【FJ通信】 ど真ん中ストレートで転生輪廻
2012年07月14日
土佐のくじらさんの日記転載
さて、
「反省すれば、また新たな人生を始めることができる。」と正悟は言い、
「人間は魂が本質で、神とはそこが同じなのだ。」とも言いました。
【【FJ通信】 何が彼らをそうさせるのか
http://blog.goo.ne.jp/ziyuunakaze/e/22f8df018dbc39e94f91a2dbbd20089c
神と人間との同一性・・・
これは聖書を中心とする宗教では、あまり馴染みのない考え方です。
羊飼いと羊の喩えのように、神と人間は違うもの・・・
という、非同一性の方が、聖書圏では一般的です。
仏教では、仏と人間とはかなりの境涯の違いはあれど、
本質的な違いはありません。
神道でもそうですね。
それは仏陀釈尊が、生身の人間でありながら、
仏の悟りを得た事が由来だろうと思います。
また神道に関しては、そのある意味での、登場する
神々の人間臭さ・・・からかも知れません。
聖書圏では、人間は神の被創造物であって、初めから違うもの・・・
という認識が強いです。
一方仏教や神道では、
人間が神仏によって創られた存在・・・という意識は、
聖書圏宗教よりも、
はるかに弱くなってしまいます。
映画FJで説かれた宗教観は、これらを包括するものです。
もちろんこれは、幸福の科学の宗教観ではあります。
しかし、映画という視覚コミュ形式で、全世界に一般公開されるのは、
人類史上初めてでありましょう。
しかも、聖書圏の方々にとって、極めてメッセージの
伝わりやすい配慮と工夫を、この作品は内包しております。
神と人間は、親と子の間柄である
この一言は、聖書圏宗教のみならず、東洋系の宗教をも、
正悟の言葉の下の傘下におさめるだけの、意味と力を
内包しているのです。
そして人間は、
永遠の生命を持ち、魂としていき続ける存在なのですが、
それは反省を通して、やり直すこともできる
ということは、すなわち、
間違ったからといって、永遠の豪火に焼かれるわけではない・・・
ということです。
死後においても、反省すればやり直せる・・・ということであって、
キリスト教における死後の世界観は、正悟の言葉を受け入れるなら、
捨ててしまわないといけないのですね。
捨ててしまわないといけない・・・と書きましたけど、
教会からそう言って、ある意味脅されているわけですから、
これは
魂の開放・・・でもあるわけです。
「神の慈悲でもある反省、その反省をすればやり直せる。」
それが、転生輪廻でもあるわけなんですね。
ここをズバっと、正悟は突いてきます。
「そして人はまた、生まれ変わってくるのです。」
「これが、神の創られた世界の真実です。」
こう言いきっております。
聖書圏、特にキリスト教においては、転生輪廻の思想を嫌います。
その思想があるだけで、邪教と認定するほどです。
しかし神が愛であり、
「人間をどんなときでも、愛し続けているのが神。」であるならば、
転生輪廻を許す神と、許さない神、
一体どちらが、愛深き神なのでしょうか?
キリスト教圏においても、転生輪廻の思想は広まっております。
ただ頑なに、教会がそれを拒んでいるだけです。
黙示録の時代に無力な教会、そして黙示録の時代を超え、
それを終わらせるだけの力と、具体的な指針に満ちた、
現代の救世主(鷲尾正悟=大川隆法)の思想・・・
この両者を、海外の観客は、選択する必要に迫られるのです。
これもまた、ファイナルジャッジメント=最後の審判であります。
宗教的に極めて重要なメッセージであり、なおかつ重要であるがゆえに、
かなり、ズバッと感のある言い切りスタイルで、
受け入れるか否か!
この作品では珍しい、そういう雰囲気を感じるシーンであります。
(続く)
。