45年にわたり日本の音楽シーンをリードし続けた坂本龍一。71歳を迎え、記念発売される『坂本龍一 音楽の歴史』より彼の足跡を一部抜粋。三島由紀夫の担当編集者でもあった父・坂本一亀の長男として生まれ1970年代、東京藝大に入学した日々を辿る。(全2回の1回目/ 後編を読む ) 【画像】2010年、YMOで共に一世を風靡した高橋幸宏、細野晴臣と演奏する坂本龍一を見る ◆◆◆
「学校の外の路上では何十万人規模のデモ隊と機動隊がぶつかりあっているのに…」
藝大に入学した坂本龍一は音楽学部の雰囲気に猛烈な違和感を感じたそうだ。とくにクラシックを学ぶ同級生たちは品の良いお嬢さん、お坊ちゃん的な空気を纏まとう学生が多く、自分のようなタイプの人間はそこでは異質な存在と思えた。 「学校の外の路上では連日何十万人規模のデモ隊と機動隊がぶつかりあっているのに、音楽学部の中はお花畑のようで、安穏とした雰囲気の中でお互い“ごきげんよう”なんて挨拶している世界(笑)。なるべく近づかないようにしていました」(※※) 三善晃や小泉文夫など魅力的な教官とその授業はあったものの、坂本龍一の足は次第に音楽学部から遠のき、道を一本隔てたところにある美術学部のキャンパスに入り浸るようになっていった。
もとより現代美術に関心があったこともあるし、美術学部の雰囲気に惹かれた。そこには自由な気風となにかしらおもしろいことが起こりそうな予感が満ちていた。 「よく憶えているのは、この頃にマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブルー』という大作アルバムが出て、衝撃を受けたんですよ。でも、音楽学部の級友は、マイルス? それ誰? という状態で、しかし美術学部の学生はみんな聴いていたんです」(※※) 音楽学部は時代の先端から隔絶された温室のように感じられてならなかった。こうして坂本龍一は美術学部の友人たちと芸術談義をし、みなでデモに繰り出す毎日を送るようになっていった。
大学1年の秋、過激な左翼学生だった坂本龍一は三島由紀夫の自決を聞いた
両方のキャンパスを覗くとやはりどこかスクエアで品のよい音楽学部と、ゆるくて猥雑な美術学部という印象がいまもある。坂本龍一は卒業後40年以上経った2015年に音楽学部で一度限りの特別講座を行ない、そのときは自分が在学していた頃とはずいぶん雰囲気が変わったと口にしたが、それでも音楽学部の生徒のお行儀のよさをどこかおもしろがっているようにも見えた。
提出した課題の作曲作品はいくつか譜面という形で現存している。課題として提出せざるを得ないためにきちんとした譜面にする必要があり、そのおかげで現存した。坂本龍一の藝大時代の提出課題で、譜面として残っているものには以下のものがある。
藝大時代の提出課題で残されている坂本龍一の譜面
Sonate pour Violin et Piano〈ヴァイオリン・ソナタ〉 「藝大の期末の演奏会で初演したもの。級友にヴァイオリンを弾いてもらって、ぼくはピアノ。尊敬する三善晃さんがパリの音楽院の学生の頃、フランスにはアンリ・デュティユがいて、三善さんは影響を受けたそう。それにぼくも影響を受けてこの『ヴァイオリン・ソナタ』も初期の三善さんやデュティユっぽくなっている」(※※) Quatuor à Cordes, études Ⅰ,Ⅱ〈弦楽四重奏曲 エチュードⅠ,Ⅱ〉 「これもやはり三善さんの影響を受けている。あとはベルクやバルトーク。この曲は『エチュード』と題しているように、弦楽四重奏のための習作。バルトークの影響は濃くても、それは戦前のバルトークで、1970年代にしてはすごく保守的な作品ではあります。そのぶん、藝大というアカデミックな場所では収まりはいいけれど」(※※)
Quatuor à Cordes〈弦楽四重奏曲〉 「先の『エチュード』を習作として書いたもの。『エチュード』にくらべて、こちらはもう少し1970年代の音楽に近づいている。そのぶん、いろんな当時の作曲家の影響を受けすぎていて、スタイルがまったく統一されていない。第四楽章になるといきなり高橋悠治さんっぽくなって、まったく別の曲のよう。それは当時、自分でもわかっていたけど、ひとつのスタイルでまとめるなんてくそくらえみたいな気持ちがあったんじゃないかな。八方破れで学校からの採点も低かったはず」(※※) これらの作品は、後年あらためて演奏され、録音されている。 「Quatuor à Cordes, études Ⅰ,Ⅱ〈弦楽四重奏曲 エチュードⅠ,Ⅱ〉」は2016年のコンピレーション・アルバム『Year Book 1971-1979』のために同年、ニューヨークで演奏されたものが収録された。 「Sonate pour Violin et Piano〈ヴァイオリン・ソナタ〉」と「Quatuor à Cordes〈弦楽四重奏曲〉」も同様に『Year Book 1971-1979』に収録されている。また、この二曲は2022年9月にも信頼する若手演奏家と再び録音された。 これらのほかに、吉本隆明の詩に音楽をつけたものなど、いくつかの作品の楽譜が現存している。
音楽教師になる可能性も考えて母校新宿高校へ教育実習に
また、音楽の教師になるという可能性も一応は考えて、母校新宿高校に教育実習で赴いたこともある。音楽の授業をすること自体はおもしろかったが、組織の一員としての教員に向いているはずもなく早々に教師の道は断念した。大学3年生のときには、音楽の家庭教師もアルバイトとして考え、生徒募集のビラを作ったこともある。ピアノ、楽理など藝大もしくは各音楽大学を目指す中高生のほか、「幼児音感教育」という幼児まで対象にしたものだった。 美術学部生や劇団員、そしてデモ仲間。何週間も家に帰らず、授業もさぼりがちだったが、それでも、千歳烏山の実家にはときどき戻る。 その千歳烏山に1971年の3月、小さくて不思議な店がオープンした。ジャズ喫茶のようなスナックのようなその店の名は『ロフト』。後に都内各地で同名ライブハウスをオープンさせ、東京でライブハウス文化を花開かせた平野悠による『ロフト一号店』だった。
はっぴいえんどを初めて聞いたのは『ロフト』だった
いつしか坂本龍一はこの店の常連となり、ときに相席の客と音楽論争を交わし、ときに店近くの桐朋学園大学音楽学部の生徒のレポートを代筆し、最後はいつも酔い潰れていたと平野悠は著書『ライブハウス「ロフト」青春記』(講談社2012年)で回想している。はっぴいえんどを初めて聴いたのもこの千歳烏山の『ロフト』でのことだった。 「あそこはロックもフォークもジャズもかけるような店で、あそこで初めて耳にした音楽というものがずいぶんあるんです」(※※) はっぴいえんどには驚いた。大学に入ってからは日比谷の野外音楽堂でのロックのフリー・コンサートによく行っていて、日本語のロックはどうあるべきかという関心もあった。 自分が感心した部分は同バンドのベーシストである細野晴臣というミュージシャンによるところが大きいと、やがて気づいていくことになる。
大学3年生で初めての結婚。女児が生まれ、家族を養うことに
そして、大学3年生のときには結婚をした。美術学部に在籍していた1年先輩の女性が相手だった。やがて女児も生まれた。 坂本龍一は大学生ながら家族を養うという意識に目覚めた。 最初は地下鉄工事など日給のいい肉体労働に励んだが、やはり向いていない。3日で音を上げて、今度は自分の得意分野のアルバイトをすることにした。ピアノの演奏だ。
銀座や西荻窪のシャンソン・バーでのピアノ演奏。美輪明宏ら有名歌手の伴奏もあれば、店に来た客の伴奏もあった。西荻窪の店では遊びに来た友人の柄本明の伴奏をしたこともある。 後年、自身がDJを務めるラジオ番組に柄本明を招き、その再現ということでスタジオで柄本明に歌ってもらい、ピアノの伴奏をしている。
大学生の時に生まれていた電子楽器への興味
まさに波乱の大学生活を送った坂本龍一だが、音楽の勉強はなおざりにすることがなく、とくに民族音楽と電子音楽の勉強には貪欲だったようだ。民族音楽は藝大の小泉文夫の授業には必ず出席。いっぽう、電子音楽の勉強に関してはシンセサイザーなど電子楽器を揃えた音響研究室に入り浸るかたわら、学外にも出かけた。作曲に数学的な手法を取り入れ、コンピューターを使って複雑な計算をしたいということで東京大学の工学部に赴いて勉強をした。
「大学3年生のとき東大の工学部にコンピューターを使って音楽を作る先生がいるということを聞いて、そのゼミを見学にいきました。IBMの巨大なコンピューターでパンチカードを七千枚ぐらい使って、それを読み込ませてコンピューターに音楽を弾かせる。でも、七千枚使っても自動演奏できるのはモーツァルトのソナタ程度なんだってがっかりした憶えがあります。コンピューターを使って人間の感情を入れず論理的、数学的に作曲したらどうなるかということに興味があったのだけど、その頃は簡単に使えるコンピューターもないし、残念ながらそのときはそこまでだった」(※※)
正統的な西洋のクラシック音楽はすでに袋小路に入ってこれ以上の進歩はないだろうと感じていたため、そこから外れた民族音楽を学び、電子音楽ではコンピューターを駆使すれば音楽エリートのプロパーな作曲家だけでなく、一般の人々でも音楽を作ることができるはず、そこに音楽の希望があると感じていた。これは、後にパーソナル・コンピューターが普及し、音楽関係のソフトウェア、アプリケーションが多く出現したことである程度は実現することになる。 ※2016年の『Year Book 1971-1979』(commmons)ブックレットのためのインタビュー取材(※※)から抜粋。 日本人初のアカデミー作曲賞を受賞することになる音楽家が素足にゴムサンダル、むさくるしい長髪で…坂本龍一が「アブ」と呼ばれていた飛躍前夜 へ続く