歯科医物語

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根尾昴  投球前 ルーチン 深呼吸 ポーズ カッコいい

2022-08-31 23:47:37 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)






 
 
 
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ゴルバチョフ (動画)

2022-08-31 23:30:15 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)

 

 
 

 
 
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「宗教」について

2022-08-31 22:46:48 | ☆エッセイ・コラム
宗教は 人間にとって 必要なものだと思う

何かに縋りたいという気持ちはだれにでもある

その宗教を 信仰し 救われれば その宗教に 合っていたということ

わたしの 父が 50年前 私と同じ 大腸がんになったとき

だれから 訊いてきたか 1人の宗教家が 我が家を 訪れた

この ネックレスを買うと がんがなおる といった

苦しんでいた母は そのネックレスを買った

しかし 効果 は 全く現れなかった



父はしばらくして死んだ・・・・

そのあとまた あの時と同じ宗教家が 現れた

父が死んだことを 母が 伝えると

お悔みと同時に「そういうようなこともある」と その宗教家は言った

そしてまた「お金を請求してきた」

わたしは 陰で、会話を聞いていた

また 母がお金を払うようだったら

出て行って お金を払うのをとめようと思った

幸い 母は お金を払わなかった



少し不満げな顔 をして その宗教家は帰っていった

その ネックレスは 私は ゴミ箱に捨てた




宗教がみな悪いとは思わない

しかし インチキ宗教もあることも事実・・・・


見極めが大事だと

いうことと お金がなければ 救われない 宗教は

やはり インチキだと思う



 

 
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「歯痛で悩むうぐいすのように」文学的すぎる楽譜指示

2022-08-31 22:34:25 | ☆歯科医物語




「歯痛で悩むうぐいすのように」 文学的すぎる楽譜指示に困惑! 「遊び心あって好き」「面白い」と話題に


文学的すぎる…!
 とある楽譜に記された指示が思わず「どうやって」と途方に暮れたくなる文言で笑いを誘っています。文学的表現すぎて困惑不可避! 【動画】演奏の様子  話題となっているのは、楽譜に書かれた「歯痛で悩むうぐいすのように」との指示。「歯痛」を音楽で表現するだけでも想像力を求められるのに、悩み主が「うぐいす」とは……。 



 ツイートをしたのは、音大生の藤重侑宇(@yuu09200920)さん。過去には「蚊との戦い」を表現したピアノ曲の演奏動画や西洋音楽史をざっと知ることができる架空のクラシック曲でも注目を集めました。  今回話題となった楽譜は、同様の独創的表現で知られる音楽家 エリック・サティによるピアノ曲「干からびた胎児」第1曲「ナマコの胎児」からの一節。Twitterユーザーからは「とても親しみを感じる スコアの中の遊び心のある言葉」「曲名や指示を読むだけで(その奇天烈ぶりから)サティだと分かる曲の一つ」「面白くて好きな作品」との声が集まっています。  ちなみに、楽譜にはうぐいすと表記されていますが、原文の「rossignol」は厳密には「うぐいす」ではなく「ナイチンゲール(小夜啼鳥/サヨナキドリ/夜鳴きうぐいす)」。日本で見られる「うぐいす」はフランスでは生息していないことを指摘する人もいました。



  同時に「原題の正しい翻訳がナイチンゲールだったとしても、鳥類に歯はないぞwww」と、生物学的矛盾にツッコミを入れる人も。一方で「(野鳥好きの母によると)夏の気温が高いときに鳴くウグイスは、確かに歯が痛そうなひどい声だった」との証言や、「フランスの音楽の世界でウグイスは実らない恋という意味があるようです」と比喩表現を考察する人の姿も見られました。



  実に面白いエリック・サティの言葉。他にはどんな文言があるのでしょうか。知的好奇心がくすぐられます。 画像提供:藤重侑宇さん
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ゴルバチョフ氏の足跡、

2022-08-31 22:16:49 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
ゴルバチョフ氏の足跡、日本の随所に 「生き様伝える」死去悼む



 30日に死去したソ連最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ元大統領は、日本とも縁浅からぬ政治家だった。大統領の在任中もそれ以降も来日しており、ゆかりのある人たちからは、その死を悼む声が相次いだ。
 

■長崎  ゴルバチョフ氏は大統領だった1991年4月、夫妻で長崎市を訪ねた。「チェルノブイリでは多くの子どもたちが放射能に苦しんでいる。最初に苦労を背負ったのは日本人で、私は敬意を払っている。だからここに来た」と語った。  被爆者団体「長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会」議長の川野浩一さん(82)は当時、他の被爆者団体のメンバーと爆心地公園でゴルバチョフ氏を出迎えて握手した。氏は車を降りて市民の歓迎に応えたという。  川野さんは「(ゴルバチョフ夫妻を)待っている時に『歩いてこちらへ向かっている』と聞いて驚いたが、それぐらい気さくな人だった。大国の大統領とは思えない笑顔で、温かい人柄が伝わってきた」と振り返る。「もし失脚していなかったら、ロシアはウクライナを侵攻せず、核政策も変わっていたのではないか」と惜しんだ。  ◇


 
■シベリア抑留  ゴルバチョフ氏は91年4月に大統領として来日した際、日本政府と協定を結び、第二次世界大戦後にソ連が抑留した日本人の死者約3万8000人の名簿を提供した。6万人とされる「シベリア抑留」死者の身元確認が進むきっかけを作った。  抑留経験者で新潟県出身の村山常雄氏(2014年死去)は07年、ロシア語表記の「ゴルバチョフ名簿」をカタカナに変換した資料を手がかりに、3万2000人以上の正確な漢字表記を含む4万6300人の名簿を自費出版し、ウェブ上に公開した。村山氏は著書で、ゴルバチョフ氏について「問題解決の具体的展開に大きく貢献した」と評価する一方「自国の加害責任についての反省と謝罪はついに表明せず、遺族や関係者の間に大きな不満を残した」と記していた。  シベリア抑留者支援・記録センター(東京)の有光健・代表世話人(71)は「協定はロシア政府に引き継がれ、抑留問題を日露間で協力して調査する根拠になり、名簿持参とともに意義があった。31年たったが実態の解明も遺骨の収集も未解決のままで残念だ」と話した。 

 

 ◇■ビザなし交流  ゴルバチョフ氏の来日に合わせて91年に根室海峡の日ソ中間線で「日ソ釣り交流」を企画した北海道根室市の小林邦弘さん(84)は「後に大統領の座を追われたが、ゴルバチョフ氏はビザなし交流という相互交流の枠組みを置き土産にしてくれた」と振り返る。  戦後、根室海峡には「見えない壁」があり、日本とソ連の関係を分断していたと考える小林さん。89年に米ソ冷戦時代の象徴と言われたベルリンの壁が崩壊すると、「次は『見えない壁』の番かもしれない。領土の返還が実現すれば日ソ混住の時代が来るかもしれない」と沸き立ったという。  ビザなし交流を経て、日露両国の友好は徐々に深まった。北海道大学の岩下明裕教授(国際関係論)はこの30年間を「日露関係の間氷期」と呼ぶ。だが、ウクライナ侵攻などの影響で、関係はすっかり冷え込んだ。小林さんは「ゴルバチョフ氏のような政治家がもう一度、現れてほしい」と述べ、その死を悼んだ。 
 

 ◇■広島  ゴルバチョフ氏はソ連崩壊後の92年4月に夫妻で広島市を訪れた。原爆資料館を見学し「歳月は広島の悲劇の甚大さを減少させはしませんでした。原爆犠牲者に対する記憶よ、永遠なれ」と記帳した。  当時市長だった平岡敬さん(94)は平和記念公園や原爆ドームを案内した際の会話が印象に残っている。チェルノブイリ原発事故(86年)で被ばくした人が数多くいることに言及すると、ゴルバチョフ氏は「核の問題は重大だ」という認識を示した。さらに核兵器について「お互いになくしていかないといけない」と述べ、平岡さんは「広島は核軍縮ではなく核廃絶と言っている」と応じたという。
  平岡さんは「チェルノブイリ原発事故で重要性が増した情報公開を進め、冷戦を終わらせた立役者。歴史を作った人だと思う」と悼んだ。

 


  ◇■沖縄  ゴルバチョフ氏は01年11月、那覇市長だった翁長雄志(おなが・たけし)前沖縄県知事(18年死去)の招きで那覇市を訪ねた。市長公室長だった宮里千里(せんり)さん(72)は「沖縄で長年続く保守と革新の対立を終わらせるため模索を始めていた翁長さんは、東西冷戦を終わらせたゴルバチョフさんからヒントを得ようとしていた」と振り返る。その上で「2人とも対立の中に切り込んで火の粉を浴びた。その生き様を伝えるのが私たちの役割かもしれない」と悼んだ。  市民会館で開かれたゴルバチョフ氏の講演会には立ち見も含めて2000人近くが集まった。「若い人にゴルバチョフさんを知ってもらいたい」という翁長氏の提案で、約150人の高校生も舞台に上がった。
 

  那覇市の庭園「識名(しきな)園」で催された歓迎会からの帰路。ゴルバチョフ氏は車を止めるよう求め、降りてピンクの花が満開のトックリキワタの木を見上げた。宮里さんは「米軍基地が集中する沖縄はソ連に向けられた刃(やいば)で、ゴルバチョフさんにも特別な島だった。島に咲く見事な花に感じるものがあったのだろう」と懐かしんだ。
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