のと里山海道を走る。


今日は天気もいいので、
白山ホワイトロード
か 能登
に行くかで迷ったが、
カミさんの鶴の一声で能登の方になりました。
能登に行くならここは外せません。

千里浜なぎさドライブウェイ。
海岸の砂浜を走ることができる日本でも唯一の場所です。(世界でも3か所しかない
)

砂像がありました。

すごいもんです。
はい到着です。

中能登町のにある史跡「雨の宮古墳群」です。
最初に資料館に入りましたが、
高齢の係の方が、それはそれは丁寧に説明してくれました

これは複製ですが、木棺や骨は土に帰ってしまったそうですが、副葬品は何点か発見されたそうです。

ただし後世になって盗掘にあっているので、そのほとんどが奪われたようですが・・・
資料館うらから現地へ向かいます。

結構な距離で汗が出ましたけど


ようやく見えてきました。

雨乞いの場所でもあったこの場所に、

能登王墓の大きな前方後方墳があります。
のぼってみよう。

おぉ!

眺め最高!中能登の邑知平野が望めます。

次は、向うに見える山に行きます。
向うの山麓に小田中親王塚古墳といって第10代崇神天皇皇子の大入杵命が眠っているという俄かに信じがたい古墳があるのだが、
さきほどの資料館の係の方が言うには、大和政権に完全に服従していないここに眠る王との関係を良好とするためこの地に来たとかなんとか・・・。
いつか見学してみようと思っています。
眉丈山系から宝達山系へ邑知平野を横切ります。





さて目的地へ向かうため、山に上がりはじめましたが、
おいおいおいおい・・・

大丈夫かこの道、どうやら狭い林道に入ったようだ。
すぐ横は崖だし、道には落石の石が落ちてるし、こわ~
でも、あの方だってきっと・・・、
・・・・・・・・・・・(回想
)・・・・・・・・・・・・・・・・・、
唐突ですが、オイラが好きな作家の司馬遼太郎。

(拝借
)
「街道をゆく」の濃尾参州記の執筆中にお亡くなりになられました。
残念ながらこの街道シリーズで石川県には来られなかったのであります。
でももし先生がもう少し長生きされていたのなら、きっと「街道をゆく」の取材で石川県にも来ただろうし、
オイラが想像するに、司馬さんが県内で見て周ったとすればそれはきっと能登だったと思うんです。
お隣り福井県では、有名な永平寺を避けて誰も知らない宝慶寺という場所を訪れるくらいですから、
石川県では金沢なんかよりも、膨大な資料から見つけ出した好奇心に触れるような場所を選ぶに決まっている。
そしてこれから向かう場所は、きっと先生が訪れたに違いないとさえオイラは思うのであります。
あの場所には司馬先生好みの要素がたくさん含まれている。
・・・・・・・・(回想終了
)・・・・・・・・・・・・、
どうやら林道は古いルートであって、途中から整備された比較的広い道にぶつかって、
それよりなんなく目的の場所に着くことができた。
その場所は、こんな高い位置にあります。

これよりその域に入ります。

能登ではめずらしいブナ林の中にあるこのあたり一帯が、
かって大規模な信仰の聖地だったのであります。

その名も
国指定史跡、能登石動山であります。

ここはその中心となる大宮坊です。

誰も見学者はおりません。

不気味なくらい静かであります。

当然これは復元ですが、すごいです。

こんな山奥にこんな大規模な施設があったのです。
<資料館パンフより>
石動山(せきどうさん)は、古代から山岳信仰の霊山として栄え、最盛期には360余りの坊と3000人の宗徒を擁していました。
幾多の変遷の中、現在では伊須流岐比古神社と旧観坊などの建物が現存するのみですが、山内には当時を偲ばせる石仏や石塔、石垣、数多くの坊跡が残されています。
伊須流岐比古神社。

なんともすごい。

だいぶ朽ちてはきているけど、残すべき貴重な建造物です。

資料館に入ってみます。

最盛期はこの絵のように、多くの建物がありました。

パネル年表によると、

京都の有名なお坊さんや、公家さんが参詣に来たこともあったりしてましたが、
戦国の時代に前田利家によって全山焼き打ちにあったとあります。
まるで比叡山の焼き打ちと同じことがあったのです。
司馬遼太郎先生がもう少し長生きしていたなら、
石川県ではこの地に来たとオイラは思う。
タクシーのドライバーに無理を言って、先ほどオイラが登ってきたあの道は20年も前ならもっと悪路だったかもしれない、
なんとかやってきて、資料館もなく、ただただ残る石塔や石垣などの跡かたを見て、
先生は何を感じ、何を思い、何と書いたのだろうか・・・。

そして、まさかのここで御朱印がゲットできました。
ゲッツ!



石動山から麓まで下りてきて、カミさん推薦の神社へ。

天日陰比咩神社です。

別名二宮神社とも呼ばれています。

(ちなみに嵐の二宮さんの色は黄色です・・・
)
そしてここでもゲッツ!



それから七尾までやって来ました。


ここで来たかったのがここです。

とにかく広い場所です。

能登国分寺跡。

奈良時代に全国につくられた国分寺。

能登国ではこの地にあったということです。

最近できたという「のと里山里海ミュージアム」に入ります。

なかなか立派な施設で、

能登の事がいろいろ学習できました。
最後に、和倉の方へ行き、
カミさん目的の能登ミルクさんへ

むっちゃ旨かったって。

最後に近くの海辺の公園に来ました。

あれは能登島大橋です。

能登島もいいなぁ~
だけどもう時間がありませんからまた今度です。
さて家に帰ろう。


【ヒゲ親父】
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今日は天気もいいので、
白山ホワイトロード


カミさんの鶴の一声で能登の方になりました。
能登に行くならここは外せません。

千里浜なぎさドライブウェイ。
海岸の砂浜を走ることができる日本でも唯一の場所です。(世界でも3か所しかない


砂像がありました。

すごいもんです。
はい到着です。

中能登町のにある史跡「雨の宮古墳群」です。
最初に資料館に入りましたが、
高齢の係の方が、それはそれは丁寧に説明してくれました


これは複製ですが、木棺や骨は土に帰ってしまったそうですが、副葬品は何点か発見されたそうです。

ただし後世になって盗掘にあっているので、そのほとんどが奪われたようですが・・・
資料館うらから現地へ向かいます。

結構な距離で汗が出ましたけど



ようやく見えてきました。

雨乞いの場所でもあったこの場所に、

能登王墓の大きな前方後方墳があります。
のぼってみよう。

おぉ!

眺め最高!中能登の邑知平野が望めます。

次は、向うに見える山に行きます。
向うの山麓に小田中親王塚古墳といって第10代崇神天皇皇子の大入杵命が眠っているという俄かに信じがたい古墳があるのだが、
さきほどの資料館の係の方が言うには、大和政権に完全に服従していないここに眠る王との関係を良好とするためこの地に来たとかなんとか・・・。
いつか見学してみようと思っています。
眉丈山系から宝達山系へ邑知平野を横切ります。







さて目的地へ向かうため、山に上がりはじめましたが、
おいおいおいおい・・・


大丈夫かこの道、どうやら狭い林道に入ったようだ。
すぐ横は崖だし、道には落石の石が落ちてるし、こわ~

でも、あの方だってきっと・・・、
・・・・・・・・・・・(回想

唐突ですが、オイラが好きな作家の司馬遼太郎。

(拝借

「街道をゆく」の濃尾参州記の執筆中にお亡くなりになられました。
残念ながらこの街道シリーズで石川県には来られなかったのであります。
でももし先生がもう少し長生きされていたのなら、きっと「街道をゆく」の取材で石川県にも来ただろうし、
オイラが想像するに、司馬さんが県内で見て周ったとすればそれはきっと能登だったと思うんです。
お隣り福井県では、有名な永平寺を避けて誰も知らない宝慶寺という場所を訪れるくらいですから、
石川県では金沢なんかよりも、膨大な資料から見つけ出した好奇心に触れるような場所を選ぶに決まっている。
そしてこれから向かう場所は、きっと先生が訪れたに違いないとさえオイラは思うのであります。
あの場所には司馬先生好みの要素がたくさん含まれている。
・・・・・・・・(回想終了

どうやら林道は古いルートであって、途中から整備された比較的広い道にぶつかって、
それよりなんなく目的の場所に着くことができた。

その場所は、こんな高い位置にあります。

これよりその域に入ります。

能登ではめずらしいブナ林の中にあるこのあたり一帯が、
かって大規模な信仰の聖地だったのであります。

その名も
国指定史跡、能登石動山であります。

ここはその中心となる大宮坊です。

誰も見学者はおりません。

不気味なくらい静かであります。

当然これは復元ですが、すごいです。

こんな山奥にこんな大規模な施設があったのです。

<資料館パンフより>
石動山(せきどうさん)は、古代から山岳信仰の霊山として栄え、最盛期には360余りの坊と3000人の宗徒を擁していました。
幾多の変遷の中、現在では伊須流岐比古神社と旧観坊などの建物が現存するのみですが、山内には当時を偲ばせる石仏や石塔、石垣、数多くの坊跡が残されています。
伊須流岐比古神社。

なんともすごい。

だいぶ朽ちてはきているけど、残すべき貴重な建造物です。

資料館に入ってみます。

最盛期はこの絵のように、多くの建物がありました。

パネル年表によると、

京都の有名なお坊さんや、公家さんが参詣に来たこともあったりしてましたが、
戦国の時代に前田利家によって全山焼き打ちにあったとあります。
まるで比叡山の焼き打ちと同じことがあったのです。
司馬遼太郎先生がもう少し長生きしていたなら、
石川県ではこの地に来たとオイラは思う。
タクシーのドライバーに無理を言って、先ほどオイラが登ってきたあの道は20年も前ならもっと悪路だったかもしれない、
なんとかやってきて、資料館もなく、ただただ残る石塔や石垣などの跡かたを見て、
先生は何を感じ、何を思い、何と書いたのだろうか・・・。

そして、まさかのここで御朱印がゲットできました。
ゲッツ!




石動山から麓まで下りてきて、カミさん推薦の神社へ。

天日陰比咩神社です。

別名二宮神社とも呼ばれています。


(ちなみに嵐の二宮さんの色は黄色です・・・

そしてここでもゲッツ!




それから七尾までやって来ました。


ここで来たかったのがここです。

とにかく広い場所です。

能登国分寺跡。

奈良時代に全国につくられた国分寺。

能登国ではこの地にあったということです。

最近できたという「のと里山里海ミュージアム」に入ります。

なかなか立派な施設で、

能登の事がいろいろ学習できました。
最後に、和倉の方へ行き、
カミさん目的の能登ミルクさんへ

むっちゃ旨かったって。

最後に近くの海辺の公園に来ました。

あれは能登島大橋です。

能登島もいいなぁ~

だけどもう時間がありませんからまた今度です。
さて家に帰ろう。



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