日本人のコミュニケーション
端的に言うとひどく疲れます。
どうしてかな、、、と考え、自分の実例を元に自分なりの結論を出したいと思いました。
自分の実例(オマケ)は末文に載せておきます。(良ければどうぞ。)
結論:謎の空気とハイコンテクスト文化が決め手。
1.謎の空気について。
→詳しくは山本七平さんの『空気の研究』など元に作成された記事などを見てもらえば良いかと思います。
簡単に言うと場の空気に影響されると論理も科学的根拠も全て無視された結論が出してしまう、というもの。
私は未読ですが、上記著者の分析によれば世界大戦中の戦艦大和の特効ですら空気によって決定された、と見ているようです。
なるほどなー、、、と。
個人的には多少古典っぽくなりますが中根千枝さんの『縦社会の人間関係』の方が共感し易いウィットに富んだ解説が多いなので好きです。(こっちは既読)
他、検索して良い事言われてるなー、と思った記事がありましたのでリンクを貼っておきます。
(切れてたらすみません)
2.ハイコンテクスト文化
→こちらはいわゆる言語体系が高度に発達し過ぎている文化の事を指しています。
なんのこっちゃ?と思われると思うので概要を以下
コミュニケーションの背景や文脈の共有度が高く、言葉で示さなくてもなんとなくで意味が通じることが特徴のコミュニケーション方法
(Search Labs | AI による概要より)
要するにツーカーや暗黙を皆前提にして会話してしまっているって話ですね。
具体例を挙げるなら、亭主が食事中に「アレ」と言うと奥さんが食卓の醤油差しを手渡す、とかみたいな感じ。(さすがにこんなの現代の一般家庭では無いかと思いますが笑(^_^;))
「これ何が問題なん?」と疑問が出る方もいるかもですが、問題点は2つあります。
①社交性が欠落し易い。
②排他的性質が生まれやすい。
それぞれどういう事か説明すると、
①
→同じ文脈・背景を理解している人としかスムーズなコミュニケーションが取れない
②
→①の理由から、必然的に同じグループ以外の人間とはコミュニケーションのコストが増加する為、同じグループ以外との関係が億劫になり、1つのコミュニティに依存し易くなる上、コミュニティ自体も閉鎖的になる。
ちょっとコレは深刻です。個人的には両方致命的。
①【同じ文脈・背景を理解している人としかスムーズなコミュニケーションが取れない】
→これはつまり文脈や背景を共有出来ていない相手とのコミュニケーションが下手くそという事です。
日本語の構造にも現れていますが、主語が無くても会話が成立したり、アレ・ソレなどの指示語でも意思疎通が出来るのはあくまで前提が共有されている輪の中だけ。
結局それじゃあ輪の外にいる人には意味が通じないですね。
昨今は経済的観点から考えても価値観や人種が違いを超えて世界的にも交流をしていかなければ生き残れない時代です。
そこで、こうした言語文化からくる社交性の欠落を未だに克服どころか自覚すら出来ていない日本人は、自分たちの立場を不利なところに置くことになるのだと思われます。
(もちろん、日本人同士でもグループが違えば意思疎通がままならない状況も散見されますので、困るのは何も外国人との関係だけに止まらないでしょうけどね)
②は排他性と特定のグループへの依存度を高める作用は、上手くグループに溶け込めず排斥される立場の人を生み出したり、個人がグループの同調圧力によって息苦しさを生み出す構造がある事を指しています。
分かりやすく言えば、「身内」と「それ以外」という極端な区別を促進し、「それ以外」へ分類された人に対しては無関心になるという事です。
これは言語特性に従ってコミュニケーションが取りやすい=楽な関係性を好み、結果として多くの日本人が社交性を身に付けるよりも居心地の良い閉じたコミュニティを求める為に起こる現象です。
ただここで困ってしまうのは、そうした構成が常時まかり通ってしまう事は社会的コストの増大を生み出す点です。
何の話かというと簡単で、どんなに大きくても同じ文脈を共有できるコアなグループの規模はどうしても簡単に大きくは出来ません。それは
現在自分は派遣で夜勤ありのシフト勤務をしているのですが、1班5人で構成されてる割に、わりかし会話が無い職場にいます。
もちろん構成メンバーにもよるのでしょうが、どうにもコミュニケーションが疲れます。
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