、寺は木新保(現在の金沢市本町)に移転した。
さらに、江戸時代初期には 加賀藩家老本多家の菩提寺となり金沢市本多町に移転している。
寛文11年(1671年)には中興の祖とされる月舟宗胡が住持となり、次代の卍山道白(延宝8年・1680年住持となる)とともに寺の復興に努めた。
寺が現在の金沢市長坂町に移転したのは元禄10年(1697年)のことである。

(拝借
オイラの好きなお寺です、あちこち移転ばかりしていろいろあったお寺なんだねぇ




旧街道沿いに白山神社。


旧北横通の石標


こっちにも

旧一日市通と。

野々市市はこの旧街道を大事にしているんだね。


はい突き当りました。


この旧北国街道ではカクンと90度の曲がりを経験していたね。
津幡でも橋場町でもありました。
なんとなく旧街道というのは、なだらかなカーブ道のイメージがあるんだけどね。

看板で確認しても。


ここからしばらく旧街道らしくなります。


まずは、右手に森が現れる。


布市神社(ぬのいちじんじゃ)



古い建物が何軒か続きます。


おっこれは


道路元標ですね。


野々市村

森本でもあったし、橋場町には石川県の道路元標がありましたね。


右手に、


重要文化財の、


喜多家住宅です。


その正面にあるのが、


野々市市郷土資料館です。

入館料無料
もちろん入ります

すごい梁(はり)だ


いいですねぇ~


入ると高齢男性の係員の方より親切にご説明いただきました。

この前の通りでは大火に見舞われ多くの建造物が焼失したこと、
だからこのような古民家は他の場所からの移築がほとんどとのことです。
その他、野々市の歴史的なことや旧街道のとなど楽しい会話ができました。

では進みます。


さてここからの旧街道が難しいのです。

さきほどの地図もチェックだ。


どうやら現在では道がないようです。


ここは、


こういうことである。


このあたりには、野々市小学校や


文化会館フォルテなどがあります。


そして157号線につながります。


しばらくは大通りと同じ道を進みます。


モォ~


そのうちにこの右の細い道に入ります。


ここですね。


旧街道の名残としては、

途中に神社がありました。

ほどなく


また157号線に合流したかと思えば、


少し進んで、


すぐさま芝寿しさんの店舗前から左に逸れる道に入ります。

町内イベントの弁当では芝寿しが定番ですよね。

このようなグネグネの道、
味方の本でもそうなってます。


そして


国道8号線に突き当ります。


今日はここまで。


味方の本ではここ。



今回はこれだけ進みました。



グーグルマップではこう



次回は松任中町編に続く。




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旧北国街道をゆく⑧金澤有松編

2018年11月03日 21時00分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
本日はここからです。

犀川大橋。

今日も味方の本! щ(゚ー゚щ)カッカッカモーン!
 

今日はここから野々市との境まで進みます。


オイラこのシリーズ気に入ってます
ちゃんと進むべく目標があって、今回はここまでときちっとしているところもいいのかも。

天気がいいです。


あそこに雨宝院が見えます。

行ってみよう

雨宝院とくれば室生犀星ですよね。


金沢三文豪の一人の室生犀星は三文豪の中では一番若く1889年~1962年の生涯でした。
犀星の犀は当然、犀川からとってます。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」が有名ですね。

「性に眼覚める頃」(大正八年十月)の一節。

雨宝院。

里子に出された室生犀星が幼少時代を過ごした寺です。犀星の作品によく登場するあんずの樹もここで見ることができるそうです。

近くには、

室生犀星記念館があります。

ここは室生犀星生誕地でもあります。



さて加賀藩では浅野川大橋と犀川大橋に橋番を置いたとのことです。
この犀川大橋の前にある犀川大橋交番は現在の橋番かな。

思えばオイラこの交番には嫌な思い出がある。
免許取りたての時、最初の交通違反は、
ここの交番のお巡りさんに朝のバス専用レーン違反で停められたことだった。

さて旧街道を進みましょうか。


早速、大きいのが出ました!

オイラ思うが、これ金沢で一番大きい樹木ではないかなと・・・。

神明宮にある、


この巨木は、


御神木である神明の大けやき、ここはパワースポットです。

樹齢千年超の名勝天然記念物。

社殿。



野町広小路交差点に来ました。


おっ!ビルングですな

ビルヂングってたしか名古屋に有名なのがあるよね。

この近くには、
にし茶屋街があります。


金沢三茶屋街のひとつで、

ひがし茶屋街と主計町茶屋街に比べると少し地味で観光客も少なめです。

交差点に戻って進もう。



ご存知の方も多いと思うが、この森紙店さんの屋根には石がいっぱい乗ってんだよね。



旧街道につながっているこういう雰囲気のよい小道に入ってみると、


忍者寺で有名な妙立寺の裏口に着いた。


表に周ってみる

ここには子供の頃に一度入ったきりです。
今度入ってみたいな。

裏口から出て、


今日一番来たかったお寺です。


願念寺。


オイラが街道を歩く際に携帯するこの味方の本。

まつお出版の北陸街道紀行ですが、
サブタイトルに、芭蕉「おくのほそ道」を織り込んでとなってます。

この本は旧街道を紹介するだけでなく、松尾芭蕉ゆかりの場所も紹介している。

こう書いてあります。
芭蕉と曽良は、七月一五日から二三日まで金沢に滞在した。ここで若き愛弟子の一笑の死を聞かされ追悼供養では句を手向ける。
「塚も動け我が泣く声は秋の風」を詠んだ。


そう三百年以上も前にこの寺で追悼会が行われ、松尾芭蕉が詠んだのだ。


小杉一笑、
芭蕉は一笑の死を相当悲しんだらしく、知らされたときに慟哭したとある。
※慟哭=悲しみの為に声を上げて激しく泣く。

一笑塚。


味方の本にも掲載されていました。


芭蕉ゆかりのこの寺に訪れてみたかった。



進もう


そして旧街道は、


ここで右の細い道へ逸れていくのだ。


このあたりに上口一里塚があったらしい。


旧街道らしく古民家が残っています。


ここは泉町。

氷屋さんだ。


そしてこのあたりに、


左前方のシャッター車庫の裏側を見てみると、


案内板があった。


上口松門跡の解説です。

春日町にあった下口松門跡は名残が残ってましたが、こちらは何もありません。
ちなみに上口と下口ですが、当時は京都方向が上となります。

こんな感じだったのかな。


進みますと、千代尼遺跡


あぁ念西寺さんか・・・


たしかにここは千代尼のゆかりの寺でもありますが、


その隅にひっそりとあるのは、昭和の悲しい証。


ジェット機墜落事故慰霊の碑です。


そうです、前にも紹介しましたが(#177戦闘機が落ちた町編)、

昭和44年にこの付近に戦闘機が落ちたんです。


そしてまさにここが現場です。


新聞記事から抜粋。


こんな感じで落ちてきたかと考えるとほんと怖ろしい出来事だ。




この辺りは旧街道の名残が残ってますね。


この国造神社には、


全国でも珍しい逆さ狛犬があります。


さてそろそろ、


国道157号線に出ます。


すぐ横には有松の交差点があります。


ここでカクンと右折します。


157号線を歩きます。


北陸一うまいまんじゅうとは、

一度ご賞味してみたい。

左手に見えてきたのは、


金沢有松郵政宿舎とあります。


今は使われていないようですね。

郵政公社時代の遺物ですね。

二万堂のバス停。


これは小学校のイスかな


文具スーパー事務キチの前を通って


見えてきました、伏見川です。


横川大橋。


ここです。


伏見川といえば桜の名所です。


今日は歩いていても気持ちいいです。


横川交差点が見えてきました。


この左手にある

金沢信用金庫伏見橋支店さんは特徴ある円形建物となってます。

この交差点は左折せず直進します。

少しだけ進みすぐさま左に逸れていきます。


高橋川沿いにあるのが旧街道です。


24時間とはご苦労様です。


お菓子の柴舟小出さんの裏を、

オイラあの柴舟はちょっち苦手、固いんだもん

橋が見えてきました。


橋を渡ります。


橋を渡ると野々市。

今日はここまでです。

金沢よさらば

味方の本ではここ。



今回はこれだけ進みました。



グーグルマップではこう



次回の野々市に続く。




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旧北国街道をゆく⑦金澤南町編

2018年10月22日 21時50分50秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
本日はここからです。

武蔵が辻交差点。

今日も味方の本! щ(゚ー゚щ)キャモーン!
 

今日はここから犀川大橋まで進みます。


旧街道は現在の国道157号線と同ルートですね。


まずは近江町市場。


むさし口から入ります。


このあたりは野菜や果物店が並んでいます。


加賀野菜は人気のブランドです。


早朝7時から開店する回転寿司屋さん。


少し奥へ入って行くとやっぱり多くの人たちがいました。


そのまま少し寄り道して、


尾﨑神社へ来ました。


東照大権現(徳川家康)を祀る神社です。

朱色が特徴的ですね。

徳川家の葵の御紋です。


旧街道に戻り進みます。


このあたりは南町と呼ばれます。

保険、金融、証券会社などのビルが立ち並ぶ金沢一のオフィス街で、

最近のホテル建設ラッシュは凄いもんです。


急激に増加した感があります。


驚くことに金沢のホテル客室数は名古屋を超える勢いだとか・・・、
すごいですねぇ新幹線効果は凄まじいものがあります。

おっ!


加賀てまりです


尾山神社ですね。


七五三の家族連れがおられました。


入ります。

地面に反射している鏡石

大きいです。


社殿。


おっ結婚式だ!

おめでとうございます。

オイラもここで式を挙げました、もう20年以上前ですけど・・・

前田利家公の鯰兜(ナマズのかぶと)


こちらは若かりし赤母衣時代の利家公。


境内の奥に進むと、


金沢城の鼠多門工事の様子が見れます。


あちらからこちら側へ鼠多門橋が架かるのです。




いしかわ四校記念公園です。

イベントやってるようですね。昔は金沢中央公園なんて呼ばれてました。

そして石川四校記念文化交流館です。


ここに旧制四校がありました。


全国に八つあったナンバー旧制高等学校。

第一高は東京、第二校は仙台、第三高は京都、第四高は金沢、第五高は熊本、第六高は岡山、第七高は鹿児島、第八高は名古屋である。

エリートが通う学校でいまでいう大学です。


旧制高等学校は1950年まで存在しました。


天気もいいので、ついでに兼六園を覗いて来よう。


はいどん!


相変わらずいいね


さて旧街道に戻り、香林坊交差点です。


この交差点には、香林坊地蔵尊があります。


そして、

走れ!です

ここには旧街道の名残があります。
香林坊橋。

案内板によるとここに香林坊橋があって、橋場町の枯木橋とともに金沢城の外郭となり城戸を構えて門番もいたとある。

こんな感じだったのかな。


香林坊は若者の町。


若者向けのお店が立ち並びます。


とてもオイラには似合わないなぁ・・・


むしろこっちの方が似合ってる。

昭和だねぇ





片町スクランブル。


この北国銀行ビルディング。

以前何気なくテレビを見ていたら、ビルディング愛好家の中でも評価の高いビルなんだってね。
よくわからんが窓枠の造りが良いとか悪いとか・・・。

まもなく本日のゴール。


犀川大橋です。


へぇ~。


今日はここまで。


味方の本ではここ。


う~ん風が気持ちいい!



今回はこれだけ進みました。



グーグルマップではこう



次回の金澤有松編に続く。



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旧北国街道をゆく⑥金澤尾張町編

2018年10月21日 21時00分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
本日はここからです。


では今日も味方の本!おいでよ щ(゚ー゚щ)カモーン!
 


ここから武蔵が辻まで進みます。

旧北国街道をゆくも、いよいよ金沢中心部へ入ってきました。


この浅野川沿いには金沢三茶街のひとつ主計町(かずえまち)があります。

ちなみにこの町、旧町名復活の国内第一号の町です。

橋場町の三叉路。

ここを右折

こういうものがあります。


出ました金沢鉄壁の守りである惣構ですね。


ほほう


なるほど何となくわかる。


枯木橋。


ここには石川県の里程元標があるのだ。

石川県の道路中心の場所ということです。

そうか、そこにある枯木橋は石川県の日本橋か

ガス燈



ここは尾張町。

尾張国の者が多く住んだ町です。
もう少し行くと近江町があって、そっちは近江国の者が多かったということ。

この通りには江戸末期から昭和初期にかけての建物が多く残っています。


これは線香ロウソク屋さん。


ここは金澤コクヨ、あの事務用品の?


そしてここは、この北国街道にとって重要なポイントでもある。


旧北国街道は、別の名で加賀街道とも呼ばれた。
加賀につながる道ということだ。

その街道の始点ともいう場所が、まさにこの交差点となる。

金沢城正門から延びる中町道りと接する場所。
それがここだ!この向こうに金沢城大手門がある。

では行ってみよう


ここだ。


門前に案内板がある。


金沢城大手門。


古地図も載っている。


大手堀です。


では城に入ろう。

いざ城内へ!!

新丸広場だ。

当時は重臣の屋敷があったり、細工所があった場所だ。

そして河北門から二の丸に入ります。


でました

金沢城二の丸にある菱櫓、五十間長屋、橋詰門続櫓の三点セット。

ついでに石川門も見て来よう。


さてと、
さっきの続きだが、北国街道は別名、加賀街道と呼ばれ、
その始発点はまさにここであった。


国内最大の大名が江戸に向けてここより出発!


こんな感じで・・・

(拝借
加賀の参勤交代は全国大名の中でも最大規模で、2000人から4000人の大移動であり莫大な経費がかかった。
加賀百万石に恥じない様な伝統と格式に裏付けされた華やかな大名行列は、沿道の庶民に藩と幕府の権威を示す為なのだ。




いざ江戸へ!


河北門を出て、


新の丸を抜け、


大手門(尾坂門)から


出ていくのだ。





NHK金沢も移転しましたね。


ほぉ、


大手門中町通りを歩き、
そして、この北国街道を右折して行くのだ。


これより、
金澤-津幡-竹の橋-今不動-高岡-小杉-富山-東岩瀬-滑川-魚津-三日市-浦山-船見-とまり-さかゐ-市振-親不知-青海-糸魚川-鍛治屋敷-能生-名立-有間川-長濱-高田-荒井-松崎-関山-二股-關川-野尻-柏原-牟礼-阿ら町-善光寺-丹波島-矢代-坂木-上田-田中-小諸-追分-沓掛-軽井沢-坂本-松枝-安中-板鼻-高崎-倉ヶ野-新町-本庄-深谷-熊ヶ谷-鴻の巣-桶川-上尾-大宮-浦和-わらび-板橋-本郷-日本橋
へと長旅が始まるのだ。


味方の本には、

参勤交代190回のうち180回が右折ルート、10回が左折ルートだったとのこと。

さてオイラは街道を左折する。



この尾張町は、前田利家の出身地である尾張から多くの商人を住まわせたことからその名が付き、藩政期では金沢の中心地でもあった。

今では信じられないが、昔の金沢ではここが城下町の中心だったのだ。
たしかに言われてみれば城の正面にある町だからねぇ。
これは旧北国街道全道程の中で、一番繁栄していた場所ということでもある。


昔からの建物が続く。


ここは尾張町老舗交流館。


面白いことが書いてあるぞ。


もちろん入ります、おじゃましま~す。


おぉ~、


この付近にある建物の絵ですね。


館長が丁寧に説明していただけました。

ありがとうございます。

隣の建物へ、


ここにも入ります。


昔の銀行。

北陸銀行の前身、金澤貯蓄銀行です。


さてここから旧北国街道は不思議な動きをとる。


真っ直ぐ行かずに、なぜか右折するのだ。


味方の本でもわかる。


なんでだ?


文章にも、

浅野川を浅野川大橋で渡り、尾張町に入りまもなく鍵形に袋町へ折れ曲がり、現在の・・・・とある。


城下町の特性として防衛上の観点から、
道路はできるだけ曲がったりクランクしたりするものとTVのブラタモリでもよく出る話であって。

いいね。


裏通りなんだけど、


ここが正式の北国街道なのです。


すぐに彦三大通りに出る。


そしてようやく武蔵が辻に到着~

名鉄エムザ(いや名鉄丸越)だ。

今日はここまでだね。


距離的には短いけど、ここはまさに北国街道の一番重要な場所であった。



グーグルマップではこう


次回は金澤南町編に続く。


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旧北国街道をゆく⑤金澤東山編

2018年10月15日 20時50分50秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
本日はここからです。


では味方の本 今日も おいで щ(゚ー゚щ)カモーン!



味方の本によると


今日はここより浅野川まで旧北国街道を歩きます。


ここから浅野川までの旧街道は現在の国道159号線とまったく同上である。



小坂神社があります。


そしてここは、卯辰山山麓寺院群「心の道」の起点でもある。

寺院巡りの好きな方はぜひここより歩いてみてください。
心の道は旧街道より一つ山側の細い道を歩きますが、セミの鳴く夏に歩くといいんだなぁ~

おっ今日は小坂神社の祭礼で露店が出てる。


小坂神社。


入ってみよう。


どん!どん!と太鼓が鳴っていた。


旧街道に戻り、しばらく行くと・・・


お寺につながる登り道が出てくる。


ここは光覚寺。


あの飴買い幽霊のお寺なのです。


(ネットより)
ある夜、店じまいした飴屋の雨戸をたたく音がするので主人が出てみると、青白い顔をして髪をボサボサに乱した若い女が「飴を下さい」と一文銭を差し出した。主人は怪しんだが、女がいかにも悲しそうな小声で頼むので飴を売った。 翌晩、また女がやってきて「飴を下さい」と一文銭を差し出す。主人はまた飴を売るが、女は「どこに住んでいるのか」という主人の問いには答えず消えた。その翌晩も翌々晩も同じように女は飴を買いに来た。飴屋はいったいどこの女かしらとそっと後を付けてゆきました。女はお寺の本堂横の暗がりに消えました。
そこには墓があって、新しく土盛のしている墓の中から、「おぎゃあ、おぎゃあ」という元気な赤ん坊の泣き声が聞こえたので近づくと赤ちゃんが母親の遺骸の側で飴をしゃぶりながら泣いていました。

とまぁこんな話ですが、この飴買い幽霊あるいは子育て幽霊の話は全国的に分布されている話のようです。

このお寺がねぇ、

きゃ~


さて心の道を歩いてみよう。


隣のお寺。


細い路地を進む。


心の道はとにかく雰囲気がいいんです。


そしてこの寺院群ではメインの場所ともいえる


全性寺です。


大きな草履が特徴です。


ふ~ん。


さて旧街道に戻ろう。





へぇ~古民家でパソコン修理屋とはおもしろい。


ここは東山。


このあたりは着物レンタル屋さんが多くあり、

多くの方が着て、このあたりを歩かれます。
やっぱ今流行りのインスタ映えですよね。

人混みが多くなってきました。


このあたりの観光スポットは、

やっぱり、ひがし茶屋街となります。

昔は木町なんて呼ばれていました。



自由軒。


ここで有名なのは昔カツ丼

ゆがいたキャベツがのって、東の廓の芸妓衆からの要望で生まれたカツ丼なのです。


いいですねぇ、


この通りが、


まさに金沢の顔ですかね。


いいねぇ


ひがし茶屋街がいいのは、ぐるりと回遊できるところだと思います。


そうだ、久しぶりに行ってみるか。


子来坂を登り、


宝泉寺へ


えっほえっほ


きたきた


おぉいい眺めです。

眼下は茶屋街です。

宝泉寺前の小さな公園。

懐かしいね、野性の証明でいったりきたり・・・


宇多須神社です。

心の道の終点(実はもう少しあるけど)

街道へ戻って歩くと


浅野川大橋が見えてきました。


今日はここまで。


今回は短い距離だったけど、
いろいろあるから寄り道ばっかりしちゃったね。


グーグルマップではこう



次回は金澤尾張町編に続く。


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旧北国街道をゆく④金澤鳴和編

2018年10月14日 19時16分01秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
本日はここからスタート


では味方の本 今日も щ(゚ー゚щ)カモーン!


今日は晴れなれど雲多しです。


さて味方の本によると、


ここからです。

旧北国街道は国道159号線から少し山手を沿って走ることになります。

この地は百坂(ももさか)と呼ばれており


左手の山へとつながる、


このような坂が百ほどあったからかな。


おや


大きな樹木。

保存樹指定番号111号、タブノキ、21mとある。

ここは熊野神社です。


おっいいね。

2024年に開封です。
オイラも小学校時代にタイムカプセル埋めたかったなぁ。


しばらくいくと、柳橋のバスターミナル。


ここは北陸鉄道バスの北部営業所。


どんどん進む。


山側環状線の神谷内ICにつながる道路を越えていきます。


お地蔵様だ。


その横に水準点!

水準点・・・水準測量に用いる際に標高の基準となる点のことである。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。

このあたりは少し高台になりますね。


このあたりにかって刑場があったはずです。

といっても江戸時代の話だからねぇ・・・。

右手に浅野川病院が見えます。ちょんと159号線に接して、


バウンドして、

わお!

再度くっつく。


旧街道は少しだけ159号線と重なります。


陸橋だ。


この陸橋には思い出があるなぁ、
可愛がってもらったお婆ちゃんの家から、近くの神社のお祭りへ連れていってもらった時に渡る陸橋。


ワクワクして登ったもんだ。


オイラは初孫だったから特に可愛がってもらったんです。

そのお婆ちゃん今は老人ホームに入居しています。

うん懐かしい風景だ・・・。

火の見やぐら


ここを進むと、野間神社があります。


ここはお婆ちゃんに、お祭りの出店でお面を買って貰ったというオイラにとっては懐かしい神社なのだが、

戦後しばらくだけ、あの悪名高き731部隊が滞在したというのです。

最近その事実を知って衝撃を受けた。

この用水にも思い出がある・・・。

お婆ちゃんが、「昔ここで河童を見た」って、嘘か真かそんなことも言ってたっけ。



ももの湯か


最近ではこういう銭湯がめっきり減りました。


右から読みますが「創業嘉永元年」とあります。

ちなみに嘉永元年は西暦1848年ですから、今から170年前ですね。
帰って調べると、ここは金物のお店で、鋸、鋏、鎌があって、売れ筋商品は爪切りということです。


ここから旧街道は左に入ります。


旧北国街道の案内石標もあります。


ちなみにこの建物

昔バーガーキングというハンバーガー店だった。
無茶苦茶美味かったなぁ~

大樋橋を渡り、


この地を大樋町と呼ばれるが、
あの焼物の大樋焼と関係あるのかな?


旧街道の名残が少し残ってますね。


神社がある。


児安神社


ここには子授石なるものがあるようです。


入ってみよう。


なかなかの雰囲気があります。


ありました。


これが子授石。


旧街道を進もう。


出ました!


左の一本の松が有名なんです。


ここになりますが。


大樋松門


ふむふむ


味方の本にはこうあります。

昔はここからが金沢の城下町だったということ。

説明板をズームアップ。


こんな感じだったのかな。


では、城下に入ろう。


う~む、昔の建物ですよね。

米酒店とある。

おや


石柱が立っている。

「石川県十名所義経旧蹟鳴和瀧」とあります。

義経というのはあの源義経のことである。

そうだね旧北国街道は義経・弁慶一行が京都から奥羽へ逃げ延びた道のりだから。

あの勧進帳で有名な安宅関を越えて、ここまでやって来た一行は、
この地にある滝の前で宴を開いたとされています。

ぜひ寄ってみよう。


少し坂道を登ります。


ここです。


鳴和の滝とは?


これです!


でこれが滝つぼ


この付近で義経弁慶一行が宴会されたということだが、


盛り上がったか怪しいもんである。

石川県十名所とあったけど、今では50番にも入るまいて・・・。

だって、これだもん・・・ちょろちょろちょろ・・・。


このあたりは狭い路地が延びてます。


また街道に戻って進みます。


おっ!


また火の見やぐら


国道159号線に接続。


ここです。


今日はここまで

今回はこれだけ進みました。


グーグルマップではこう


次回は金澤東山編に続く。


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旧北国街道をゆく③金澤森本編

2018年09月23日 23時10分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
今日はここからですね。

津幡から金沢に入りました。

では味方の本 今日もщ(゚ー゚щ)カモーン!


ココです。


おっ

「與一の道」とあります。
そう八田與一(はったよいち)さんですよね。
(與一は難しいので以降は与一と書きます。)

利屋町。

「とぎや」と呼びます。

この付近には利屋一里塚があったとあるけど、


位置的はここかなぁ、


味方の本にはこう書いてあります。
津幡を過ぎた北陸街道は、まもなく金沢に入る。一里塚があった利屋、松並木が見られる北森本町へ進むが、
かってこのあたりは、河北潟岸の湿地帯だった。

誓入寺。


花園児童クラブ。


天気がいいと気持ちいいね。


おっ出ました!


少し旧街道から逸れるが、行ってみよう。


山手の方にその神社はあります。


日本で唯一、香辛料の神を祀る神社、
波自加彌神社(はじかみじんじゃ)です。


これは山椒の木かなぁ。

山椒も香辛料のひとつだから、これは御神木ということになるんですかね。

さて旧街道に戻り、進みます。


左手に小学校が見えてきました。
花園小学校です。

そうです、ここが八田与一技師の母校です。

八田技師の像もあります。


(WEB歴史街道より)
八田与一 ~台湾で最も尊敬されている日本人~

烏山頭(うさんとう)ダムを建設し台湾の人々から今も慕われ続ける日本人です。
今も「台湾で最も尊敬されている日本人」と称される八田与一。彼の功績は台湾の教科書に写真入りで紹介されているそうです。

そんな八田は明治19年(1886)、石川県河北郡花園村に生まれました。
八田はその生涯のほとんどを台湾で過ごし台湾の開発に人生を捧げることになりました。
その最大の仕事は、嘉南平野に農業用水を供給するための灌漑工事です。

15万ヘクタールにも及ぶ嘉南平野は、河川が少ないために深刻な旱魃の危険に常にさらされた不毛の土地とされてきました。
八田はその大規模な水利工事の指揮をとりました。
ダムを建設して水源を確保し、さらに水路を平野に縦横に張り巡らせて、不毛の地を豊饒な大地へと変貌させようとしたのです。
工事は実に10年にも及びますが八田は陣頭指揮を執り続けました。
日本人も台湾人も一緒になって取り組み、八田は自ら率先して危険な現場にも足を運んで工員たちからも篤く信頼されたといわれます。
その結果、貯水量1億5千万㎥の大貯水池・烏山頭ダムと、嘉南平野一帯に16,000kmにも及ぶ細かく張り巡らせた水路がついに完成。
これによって潤された嘉南平野は、台湾最大の肥沃な穀倉地帯へと生まれ変わります。

台湾の人々は八田への感謝の気持ちを込めてダムが完成した翌年に八田の銅像を建てました。
その銅像は座った姿で右手を額のあたりに添えています。八田が考え事をしている時によくとっていたポーズでした。

しかし太平洋戦争中の昭和17年(1942)、フィリピンの綿作灌漑調査を命じられた八田は「大洋丸」に乗船して五島列島南方を航行中にアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて船が沈没して不慮の死を遂げます。享年56歳でした。


学校には台湾からの御一行来校記念碑がありました。


今でも交流があるのでしょう。


小学校のフェンスに稲わらを干しています。

いいですねぇ。

そして花園小学校のすぐ横にある立派なお宅、


このお宅こそ


大偉人、八田与一技師が生まれた生家なのです。


ちょっち、お邪魔しま~す

八田与一技師生誕地と刻んだ石碑。

石川県では毎年8月に日本全国で学ぶ外国人留学生、研修生と市民のふれあいのためのテント=『JAPAN TENT』が開催されていますが、

(拝借

台湾の参加者は、その期間中にこの八田技師の生家を訪ねているとのことです。

(拝借

お庭より色付いた木が見える。


なんの木だろう、綺麗な薄赤色の花が咲いていた。


偉大な八田技師のことを思いながら、
旧街道を進む。

横切る大通りを越えて、


山側環状線高架下をくぐると、


ここにあるように


松並木が現れます。


昔の風情が残っている貴重な場所です。


そこに、



石標があり、

石川県指定史跡 松並木の旧金沢下口往還 と彫ってあります。

そして説明板も設置されていました。

もう柿の季節ですか、

なるほど


さらに進むと、


橋が出てきた。

森本大橋。

森下川で上流方面を見る。

北陸新幹線の高架が見えます。

下流方面

川は河北潟へ注がれます。

橋を渡ると左手にお寺があります。


そして正面に陸橋が見えてきた。


登ります


左手に小さな公園があって、園内に道路元標があった。

ここに移設したようです。

右手に森本中学校と体育館。


上には新幹線高架、
下には在来線という陸橋です。


陸橋を下ります。


森本の中心部へ来ました。

右手にファミレ、今は芝居小屋になってます。

そして森本駅。


きっと北陸新幹線の高架でここが一番高いのではないだろうか。


古民家の背後に新幹線高架橋です。


北陸自動車道をくぐると、
左手に神社があった。

菅原神社。昔ここで白いヤギを見た記憶があんだよなぁ(記憶違いかな

百坂。「ももさか」と呼びます。


真っ直ぐではなく、


旧街道は斜め左に入って行きます。


脇に対のお地蔵さんがありました。


ここね。


今日はここまで。


今回はこれだけ進みました。


グーグルマップではこう



次回は金澤鳴和編につづく。



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